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歴史テスト前夜に寝落ちしたら、ポンコツ偉人たちのコンサルタントになっていました 〜JK歴女が偉人たちに歴史的決断をさせるまで〜  作者: 牧野ハル


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第27話:砦の最後と、背負った十字架

織田軍は、重い沈黙の中を進んでいた。


熱田社で響いた吉兆の熱狂は、もうどこにもない。


丸根と鷲津への後詰は出さぬ。


信長さんがそう命じた瞬間から、兵たちの顔には、はっきりとした迷いと不信が浮かんでいた。


誰も大声を出さない。


誰も笑わない。


ただ、濡れた土を踏む足音と、甲冑の擦れる音だけが、低く続いている。


「善照寺砦へ向かう」


信長さんは、そう命じた。


だが、その理由を詳しく語ることはなかった。


だから兵たちは分からない。


なぜ丸根を助けないのか。


なぜ鷲津へ向かわないのか。


なぜ、燃える砦を背にして、別の場所へ進まなければならないのか。


分からないまま、ただ命令に従って歩いている。


その空気は、戦場へ向かう軍勢というより、葬列に近かった。


私は藤吉郎くんと並んで、軍の後方を必死についていった。


ぽつぽつと降り始めた雨が、少しずつ粒を大きくしている。


まだ豪雨ではない。


けれど、空は確実に重くなっていた。


南東の空には、黒煙が立っている。


丸根。


鷲津。


二つの砦から上がる煙は、さっきよりも太く、濃くなっていた。


「史花様……」


藤吉郎くんが、震える声で言った。


「殿は、本当にこのまま助けに行かねえのかだわ」


私は答えられなかった。


答えは分かっている。


行かない。


行けない。


それでも、その言葉を口にすることができなかった。


遠くの煙の下には、人がいる。


生きている人がいる。


信長さんを信じて、援軍を信じて、最後まで槍を握っている人たちがいる。


その人たちを、私たちは置いて進んでいる。


その事実が、胸の中に重い石のように沈んでいた。


「注進! 注進申し上げます!!」


突然、前方から悲鳴のような声が上がった。


軍勢がざわめく。


泥まみれの伝令が一人、馬から転げ落ちるようにして駆け込んできた。


兜は失われ、髪は雨と泥で顔に張り付いている。


肩のあたりには折れた矢が残り、鎧の隙間から赤黒い血がにじんでいた。


それでも伝令は、両手をついて、必死に顔を上げた。


「申し上げます……!」


その声を聞いた瞬間、誰もが悟った。


良い知らせではない。


信長さんは馬上で振り向いた。


「申せ」


低く、短い声だった。


伝令は、喉の奥から血を混ぜるようにして叫んだ。


「丸根砦……陥落にございます!」


その言葉が、湿った空気を叩き割った。


「丸根、陥落……」


誰かが呆然と呟く。


伝令は、震える声で続けた。


「三河の松平元康勢、夜明けより猛攻を仕掛け、火をかけ、柵を破り、幾度も突撃を重ねました。守将、佐久間大学盛重様は、最後の最後まで大身の槍を振るわれ、敵を幾人も討ち取りましたが……多勢に無勢」


伝令の声が詰まった。


それでも彼は、言わなければならないことを言った。


「佐久間大学様、討死にございます……!」


「大学殿……!」


柴田勝家さんが、獣のような声を漏らした。


その大きな体が、ぐらりと揺れる。


だが、伝令の報告は終わらなかった。


「さらに……鷲津砦も、今川方の朝比奈勢らの猛攻を受け、火矢を浴び、櫓を焼かれ……ついに突破されました」


林秀貞さんが、顔を覆った。


「鷲津もか……」


「織田玄蕃様、飯尾定宗様らは、砦内にて最後まで防戦。されど、敵兵は次々に押し寄せ……」


伝令は、額を泥にこすりつけた。


「両名とも、討死ににございます……!」


誰も声を出せなかった。


雨音だけが聞こえる。


丸根砦、陥落。


鷲津砦、陥落。


佐久間大学盛重、討死。


織田玄蕃、飯尾定宗ら、討死。


歴史の教科書なら、たった数行で終わる出来事。


でも、今この場では違った。


それは、名前のある人たちの死だった。


共に戦ってきた仲間の死だった。


援軍を信じていた者たちの、最後だった。


「……殿」


勝家さんが、ゆっくりと信長さんを見上げた。


その顔は、怒りと悲しみでぐしゃぐしゃになっていた。


「大学殿は……死にましたぞ」


信長さんは何も言わない。


勝家さんは、泥の中に膝をついたまま、拳を握りしめた。


「織田玄蕃殿も、飯尾殿も……皆、死にましたぞ」


雨が、勝家さんの頬を伝う。


それが涙なのか雨なのか、もう分からなかった。


「殿が、後詰を出さなかったからだ」


その言葉に、周囲の兵たちが息を呑んだ。


勝家さんは止まらなかった。


「殿が、見殺しになされたからだ!」


空気が凍りつく。


主君に向けて放つには、あまりにも重い言葉だった。


だが、誰も勝家さんを責められなかった。


皆、同じ思いを抱いていたからだ。


助けに行けたのではないか。


間に合ったのではないか。


せめて一隊だけでも送れたのではないか。


そんな思いが、兵たちの胸にも渦巻いている。


そして、その視線がすべて、信長さんへ突き刺さっていた。


「殿」


林さんが、震える声で言った。


「これで、丸根と鷲津は失われました。大高城への道は開きました。今川は勢いづきましょう。……我らは、何のために見捨てたのですか」


その問いは、静かだった。


だからこそ、痛かった。


信長さんは、馬上でじっとしていた。


目を閉じている。


手綱を握る指は、白くなるほど強張っていた。


私は、彼の横顔を見つめた。


また折れてしまうのではないかと思った。


今度の重さは、これまでとは違う。


敵の数が怖い。


作戦が失敗するかもしれない。


そういう恐怖ではない。


自分の命令によって、味方が死んだ。


その現実が、今、言葉として突きつけられたのだ。


佐久間大学さんは死んだ。


織田玄蕃さんも、飯尾定宗さんも死んだ。


信長さんが助けに行かないと決めたから。


その十字架が、彼の背中へ本当に乗った瞬間だった。


「……っ」


信長さんの肩が、ほんのわずかに震えた。


胸を押さえるように、片手が動く。


私は思わず一歩踏み出しかけた。


「信長さん……」


けれど、彼は崩れなかった。


震えた手を、自分の胸の上で強く握りしめる。


まるで、胸の中で暴れ出しそうな何かを、力ずくで押さえ込むように。


長い沈黙。


雨が、地面を叩く。


黒煙が、空へ溶けていく。


やがて信長さんは、ゆっくりと目を開いた。


その目を見た瞬間、私は息を呑んだ。


そこにいたのは、怯えて震える若い当主ではなかった。


罪悪感から逃げ出そうとする、弱い人間でもなかった。


自分が死なせた者たちの名を、真正面から受け止めた人の目だった。


痛みも、後悔も、怒りも、全部ある。


でも、それに呑まれてはいない。


全部を腹の底に沈めて、それでも前を向いている目だった。


「佐久間大学盛重」


信長さんが、低く言った。


「織田玄蕃。飯尾定宗」


彼は、一人ずつ名を呼んだ。


「大儀であった」


その声は、静かだった。


だが、不思議なほど遠くまで届いた。


「殿……?」


勝家さんが、涙に濡れた顔で信長さんを見る。


信長さんは、黒煙の方角を見据えたまま続けた。


「奴らは、織田のために死んだ。尾張のために死んだ。わしの命に従い、最後まで砦を守り抜いた」


勝家さんの拳が震える。


「ならば、わしが泣いて詫びれば済むのか」


誰も答えない。


「すまぬと口にすれば、奴らは戻るのか。わしの心が少し軽くなれば、それで奴らの死は報われるのか」


信長さんの声が、少しだけ低くなる。


「違う」


彼は、はっきりと言った。


「奴らの死を報いる道は、一つしかない」


信長さんは、腰の太刀の柄に手を添えた。


「義元の首を獲ることじゃ」


雨音の中で、その言葉だけが鋭く響いた。


勝家さんが、言葉を失う。


林さんも、兵たちも、誰もが信長さんを見つめた。


「丸根と鷲津は失われた。だが、それにより今川の先鋒は力を使い果たした。松平も朝比奈も、砦を落とすために血を流し、兵を疲れさせた」


信長さんの瞳が、黒く光る。


「そして、義元はこう思う」


彼は、遠くの煙を睨みつけた。


「織田の前線は崩れた。大高への道は開いた。尾張など、もはや踏み潰すだけだ、と」


その声を聞いて、私は背筋が震えた。


信長さんは、もう次を見ている。


砦の死に呑まれていない。


その死が敵に何を思わせるか。


その死によって、戦場の盤面がどう動くか。


その先を見ている。


「奴は油断する」


信長さんは言った。


「勝ったと思う。進軍を急がず、兵を休ませる。己の大軍に酔い、守りを緩める」


林さんが、はっと顔を上げた。


「まさか……殿は……」


信長さんは、林さんを見なかった。


ただ、南の空を見ていた。


「大学たちは、最後まで戦った。だからこそ、今川の先鋒は疲れた。だからこそ、義元は勝ったと信じる」


彼の声に、熱が宿っていく。


「奴らの死は、ただの敗北ではない。義元の喉元に刃を届かせるための道を、血でこじ開けたのだ」


勝家さんの表情が変わった。


怒りと悲しみだけだった目に、理解できないものを見るような色が混じる。


「殿……初めから、これを……?」


信長さんは、答えなかった。


肯定もしない。


弁明もしない。


ただ、短く言った。


「泣くのは後じゃ」


勝家さんの肩が震える。


「今は、奴らの死を抱えて進め」


その言葉は、命令だった。


慰めではない。


救いでもない。


だが、不思議と誰も反論できなかった。


信長さんが、最も重いものを背負っているのが分かったからだ。


誰よりも責められて当然の男。


誰よりも恨まれて当然の男。


その男が、逃げずに立っている。


死んだ者たちの名を呼び、その死を自分の勝利に変えると宣言している。


それは、人として優しい姿ではなかった。


けれど、大将の姿だった。


「……大学殿」


勝家さんが、泥の中で低く呟いた。


「織田殿。飯尾殿……」


彼は、拳を地面に押しつけた。


「この勝家、泣くのは後にいたしまする」


そして、顔を上げた。


その目はまだ赤い。


だが、さっきまでのように信長さんを責めるだけの目ではなかった。


「殿。某にできることを、お命じくだされ」


信長さんは、勝家さんを見下ろした。


ほんの一瞬だけ、その瞳に何かが揺れた。


それは、感謝だったのかもしれない。


あるいは、死者への祈りだったのかもしれない。


でも次の瞬間、信長さんの顔は再び引き締まった。


「全軍、善照寺砦へ急ぐ」


「はっ!」


勝家さんが、深く頭を下げた。


林さんも、他の武将たちも、まだ複雑な顔をしていた。


完全に納得したわけではない。


信長さんへの不信が消えたわけでもない。


丸根と鷲津を見捨てた痛みは、簡単には消えない。


それでも軍は、もう一度動き出した。


今度は、ただ命令に引きずられているだけではなかった。


胸の中に、死んだ者たちの名を抱えて。


その死を無駄にしないために。


「史花様……」


藤吉郎くんが、ぽつりと言った。


彼の顔も、涙でぐしゃぐしゃになっている。


「殿って……怖いだわ」


「うん」


私は頷いた。


「でも、逃げなかった」


「逃げなかっただわ……」


藤吉郎くんは、信長さんの背中を見つめた。


「オラだったら、あんなの絶対に耐えられねえ。みんなから責められて、味方が死んだって言われて、それでも前を向くなんて……」


私も同じだった。


私なら、耐えられない。


泣いて謝って、全部話して、誰かに分かってほしいと縋ってしまう。


でも、信長さんはそれをしなかった。


自分の苦しさを軽くするために、作戦を明かすことをしなかった。


ただ、背負った。


丸根と鷲津の死を。


家臣たちの憎しみを。


勝たなければ意味がないという、残酷すぎる現実を。


「これが……織田信長なんだ」


私は小さく呟いた。


教科書に載っていた名前。


歴史上の英雄。


第六天魔王。


その肩書きの下にある、本当の重さを、私は今、目の前で見ていた。


織田軍は、再び南へ進む。


丸根と鷲津の煙を背にして。


空はさらに黒くなり、雨粒は少しずつ強さを増していく。


そして私たちは、まだ知らない。


この砦の陥落が、今川義元をどれほど油断させるのか。


彼がどこで足を止めるのか。


その決定的な報せが、もうすぐ届くことを。


歴史の歯車は、血と炎を飲み込みながら、桶狭間へ向かって回り始めていた。

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