表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
歴史テスト前夜に寝落ちしたら、ポンコツ偉人たちのコンサルタントになっていました 〜JK歴女が偉人たちに歴史的決断をさせるまで〜  作者: 牧野ハル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/25

第19話:人間五十年、下天の内をくらぶれば

永禄三年五月十九日、夜明け前。


清洲城の広間は、数時間前と同じように重苦しい空気に包まれていた。


けれど、その質は明らかに変わっていた。


先ほどまで「軍議を開け」と猛り狂っていた家臣たちは、一度「寝ろ」と理不尽に追い返されたにもかかわらず、再び広間へと呼び集められていた。


彼らの顔には、一睡もできなかったであろう疲労が濃く浮かんでいる。


そして、それ以上に深い絶望があった。


殿はついに狂ったのではないか。


織田家は本当に終わるのではないか。


その思いが、誰の顔にも張り付いていた。


開け放たれた縁側の向こうでは、東の空がごくわずかに白み始めている。


夜明けが近い。


しかし、伊勢湾の方から流れ込む湿った風は、ますます重くなっていた。空には厚い雲が垂れ込め、生温かい空気が城内をゆっくりと吹き抜けていく。


信長さんと共に読み取った、大雨の兆し。


その気配が、確実に尾張の大地を包み込みつつあった。


「……皆の者、よく集まった」


上座に現れた織田信長の声は、驚くほど静かだった。


しかし、その声は広間の隅々にまで通った。


広間に居並ぶ柴田勝家、林秀貞ら重臣たちは、無言のまま平伏している。


けれど、その背中からは、強烈な不信感が立ち上っていた。


今さら何を言うつもりだ。


そんな空気だった。


「殿……」


勝家さんが、血走った目で顔を上げた。


「夜明けにございます。もはや一刻の猶予もありませぬ。丸根と鷲津の砦を救うため、今すぐご下知を。……それとも、本当に我らにこの城で腹を切れと仰るのですか」


その声には、怒りを通り越した悲痛な響きがあった。


しかし、信長さんは答えなかった。


奇襲をかけるとも言わない。


砦を見捨てるとも言わない。


今ここで作戦の核心を話せば、勝家さんたちは必ず反対する。


兵を分けようとする。


丸根と鷲津を助けようとする。


そうなれば、義元の本陣だけを叩くための一点集中は崩れる。


信長さんは、それを分かっている。


だから、口を閉ざしている。


信長さんはただ、家臣たちを見下ろしたまま、傍らに控えていた小姓に短く命じた。


「……扇を持て」


「はっ」


小姓が慌てて立ち上がり、舞扇を差し出した。


その扇を見た瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。


まさか。


まさか、ここで。


戦国時代。


織田信長。


出陣前。


そして、扇。


歴史好きなら、誰でも知っている。


この瞬間に起きることは、ただ一つしかない。


私は広間の隅で、思わず両手で口を覆った。


信長さんは、ゆっくりと扇を手に取った。


そして立ち上がる。


広間の空気が、ピンと張り詰めた。


勝家さんも、林さんも、何が始まるのか分からず、ただ呆然と上座を見つめている。


信長さんは板間を一歩踏みしめた。


ドン、と低い音が響く。


そして、腹の底から絞り出すような声で謡い始めた。


「思へばこの世は、常の住み家にあらず……」


息が止まった。


これだ。


幸若舞『敦盛』。


敦盛とは、源平合戦の時代に討ち死にした、平家の若き武将・平敦盛の物語を題材にした舞だ。


平敦盛はまだ十代の美しい若武者だったと伝えられている。

一ノ谷の戦いで敗れ、海へ逃れようとしたところを、源氏方の武士・熊谷直実に呼び止められ、討ち取られた。


けれど熊谷直実は、敦盛の顔を見て激しく迷ったという。


目の前にいたのは、敵将というより、自分の子と同じ年頃の若者だったからだ。


それでも戦場では、情だけで命を救うことはできない。

直実は敦盛を討ち、その後、戦のむなしさと人の世のはかなさを深く思い知り、やがて出家したとされている。


『敦盛』は、その悲劇をもとにした舞だった。


命は短い。

どれほど若く、美しく、将来があっても、戦場では一瞬で散る。

人の世は、夢や幻のようにはかない。


そういう無常を謡う演目だ。


だからこそ、戦場へ向かう武士たちの心に深く刺さった。


そして今、その『敦盛』を、織田信長が舞おうとしている。


死ぬのが怖くないからではない。


死が怖いからこそ。


味方を見捨てる重さも、四万とも噂される敵へ突っ込む恐怖も、すべて自分の中に押し込めるために。


信長さんは、扇をゆっくりと開いた。


武骨で、荒々しく、けれど不思議な気品のある所作だった。


「秋の葉の、木の葉に置く露、おそし早し……」


声が広間に沈み込む。


「散りゆくならひ、これあはれなり……」


勝家さんたちは、言葉を失っていた。


軍議を開くと思って呼び戻された。


出陣の方針が示されると思っていた。


それなのに、総大将は突然、舞い始めた。


普通なら、狂ったと思われてもおかしくない。


けれど、私は違うと分かっていた。


これは逃避ではない。


これは、信長さんが自分自身を死地へ送り出すための儀式だった。


あの寝所で震えていた青年。


四万とも噂される大軍を想像して、膝を抱えていた若き当主。


家臣に作戦を説明できず、一人で重圧を抱え込んでいた人間。


その弱さを、自分自身の手で斬り捨てるために、彼は今、舞っているのだ。


「……人間五十年」


信長さんの声が、一段と大きくなった。


広間の空気が震えた。


「下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり……!」


その一節を聞いた瞬間、背筋に電流が走った。


人間五十年。


それは「人の寿命は五十歳」という意味ではない。


人の一生など、天上の時の流れに比べれば、夢や幻のように儚い。


どれほど恐れても、どれほど逃げても、いつかは必ず死ぬ。


ならば。


この一瞬に、命を燃やせ。


信長さんの声が、そう叫んでいるように聞こえた。


「一度生を享け、滅せぬもののあるべきか……!」


ドンッ!!


信長さんが、強く板間を踏み鳴らした。


その衝撃で、広間の空気がびりりと震えた。


私は瞬きもできなかった。


彼は、死を恐れていないから舞っているのではない。


恐ろしいから舞っている。


怖くて足がすくむから。


味方を見捨てる罪悪感に潰されそうだから。


四万の敵に呑み込まれる未来が、頭から離れないから。


だからこそ、声を出し、体を動かし、無常の言葉を自分自身に叩き込んでいる。


死なぬ者などいない。


ならば、恐怖に縛られるな。


自分の見つけた勝機へ飛び込め。


信長さんは、舞いながら、自分の中の怯える青年を何度も何度も斬り伏せていた。


「……っ」


勝家さんが、息を呑む音が聞こえた。


先ほどまで「殿は狂ったか」と疑っていた武将たちの顔つきが、少しずつ変わっていく。


彼らには、信長さんの作戦の全貌は分からない。


丸根と鷲津をどうするつもりなのかも、分かっていない。


それでも、目の前で舞う総大将の姿から放たれる尋常ではない覚悟だけは、同じ武士として魂に届いたのだ。


この大将は、怯えて何も考えずに寝ようとしたのではない。


自分の命を真っ先に地獄へ投げ込むために、今、自らの魂を研ぎ澄ませている。


そのことだけは、誰の目にも明らかだった。


「滅せぬもののあるべきか……!」


最後の一節を謡い終えると同時に、信長さんはピタリと舞を止めた。


閉じた扇が、ピシッと鳴る。


広間に、完全な静寂が落ちた。


外で唸り始めた風の音すら、この瞬間だけは遠のいて聞こえる。


信長さんは、ゆっくりと顔を上げた。


その瞳を見た瞬間、私は息を呑んだ。


そこにいたのは、寝所で膝を抱えていた青年ではなかった。


恐怖を知らない怪物でもない。


恐怖を知った上で、その恐怖を踏み潰して前へ進もうとする男だった。


私の知っている歴史上の織田信長が、今、目の前に立っていた。


「誰かある」


信長さんの低く静かな声が、広間に響いた。


「具足を持て」


小姓たちが、弾かれたように動き出す。


信長さんは、扇を小姓に返すと、ゆっくりと勝家さんたちを見渡した。


「陣貝を吹け」


その声には、もう一片の震えもなかった。


「夜は明ける。……支度をせよ」


広間の空気が、一気に変わった。


先ほどまで沈んでいた武将たちの背筋が、次々と伸びていく。


作戦はまだ分からない。


不安も消えていない。


けれど、彼らの心に一つだけ確かなものが生まれていた。


この大将についていく。


たとえ地獄の底であっても。


「は、ははぁっ!!」


小姓たちが駆け出し、城内に陣貝と太鼓の音が響き始めた。


「殿! 某も、某も共に参りまするぞ!!」


勝家さんが血走った目で立ち上がる。


他の武将たちも、次々と雄叫びを上げて出陣の支度へ走り出した。


彼らはまだ何も知らない。


義元の本陣を狙うことも、丸根と鷲津の運命も。


それでも、信長さんの舞を見てしまった。


死を覚悟した総大将の背中に、己の命を預けることを決めてしまったのだ。


「史花様……」


隣にいた木下藤吉郎くんが、自分の腕を抱いて震えていた。


「オラ、鳥肌が止まらねえだわ」


それは恐怖ではなかった。


圧倒的なものを目撃した人間の震えだった。


「ええ。私もよ、藤吉郎くん」


私は、大きく息を吸った。


雨の匂いが、いよいよ城内まで濃く漂い始めている。


人間五十年。


その短くも苛烈な夢幻の舞台へ向けて、織田軍の運命が動き出した。


次は、湯漬け。


そして、出陣だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ