第19話:人間五十年、下天の内をくらぶれば
永禄三年五月十九日、夜明け前。
清洲城の広間は、数時間前と同じように重苦しい空気に包まれていた。
けれど、その質は明らかに変わっていた。
先ほどまで「軍議を開け」と猛り狂っていた家臣たちは、一度「寝ろ」と理不尽に追い返されたにもかかわらず、再び広間へと呼び集められていた。
彼らの顔には、一睡もできなかったであろう疲労が濃く浮かんでいる。
そして、それ以上に深い絶望があった。
殿はついに狂ったのではないか。
織田家は本当に終わるのではないか。
その思いが、誰の顔にも張り付いていた。
開け放たれた縁側の向こうでは、東の空がごくわずかに白み始めている。
夜明けが近い。
しかし、伊勢湾の方から流れ込む湿った風は、ますます重くなっていた。空には厚い雲が垂れ込め、生温かい空気が城内をゆっくりと吹き抜けていく。
信長さんと共に読み取った、大雨の兆し。
その気配が、確実に尾張の大地を包み込みつつあった。
「……皆の者、よく集まった」
上座に現れた織田信長の声は、驚くほど静かだった。
しかし、その声は広間の隅々にまで通った。
広間に居並ぶ柴田勝家、林秀貞ら重臣たちは、無言のまま平伏している。
けれど、その背中からは、強烈な不信感が立ち上っていた。
今さら何を言うつもりだ。
そんな空気だった。
「殿……」
勝家さんが、血走った目で顔を上げた。
「夜明けにございます。もはや一刻の猶予もありませぬ。丸根と鷲津の砦を救うため、今すぐご下知を。……それとも、本当に我らにこの城で腹を切れと仰るのですか」
その声には、怒りを通り越した悲痛な響きがあった。
しかし、信長さんは答えなかった。
奇襲をかけるとも言わない。
砦を見捨てるとも言わない。
今ここで作戦の核心を話せば、勝家さんたちは必ず反対する。
兵を分けようとする。
丸根と鷲津を助けようとする。
そうなれば、義元の本陣だけを叩くための一点集中は崩れる。
信長さんは、それを分かっている。
だから、口を閉ざしている。
信長さんはただ、家臣たちを見下ろしたまま、傍らに控えていた小姓に短く命じた。
「……扇を持て」
「はっ」
小姓が慌てて立ち上がり、舞扇を差し出した。
その扇を見た瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。
まさか。
まさか、ここで。
戦国時代。
織田信長。
出陣前。
そして、扇。
歴史好きなら、誰でも知っている。
この瞬間に起きることは、ただ一つしかない。
私は広間の隅で、思わず両手で口を覆った。
信長さんは、ゆっくりと扇を手に取った。
そして立ち上がる。
広間の空気が、ピンと張り詰めた。
勝家さんも、林さんも、何が始まるのか分からず、ただ呆然と上座を見つめている。
信長さんは板間を一歩踏みしめた。
ドン、と低い音が響く。
そして、腹の底から絞り出すような声で謡い始めた。
「思へばこの世は、常の住み家にあらず……」
息が止まった。
これだ。
幸若舞『敦盛』。
敦盛とは、源平合戦の時代に討ち死にした、平家の若き武将・平敦盛の物語を題材にした舞だ。
平敦盛はまだ十代の美しい若武者だったと伝えられている。
一ノ谷の戦いで敗れ、海へ逃れようとしたところを、源氏方の武士・熊谷直実に呼び止められ、討ち取られた。
けれど熊谷直実は、敦盛の顔を見て激しく迷ったという。
目の前にいたのは、敵将というより、自分の子と同じ年頃の若者だったからだ。
それでも戦場では、情だけで命を救うことはできない。
直実は敦盛を討ち、その後、戦のむなしさと人の世のはかなさを深く思い知り、やがて出家したとされている。
『敦盛』は、その悲劇をもとにした舞だった。
命は短い。
どれほど若く、美しく、将来があっても、戦場では一瞬で散る。
人の世は、夢や幻のようにはかない。
そういう無常を謡う演目だ。
だからこそ、戦場へ向かう武士たちの心に深く刺さった。
そして今、その『敦盛』を、織田信長が舞おうとしている。
死ぬのが怖くないからではない。
死が怖いからこそ。
味方を見捨てる重さも、四万とも噂される敵へ突っ込む恐怖も、すべて自分の中に押し込めるために。
信長さんは、扇をゆっくりと開いた。
武骨で、荒々しく、けれど不思議な気品のある所作だった。
「秋の葉の、木の葉に置く露、おそし早し……」
声が広間に沈み込む。
「散りゆくならひ、これあはれなり……」
勝家さんたちは、言葉を失っていた。
軍議を開くと思って呼び戻された。
出陣の方針が示されると思っていた。
それなのに、総大将は突然、舞い始めた。
普通なら、狂ったと思われてもおかしくない。
けれど、私は違うと分かっていた。
これは逃避ではない。
これは、信長さんが自分自身を死地へ送り出すための儀式だった。
あの寝所で震えていた青年。
四万とも噂される大軍を想像して、膝を抱えていた若き当主。
家臣に作戦を説明できず、一人で重圧を抱え込んでいた人間。
その弱さを、自分自身の手で斬り捨てるために、彼は今、舞っているのだ。
「……人間五十年」
信長さんの声が、一段と大きくなった。
広間の空気が震えた。
「下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり……!」
その一節を聞いた瞬間、背筋に電流が走った。
人間五十年。
それは「人の寿命は五十歳」という意味ではない。
人の一生など、天上の時の流れに比べれば、夢や幻のように儚い。
どれほど恐れても、どれほど逃げても、いつかは必ず死ぬ。
ならば。
この一瞬に、命を燃やせ。
信長さんの声が、そう叫んでいるように聞こえた。
「一度生を享け、滅せぬもののあるべきか……!」
ドンッ!!
信長さんが、強く板間を踏み鳴らした。
その衝撃で、広間の空気がびりりと震えた。
私は瞬きもできなかった。
彼は、死を恐れていないから舞っているのではない。
恐ろしいから舞っている。
怖くて足がすくむから。
味方を見捨てる罪悪感に潰されそうだから。
四万の敵に呑み込まれる未来が、頭から離れないから。
だからこそ、声を出し、体を動かし、無常の言葉を自分自身に叩き込んでいる。
死なぬ者などいない。
ならば、恐怖に縛られるな。
自分の見つけた勝機へ飛び込め。
信長さんは、舞いながら、自分の中の怯える青年を何度も何度も斬り伏せていた。
「……っ」
勝家さんが、息を呑む音が聞こえた。
先ほどまで「殿は狂ったか」と疑っていた武将たちの顔つきが、少しずつ変わっていく。
彼らには、信長さんの作戦の全貌は分からない。
丸根と鷲津をどうするつもりなのかも、分かっていない。
それでも、目の前で舞う総大将の姿から放たれる尋常ではない覚悟だけは、同じ武士として魂に届いたのだ。
この大将は、怯えて何も考えずに寝ようとしたのではない。
自分の命を真っ先に地獄へ投げ込むために、今、自らの魂を研ぎ澄ませている。
そのことだけは、誰の目にも明らかだった。
「滅せぬもののあるべきか……!」
最後の一節を謡い終えると同時に、信長さんはピタリと舞を止めた。
閉じた扇が、ピシッと鳴る。
広間に、完全な静寂が落ちた。
外で唸り始めた風の音すら、この瞬間だけは遠のいて聞こえる。
信長さんは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳を見た瞬間、私は息を呑んだ。
そこにいたのは、寝所で膝を抱えていた青年ではなかった。
恐怖を知らない怪物でもない。
恐怖を知った上で、その恐怖を踏み潰して前へ進もうとする男だった。
私の知っている歴史上の織田信長が、今、目の前に立っていた。
「誰かある」
信長さんの低く静かな声が、広間に響いた。
「具足を持て」
小姓たちが、弾かれたように動き出す。
信長さんは、扇を小姓に返すと、ゆっくりと勝家さんたちを見渡した。
「陣貝を吹け」
その声には、もう一片の震えもなかった。
「夜は明ける。……支度をせよ」
広間の空気が、一気に変わった。
先ほどまで沈んでいた武将たちの背筋が、次々と伸びていく。
作戦はまだ分からない。
不安も消えていない。
けれど、彼らの心に一つだけ確かなものが生まれていた。
この大将についていく。
たとえ地獄の底であっても。
「は、ははぁっ!!」
小姓たちが駆け出し、城内に陣貝と太鼓の音が響き始めた。
「殿! 某も、某も共に参りまするぞ!!」
勝家さんが血走った目で立ち上がる。
他の武将たちも、次々と雄叫びを上げて出陣の支度へ走り出した。
彼らはまだ何も知らない。
義元の本陣を狙うことも、丸根と鷲津の運命も。
それでも、信長さんの舞を見てしまった。
死を覚悟した総大将の背中に、己の命を預けることを決めてしまったのだ。
「史花様……」
隣にいた木下藤吉郎くんが、自分の腕を抱いて震えていた。
「オラ、鳥肌が止まらねえだわ」
それは恐怖ではなかった。
圧倒的なものを目撃した人間の震えだった。
「ええ。私もよ、藤吉郎くん」
私は、大きく息を吸った。
雨の匂いが、いよいよ城内まで濃く漂い始めている。
人間五十年。
その短くも苛烈な夢幻の舞台へ向けて、織田軍の運命が動き出した。
次は、湯漬け。
そして、出陣だ。




