第17話:尾張の空を知る者
清洲城の奥深く。
総大将の寝所へと続く廊下は、不気味なほどの静寂に包まれていた。
先ほどまで、勝家さんたちが怒号を響かせていた広間の喧騒が嘘のようだ。
けれど、その静けさは平穏ではない。
今川軍という途方もない暴力が、尾張の地へ押し寄せる前の、息が詰まるような空白だった。
私は足音を忍ばせ、泥で汚れた足を拭ってから、ゆっくりと奥の襖に近づいた。
隙間から、そっと中を覗き込む。
部屋の中は、行灯の火が落とされ、深い闇に沈んでいた。
雲の切れ間から差し込む月明かりだけが、水に溶いた墨のように淡く、頼りなく畳の輪郭を照らし出している。
その光の中に、うずくまるような黒い影があった。
織田信長だ。
「寝ろ」と言い放ち、家臣たちを追い返した大将は、もちろん布団になど入っていなかった。
彼は部屋の隅で膝を抱え、ガタガタと小刻みに肩を震わせていた。
勝家さんたち家臣の前で被っていた「うつけ」の仮面は、完全に剥がれ落ちている。
そこにいたのは、途方もない恐怖と重圧に押し潰されそうになっている、等身大の孤独な青年だった。
……やっぱり。
私は襖を静かに開け、中へと足を踏み入れた。
信長さんは、家臣たちの前では眠そうな顔をして、何も考えていないように振る舞った。
でも、そんなはずがない。
明日、今川の大軍とぶつかるかもしれない。
丸根と鷲津の砦を、見捨てなければならないかもしれない。
しかも、その苦しい作戦を誰にも説明できない。
平気でいられる方がおかしい。
「……誰じゃ」
信長さんが、微かに掠れた声で唸った。
暗闇の中でも、彼が恐怖で目を見開いているのが分かった。
「私です。史花です」
私は努めて明るく、いつも通りの声で答えながら、彼のすぐ隣に腰を下ろした。
「……史花か」
信長さんは、かすかに息を吐いた。
「なんだ。お前も、わしを罵りに来たのか。味方を死地に追いやり、軍議すら開いてやれぬ、臆病な大うつけだと」
自嘲するように笑う声は、ひどく震えていた。
「わしは、恐ろしいのだ」
信長さんは、膝に顔を埋めるようにして言った。
「己の頭で弾き出した策とはいえ、明日、本当に今川の大軍の中へ飛び込まねばならぬのかと思うと……足の震えが止まらん。家臣どもにはあのように大見得を切ったが、いざ一人になると、怖くて、怖くてたまらんのだ……」
それは、後世の歴史家が絶対に記さない、織田信長の最も人間らしい本音だった。
第六天魔王。
天下布武。
歴史の教科書に並ぶ、強くて恐ろしい言葉たち。
でも、今、私の目の前にいる信長さんは、まだ二十代の若い当主だ。
怖くて当然だった。
私は何も言わず、彼の震える右手に、両手でそっと触れた。
「……っ」
信長さんの手は、氷のように冷たく、ひどく強張っていた。
私はその手をしっかりと握り締め、私の体温を移すように優しく包み込んだ。
「信長さん。怖いと思うのは、間違っていません」
私は、できるだけ静かな声で言った。
「四万とも噂される大軍が迫っている。丸根と鷲津を見捨てなければならないかもしれない。しかも、作戦を家臣に説明することもできない。そんな状況で怖くならない人なんて、たぶんいないわ」
信長さんは、顔を上げなかった。
でも、握った手の震えが、ほんの少しだけ弱まった。
「あなたの頭は、誰よりも早く最悪の場面を想像してしまう。だから怖くなる。だから震える。でも、それは弱さだけじゃないわ。危ない道をちゃんと見えている、ということでもある」
「……ならば」
信長さんが、掠れた声で呟いた。
「ならば、わしはどうすればよい。敵の数を考えれば足がすくむ。味方を見捨てると思えば胸が潰れる。勝てる道を見つけたはずなのに、その道が血まみれすぎて、目を開けて歩けぬ」
私は、少しだけ開いた障子の向こうへ視線を向けた。
初夏の夜風が、部屋の中へ流れ込んでいる。
生温かく、肌にまとわりつくような、湿った風だった。
「信長さん」
私は、彼の手を握ったまま言った。
「敵の数ばかり見ているから、頭がそこで止まってしまうんです。少しだけ、見る場所を変えましょう」
「見る場所……?」
「ええ。今川の数じゃなくて、この尾張を見てください」
信長さんが、ゆっくりと顔を上げた。
月明かりに照らされたその目には、まだ怯えが残っている。
けれど、その奥に、わずかな反応があった。
「あなたは、この尾張で生まれ、この尾張で育った人でしょう。子どもの頃から、野山を駆け回っていたんでしょう。道も、川も、田畑も、風の匂いも、きっと私なんかよりずっと知っている」
私は、障子の隙間から入り込む風に頬を向けた。
「なら、教えてください」
「何をじゃ」
「この風です」
信長さんは、わずかに眉をひそめた。
「風……?」
「はい。南から吹いています。海の匂いが少し混じっていて、重くて、湿っている。さっきまでより、空気が肌に張りつく感じがする」
私は彼を見つめた。
「信長さん。今日の午後、尾張の空はどうなりますか?」
その問いに、信長さんはすぐには答えなかった。
けれど、彼の表情が変わった。
恐怖で固まっていた目に、思考の光が戻っていく。
「……尾張の、空」
「はい。未来の知識じゃなくて、あなた自身の知識で考えてください。地元の人間として、戦場を歩いてきた武将として、この風と雲を読んでください」
信長さんは戸惑いながらも、ゆっくりと目を閉じた。
ヒュウゥゥ……と、障子を揺らす風の音が、暗い部屋の中に響く。
沈黙が落ちた。
さっきまでの沈黙とは違う。
恐怖で凍りついた沈黙ではない。
信長さんの頭が、もう一度動き出すための沈黙だった。
「……南からの風」
信長さんが、探るような声でぽつりと呟いた。
「伊勢の海の方から、湿った風が入ってきておる。妙に生温かい。夜だというのに、空気が重い」
私は黙って頷いた。
「雲は低い。月も、先ほどから出たり隠れたりを繰り返しておる。風向きが変わり始めているのに、熱が抜けぬ」
信長さんの呼吸が、徐々に深くなっていく。
さっきまで恐怖で固まっていた頭が、別の方向へ動き始めている。
今川の数ではなく、尾張の空へ。
四万という黒い壁ではなく、自分が生まれ育った土地の風へ。
「この時期、海から湿った風が入り、尾張の平野に熱がこもると、空は急に荒れる」
信長さんの声に、少しずつ確信が混じり始めた。
「昼を過ぎ、地の熱が上がれば、湿った空気は一気に雲を厚くする。空が堪えきれなくなれば……」
そこで、信長さんの言葉が止まった。
彼はゆっくりと目を開いた。
その瞳から、先ほどまでの恐怖の濁りが、わずかに消えていた。
代わりに宿っていたのは、何かを掴みかけた者だけが持つ、鋭い光だった。
「……雨じゃ」
信長さんが、低く呟いた。
「今日の昼下がり、尾張の空は崩れる」
私は、思わず息を呑んだ。
歴史の答えを、私が教えたわけではない。
信長さんが、自分で読んだ。
自分の土地勘と、肌で覚えてきた風の記憶で、勝利に必要な最後の条件に手をかけたのだ。
でも、その雨が何を意味するのか。
どう戦に使えるのか。
そこまでは、まだ言葉になっていない。
信長さんは、障子の向こうに広がる暗い尾張の空を、じっと見つめていた。
震えは、もう止まっていた。
夜はまだ深い。
けれど尾張の空は、すでに決戦の色へと変わり始めていた。




