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リトアニア建国記 ~ミンダウガス王の物語~  作者: ほうこうおんち
第1章:若き日のミンダウガス
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筆頭公爵死す

 リトアニアは多数の部族の連合政体であった。

 ミンダウガスたちと、低地ジェマイティアでは民族が異なる。

 日常会話では発音や単語が違って、言葉が通じない事もある。

 更にデルトゥヴァ地方も民族が異なるし、シャウレイ近辺もジェマイティア系で違っていた。

 そんな中、ミンダウガスと兄のダウスプルンガス、従兄弟のダウヨタスとヴィリガイラの兄弟、そして筆頭公爵ジヴィンブダスは同族であった。


 ジヴィンブダス公は穏やかな人物とされる。

……ダウスプルンガスと従兄弟たちが不仲である為、単に年長の彼が第三者的立場で宥め役となっていたからだが。

 基本的にジヴィンブダスもまた、北のリヴォニアや東のルーシ地域に野心を持つ攻撃的リトアニア人に変わりは無い。




「ミンダウガス様、ジヴィンブダス公の使者が来ています」

 部下からの報告に、ミンダウガスは一旦考え事を止めた。

 彼はモンゴル軍との戦いで死に目を見た。

 己れの勇猛さでは勝てない相手がいると、骨身に染みて理解した。

 そこで

「どうしたらあの野蛮タタール人どもに勝てるのだろう?」

 と考え出したのである。


 答えは単純である。

 モンゴル軍と同じ戦法を採れば良い。

 しかし、答えは導き出せても、そこに辿り着くのが大変である。

 ミンダウガスは若くても公爵、統治者である。

 故に、あれだけ大量の馬を、今の自分の領地で飼う事が不可能だと分かっていた。

 この時期のリトアニアの領域は、現在の日本で例えれば東北地方くらいの面積である。

 それが4地方に分割され、更にその1地方高地リトアニアの5分の1より小さいくらいがミンダウガスの領土である。

 その中に、多数の森や湖、沼地が存在し、残った土地にライ麦を蒔いて畑にしている。

 バルトの民も騎馬民族に負けず劣らず馬が好きではあるが、馬を飼う為の牧場に出来る土地は多くはなく、到底モンゴル軍程に馬を揃えられない。

 全土を牧場にする為、森を伐り、沼地を埋めて畑を埋める……現在のミンダウガスにそんな資金も土木能力も無い。

 出来たとしても、そんな事をしたら彼は皆に責められ、リトアニアから追放されるだろう。


 こういう時、兄のダウスプルンガスも、長老的立場のジヴィンブダス公も頼りにならない。

 彼等に限らず、リトアニア人は保守的である。

 変わる事を好む人々なら、とっくにキリスト教を受け入れているだろう。

 確かに帯剣騎士団やリガ大司教区の失態があり、それがキリスト教を遠ざけている。

 しかしリトアニア人たちは、根本的な部分でキリスト教を拒絶し、バルト古来の神々への信仰を守り続けたいと思っているのだ。




 筆頭公爵ジヴィンブダスからの使者の用向きは

「チェルニゴフ公国を攻めるから、一緒に兵を出してくれ、もっと言えば道案内しろ」

 というものであった。


 チェルニゴフ公国は、先年のカルカ河畔の戦いでモンゴルに負けたルーシ諸国の一国である。

 大損害を出し、国の維持が怪しくなっていた。

 そんな国だから、今の内に攻めて、領地を奪ってやろうというのが「穏健派」のジヴィンブダスの考えである。

 それに対し「短慮な若者」たるミンダウガスの考えは違っていた。

 確かに、今攻めれば勝てるかもしれない。

 しかし、勝って領地を奪ってどうする?

 弱体化したチェルニゴフ公国は、あの凶悪な連中タタールに降伏し、属国になるだろう。

 そうなった時、リトアニアはモンゴルと接してしまう。

 カルカ河畔の戦いを見たミンダウガスの結論は、モンゴル帝国には勝てないというものだった。

 全リトアニアが一体となり、ハリチ・ヴォルィニ公国やノヴゴロド公国と組んで、地の利のある場所で戦って、やっとどうにかなるだろう。

 今の、21人もの公が割拠し、各々が私兵を使って好き勝手やっているリトアニアでは勝てない。

 だから、勝てるようになるまで時間稼ぎが必要だ。

 それには、ルーシ諸国を弱らせるのではなく、彼等が障壁となってくれるよう手助けした方が良い。

 ルーシ諸国の敵はモンゴルだけでなく、帯剣騎士団やポーランドもである。

 リトアニアとしては、兵制改革をしつつ、一体化を進め、特に帯剣騎士団がルーシ諸国を背後から襲わないよう牽制し、ルーシ諸国が立ち直るのを待つ。

 そう考えているのだが、ジヴィンブダスとは考えが合わない。

 兄のダウスプルンガスも一緒になり

「東の蛮族が強いのは分かった。

 だが、そいつらはこのリトアニアまでやって来るのか?

 来ないなら、無視しても良いだろ?

 まあ、来たとしても沼地と森林に誘い込んで、ボッコボコにしてやるよ。

 北の狂信者どもも、そうやって倒して来ただろ?」

 と甘く見ていた。


 まあ、ジヴィンブダスの言う事も分かる。

 ミンダウガスは、モンゴルから必死に逃げて来ただけで、今連中が何処に居て、何を考えているかを知らない。

 ミンダウガスは、彼を死に目に遭わせたモンゴル軍が、単なる別動隊に過ぎず、クマン人を追いかけていたらルーシ連合軍が出て来たから、行き掛けの駄賃で、いつも通りの「負けたふりをして誘い込んでからの包囲殲滅」をしただけという、屈辱的な事実を知らない。

 あれが本気のモンゴル軍であれば、彼は生きて帰って来てないし、リトアニア全軍とルーシ連合軍を組んでも勝てるとか思わないだろう。

 ミンダウガスにしてモンゴルの事を分かっていないのだ。

 モンゴルを見た事が無いジヴィンブダスやダウスプルンガスが、甘く考えてしまうのは仕方ないだろう。


「まあ、ミンダウガス公が兵を出さないって言うんなら仕方がない。

 私だけで攻めるさ。

 分け前はやらんからな」


 独立性が強いリトアニア諸公は、相手に対する命令権を持っていない。

 断られたら、そうですかと引き下がるだけである。

 ミンダウガスが臆病風に吹かれている、くらいの風評は立つだろうが、言わせたい奴には言わせておけば良い。


 ジヴィンブダス率いるリトアニア軍は、チェルニゴフ公国に攻め入ると、その地で略奪と人攫いを始めた。

 モンゴルに敗れたチェルニゴフ公国は、表立って反撃に出て来ない。

 ジヴィンブダスはチェルニゴフ公国の弱腰を笑いながら、この地に留まって奪い続けた。


 リトアニア人は非キリスト教である。

 年長で物を識るジヴィンブダスでさえ、分からなかったのはキリスト教徒の連帯感であった。

 帯剣騎士団はローマ・カトリック。

 ルーシ諸国は東方正教会。

 同じキリスト教でも宗派が違う。

 違う宗派に対し、同じキリスト教でも殺し合う。

 ジヴィンブダスはそこは理解していた。

 しかし、彼は「異なる宗派のキリスト教徒でも、対異民族では怨讐を捨てて手を組む」「非キリスト教に対する蔑視において、両者は価値観を一にする」という事に思い至らなかった。

 帯剣騎士団は、正教会のルーシ諸国を攻めている。

 ジヴィンブダスは、モンゴルと帯剣騎士団に攻められて弱体化したチェルニゴフ公国を餌場と考えていた。

 しかし、攻められていたチェルニゴフ公国は、リガ大司教区に救援を求め、帯剣騎士団はそれに応じてリトアニア軍を倒すべく兵を動かしたのである。

 ジヴィンブダスには不幸な事に、帯剣騎士団はこの時期、兵を動かす余裕があったのだ。


 エストニアを巡ってデンマークと対立し、エストニア人の反乱にも苦しめられていた帯剣騎士団であったが、1224年にはドルパット要塞を落としてデンマーク人を追い払い、エーゼル族を本拠地である島に追い払い、ひとまずの勝利を収めていた。

 エストニア人たちは、ルーシ諸国の一つノヴゴロド公国に助けを求めていたが、ノヴゴロド公もカルカ河畔の敗戦で余力が無い。

 大体、ノヴゴロド公国は商業国家であり、外部で行う戦争は好まなかったりする。

 帯剣騎士団は、エーゼル島を攻める戦力を北に置きながらも、南のリトアニアに対する戦力をリガに戻していたのである。


 情勢の変化をジヴィンブダスは知らなかった。

 1225年いっぱい、彼はチェルニゴフ公国で略奪をした後、年明けにリトアニアに引き返す。

 その帰途であった。

 奪った物資や、連れている捕虜のせいで足が遅いジヴィンブダス軍に対し、帯剣騎士団が奇襲を掛けた。

 ジヴィンブダスは、敵兵力の多さに目を見張る。

 北の狂信者どもは、エストニアから手を離せないのではなかったのか?

 得意の沼地でも森林でもない、丘陵地において戦闘に突入したリトアニア軍は弱かった。

 地の利を得ていないと、鎧も槍も遅れているリトアニア軍はこんなものである。

 馬は湿地戦闘用の速度よりパワー型、そして馬に鎧を着せてもいないリトアニア軍は、騎士の疾走突撃に対し為す術も無かった。

 そのままリトアニアの筆頭公爵ジヴィンブダスは、騎士の槍突撃を食らって戦死。

 推定四十代半ばである。

 リトアニア軍は散々に打ち破られ、一部が逃げ帰る事に成功して、ミンダウガスたち20人の公爵に悲報を届けた。


 こうしてリトアニアは、盟主やリーダーとは言えないものの、意見対立があった時の纏め役を失ったのである。

おまけ:

西暦1223年は、日本では承久の乱の2年後。

穏健派の武士は

「手足も不自由で可哀想だから、念仏唱えたら

 川に捨てるからそれで溺れ死んでね!

 これが慈悲だから!」

とかやってた時代なんで、穏健派の意味が現代とは大きく異なると思って下さい。

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