カルカ河畔の戦い
西暦1223年5月31日、カルカ河にてルーシ諸国とクマン人の連合軍は、モンゴル帝国西征軍と激突した。
このモンゴル帝国軍は、元々ホラズム・シャー朝攻撃を目的として動いたものである。
ホラズム・シャー朝のオトラル総督イナルチュクが、モンゴルの商業使節団を殺害して物資を奪ったオトラル事件、これをきっかけにモンゴル帝国大ハーン・チンギス汗は、西征の軍を動かす。
敗北したホラズム・シャー朝君主アラーウッディン・ムハンマドは、カスピ海の小島に逃げ込むも、そこで死亡した。
しかし、ムハンマドの子たちが抵抗を続けており、ホラズム・シャー朝は1223年時点でまだ滅亡していない。
西征軍の将軍スブタイとジェべは、ホラズム・シャー朝と戦う本隊とは別行動をし、キプチャク草原の方に兵を向けていた。
ここで周辺の遊牧民たちを打ち破っては、配下に組み込みつつ、西進を続けていた。
しかしながら、はっきり言ってスブタイ、ジェべ軍は別動隊、チンギス汗直率の主力ではないのだ。
そして、侵略出来そうだからしているだけで、特に必要があってのものではない。
故に元々は1万人程度の少数部隊であり、周辺民族や国家に属さないスラブ人を軍に組み込んで、ようやく2万人になった寄せ集めの軍であったのだ。
これに対し、クマン人から助けを求められたノヴゴロド公ムスチスラフは過剰反応をしたのかもしれない。
彼は元のキエフ大公国から分裂した諸国を糾合し、3万5千人の軍を編成。
そこには、称号だけとはいえ、キエフ大公も居た。
キエフ大公ムスチスラフは、元はスモレンスク公で、ノヴゴロド公ムスチスラフの従兄弟ある。
ノヴゴロド公は、キエフ大公の従兄弟に対モンゴル用要塞を造るよう依頼していたが、名ばかり大公はこれを怠って居た為、モンゴル軍は易々とルーシに侵入。
従兄弟の無能に怒りながらも、ノヴゴロド公は情報を集めて対処した。
ルーシ軍は、自軍の方が数的に優勢だと分かり、意気が上がる。
そして偵察部隊を出してモンゴル軍の位置を探知、野戦で倒そうと考え、カルカ河(カリチク川ではないかと言われている)の畔で迎え討つ。
戦いは、当事者たるコチャン・カン率いるクマン人と、モンゴル軍に所属したばかりの遊牧民族たちとの間で始まった。
やがてルーシ諸国の騎士たちも参戦。
キエフ大公国は、元々ノルマン人のリューリクが建国したもの。
その軍隊は、バイキングの名残があった。
楕円形の盾で身を守りながら、少しずつ距離を詰め、巨大な斧や槍で接近戦を仕掛ける。
大柄なスラブ人の力任せの猛攻に、モンゴル軍前衛部隊は崩れ始めた。
やがて撤退、いや、逃げ始めるモンゴル軍前衛部隊。
ルーシの騎士たちは、勢いに乗って追撃を始めた。
追撃をしている軍は、往々にして周りが見えていない。
残忍さを表に出しながら、狂奔して襲い掛かる。
最早モンゴル軍前衛部隊は、必死で馬にしがみついて逃げていた。
これが罠だった。
モンゴル軍は、新たに配下に加わった遊牧民たち等、囮としか考えていない。
彼等が幾ら殺されようと気にしない。
遊牧民だから、本気で逃げればそうそう殺されないという知識はあるが、だからといって追いつかれて殺されても助けなんか出さない。
彼等は同族に対してだって同じである。
敢えて老人や病人といった弱った部隊を戦わせ、彼等が殺されるのを前提に罠に嵌めるのだ。
こうして囮に食いつき、長蛇の列となったルーシ連合軍に、左右から本命のモンゴル騎兵が襲い掛かった。
「速い!」
後方ではあるが、戦場の様子が見える程度には前線に近い場所にいたミンダウガスは、モンゴル軍の戦法を初めて見る。
彼等は、馬を走らせながら攻撃をしていた。
リトアニア軍は、他の多くの国々とそう変わらない。
馬には乗るが、そこからの攻撃は投槍や投斧での一撃離脱くらいである。
馬上で刀を振り回す事もあるが、基本的に白兵戦は下馬して行う。
鐙は既に伝わっていたが、単なる丸い足を引っ掛ける程度のものであり、強く踏ん張れば破損する。
鞍も単に腰掛ける程度のものだ。
一応、平地では馬上戦闘もあるが、基本的沼地や森林での待ち伏せ戦闘や、泥濘や落とし穴という地の利を活かす戦闘の場合、馬上が必ずしも有利な訳ではない。
故に、騎兵といっても身分ある者の移動手段な事がほとんどで、主力の歩兵共々地に足をつけての戦いをする。
騎射は、出来ない事はないが、基本狩猟用である。
ルーシ諸国の軍も、基本的には身分ある者の乗馬部隊と、歩兵の諸兵科混成軍である事に変わりない。
威力のある斧を馬上で振り回せば、落馬の危険がある。
大威力の武器は、基本地上で使う。
長剣や棍棒、鍵斧といった武器を馬上で振るったりはする。
騎士道精神というのが、キリスト教と共に入り込んだルーシ貴族は、人間相手に弓矢は使わない。
弓兵はいるが、それは庶民階級の歩兵である。
こうしたヨーロッパの軍に対し、モンゴル軍は基本的に全員が騎兵であった。
戦闘時に下馬する乗馬歩兵ではなく、純然たる馬上兵。
彼等は馬を走らせながら、矢を放ち続ける。
長蛇の列を中央突破すると、分断したルーシ軍のそれぞれを囲み、遠巻きに馬を走らせながら攻撃をし続ける。
ぐるぐると回りながら、休む事無く矢の雨を降らせる。
防御力はルーシ軍の方が高いのだが、それでも矢の雨は鎧の隙間や、剥き出しになっている顔に当たってルーシ軍を傷つけていく。
勇敢なルーシ騎士が突撃をすると、モンゴル騎兵は包囲の輪を外に広めて、遠距離攻撃に終始する。
やがて体力を失い、反撃も防御も弱まったと見るや、一転して切り込んで来た。
このモンゴル突撃騎兵も、下馬して戦ったりなんかしない。
馬上から振るいやすい曲刀で斬撃を加え、卓越した馬術とヨーロッパより使い勝手の良い鐙は、槍での突撃でも落馬をさせない。
更には2騎一組となって、鎖を持って走り、間に入り込んだ敵兵を轢いていく。
こうしてモンゴル騎兵に囲まれたルーシ軍は、少しずつ数を減らしていき、やがて全員が戦闘不能となった。
そうして戦えなくなった敵集団を、新たに配下に加わった遊牧民たちの虐殺・略奪に任せると、モンゴル騎兵は次なる標的に同じ戦法を仕掛ける。
その攻撃は、後陣に居たミンダウガスにも迫っていた。
「逃げろ!」
ミンダウガスは周囲に向かって叫んだ。
周囲には、報酬に釣られて参加したリトアニア人傭兵も居る。
ミンダウガスという「公爵」が臆病な姿を見せるのは、本来なら権威失墜で地位を奪われかねない。
しかし、モンゴル軍の余りの凄まじさに呆気に取られ、固まっていたのは彼等も同様であった。
「逃げろ」という分かりやすく、助かる可能性が高い指示に、彼等もハッとする。
それでも躊躇した者が居たが、ミンダウガスが
「沼地で戦おう!
そこなら!」
と短くも希望を持たせる事を叫んだ為、リトアニア人傭兵たちも素直に従った。
その様子に、近くにいたスラブ人たちも従う。
モンゴル騎兵は執拗であった。
背を向けて逃げ出したミンダウガスたちを追いかけて、矢を放つ。
歩兵のスラブ人たちが真っ先に殺される。
湿地等での戦い用でパワー重視の馬に乗るミンダウガスたちに、草原での機動力重視の馬を駆るモンゴル騎兵は、次第に追いついて来た。
「沼地だ!
各々、上手くやれ!」
流石は沼地や湿地で戦うリトアニア人、カルカ河の流域を走りながら、川沿いの広い場所を探し出した。
地形が平坦な場所を流れるカルカ河には、いくつもの支流が流れ込む地点があり、その辺りはたまに洪水の名残の沼地、湿地が出来ている。
そこにようやく本領発揮出来る馬を乗り入れ、地元民では無い故に地の利が無いながらも泥濘の奥に進み、中央付近で防御隊形を取る。
泥濘を進む最中に、モンゴル軍から矢を射られて多数の同胞が倒れた。
矢には毒が塗られているようだが、治療になんか行けない。
生き残る事で精一杯である。
ミンダウガスは
(軍神、死の神ピクラスよ、どうか助けて下さい)
と、窮地からの生還を神に祈っていた。
最早偶然生き残れる事に賭けるしかない。
自力ではどうしようも無かった。
モンゴル騎兵も沼地は苦にしないが、この時は面倒臭くなったのか、少数過ぎる敵にムキにならず、遠矢攻撃しかして来ない。
やがて遠くの方で角笛の音がすると、モンゴル軍はミンダウガスたちから離れていった。
それでなくても、既に一部隊を壊滅させてからやって来た集団であり、矢が尽きかけていたようだ。
「今だ、皆、帰るぞ!
こんな戦場は忘れるんだ!
故郷に帰るんだ!」
ミンダウガスは、数人にまで減ったリトアニア人に声をかけ、恥も外聞もなく戦場を離脱した。
彼は勇猛なリトアニアの若武者である。
以前の彼であれば、破れかぶれでモンゴル軍に対し突撃を仕掛け、生命を失っていただろう。
だが彼は、結婚して確かに大人になっていた。
(こんな所で死んでたまるか!)
彼は、妻となった女性の幸薄そうな顔と、産まれたばかりの子を思い出しながら、臆病と言われようが、無様を晒そうが生きる事にしがみついた。
だからこそ、逃げるという結論を導き出すのが速かったのだ。
ミンダウガスは幸運である。
前線でなく後陣で戦闘を見ていた事、躊躇なく逃げる選択をした事、どうにかモンゴル騎兵が嫌がる湿地を探し当てた事、そしてスブタイ・ジェべのモンゴル軍がこの地の征服に本気じゃなく、戦闘もいつものルーチンワーク的なものだった事で、辛くも生き残る事が出来たのだ。
そしてこのモンゴルとの戦いの経験が、この後ミンダウガスを成長させるのである。
おまけ:
その後、ジェべとスブタイの部隊はクリミア半島を荒らし、ボルガ河で敗北すると、そのままチンギス汗に合流して帰っていきます。
そして金国攻撃に参加してるので、
「ついで」でやった戦闘にルーシ諸国はボロボロにされた
ように見えてなりません。




