ハリチ・ヴォルィニ大公国との交渉
「前から言っているが、もう一回言う。
いきなり来る癖は改めて貰いたい!」
ハリチ・ヴォルィニ大公ダニエルは、またもや予告無しにフラっとやって来たミンダウガスに頭を抱えていた。
ダニエル大公は、リトアニアの属国・ポラツク公国を占領したばかりである。
先日、ミンダウガスの子・ヴァイシュヴィルガスの降伏を受け、リトアニア軍を退去させた。
ヨーロッパの常識として、降伏して剣を預けられた場合、貴族でもある指揮官は捕虜として敵国に身代金を要求するか、不戦を誓わせて解放するかとなる。
ダニエル大公もヴァイシュヴィルガスを捕虜とし、兵士たちは解放、さてリトアニアに対し身代金要求を……と戦後処理に入るタイミングで、まさかの君主来訪である。
「身代金の交渉になるんだから、丁度良かっただろ?
俺が責任者なんだから、手っ取り早く話を進められるぞ」
勝手に椅子に座って寛ぐリトアニアの筆頭公爵に、ダニエル大公は呆れている。
「ここ、敵地なんだぞ」
「俺、使者。
使者は殺さないものだ」
「お前はリトアニアの君主だろうが!
いつお前自身が囚われてもおかしくないって、分からんのか?」
「まあ、俺とお前さんの仲じゃないか」
「迷惑しか掛けられとらんわ!」
ちょっと気を落ち着かせると、ダニエル大公から話を振って来た。
「キリスト教に改宗するのか?」
「耳が早いな。
もう知っているのか?」
「ふん、知らん顔しおって。
噂を流したのは、お前だろう」
「知らないなあ」
「まあ、噂の出どころなんてどうでも良い。
で、どういう事だ?
本気でバルトの神々を棄てるのか?」
「そんな気は無い」
「じゃあ、騎士団を騙したのか?」
「そうは言っていない。
それ以上の事は、これから決める」
「嘘を吐かれたと知ったら、騎士団との和解は二度と出来なくなるぞ」
「だから、嘘は言ってないんだよ。
キリスト教に改宗する意思はある」
「そうか。
まあどういうつもりかは分からんが、それならそれで良い」
「で、だ。
俺がキリスト教に改宗するから、俺とあんたは同じ宗教を信じる事になるな」
「……ローマ・カトリックと東方正教会は違うぞ。
あんな教皇を個人信仰する異端と我々は違う」
「そんな事情はどうでも良いよ。
宗派が違っても、異教ではないんだろ?」
「それはそうだ」
「よし、うちの娘をお前の息子に嫁がせよう!」
「……今、何と言った?
お前は脈略も無く話をするから、ついていけん時がある」
「俺の娘、前の妻との間の子だが、それとお前さんの息子、シュヴァルナス殿だったかな、その結婚なんてどうだと言ったのだ」
「だから、どうしてそういう話になった?」
「俺はキリスト教に改宗する。
俺とあんたは同じ宗教の徒となる。
問題は無くなった。
だから、和解の為に婚姻を進めようって事だ。
何かおかしいか?」
「今話したような内容を飛ばして、結果から話すもんだから通じなかった。
ああ、はいはい、そういう事ね」
「もう、リガの司教には話を通したぞ」
「勝手な事するな!
ああ、もう……断ったら、恥をかかせたリガ司教の依頼で、騎士団が攻めて来るって事か」
「ご名答」
「その態度、本当に気に入らん。
騎士団が来ようが関係無い。
お前が嫌いだ。
結婚の話は無かった事にさせて貰う」
「それならそれでどうぞ。
じゃあ、うちの娘はタタールにでも嫁がせるかな?
バトゥ殿には適当な子息は居たよな?
あそこは一夫多妻だから、どうにかなるかな」
「何だと?」
「フフフ……。
流石に、俺の狙いは分かったんじゃないのか?」
「この悪党め。
騎士団だけでなく、縁者になったタタールも利用しようと言うのか。
あいつらはそんな甘い連中じゃないぞ!」
ダニエル公は、モンゴル帝国キプチャク汗国と戦い、勝てなかった。
それで降伏し、属国になる事を受け容れる為に、首都サライに出向いた。
たまたまサライに居たバトゥに、何故かダニエルは気に入られたようだ。
彼は宮殿というべき天幕に招き入れられ、ご馳走を振る舞われる。
「どうだ、馬の生肉だ。
美味いぞ!」
そう言って出されたモンゴル人たちの生肉料理の数々に、ダニエルは吐き気を催す。
一旦そうなってしまうと、もうダニエルにはモンゴルのありとあらゆる物が気持ち悪く見えてしまう。
モンゴル人も獣の類にしか見えなくなっている。
帰国したダニエルは、モンゴルからの貢ぎ物要求が莫大だった事もあり、反モンゴルで戦う事を皆に告げたのだった。
「だからな、タタールと手を組むなんて、自殺行為に過ぎない」
ダニエルが熱く語る。
もうこの時点で勝負はついただろう。
ミンダウガスはダニエルの顔を覗き込むと
「だったら、うちの娘との婚儀を受け容れてくれんか?
俺も実のところ、タタールとはいつか戦って、食い止めないとならないと思っている。
彼等の信条は『海の果てるまで我が領土』『馬が征く限りは侵略する』だからな。
どこかで食い止めないと、リトアニアすら危うくなる」
と語りかけた。
ダニエルは、外交上の自分の敗北を悟りつつも、悪い条件ではないと計算している。
なるほど、ミンダウガスがキリスト教に改宗する、それは妙手だ。
カトリック国と縁者になれば、騎士団による襲撃の口実を一個減らせる。
そして何より、キプチャク汗国と戦うに当たって、背後が気にならないどころではなく、味方になる国が出来るのだ。
「分かった。
その婚儀を受け容れよう。
ただし!」
「ただし?」
「それはお前が本当に改宗してからだ。
そうでなければ、我が国はリスクの方を背負い込む事になる」
「……今更?
うちの姪を後妻にしておいて、俺がキリスト教に改宗するのを待つって?」
「それとこれとは違うだろ!」
ダニエル大公の正妻はノヴゴロド公ムスチスラフの娘アンナで、もちろんキリスト教徒である。
ノヴゴロド公ムスチスラフは、かつてカルカ河畔の戦いでルーシを一つに纏め上げた英雄であり、かつハリチ・ヴォルィニ公国統一戦争においては貴族連合軍の盟主としてダニエルと戦った男だ。
そのアンナが死んだ後、ミンダウガスからの働きかけで、兄ダウスプルンガスの娘を後妻としていた。
彼女は結婚後に改宗したとはいえ、元々はバルトの神々を信じる者だった。
この婚姻が今回の内戦においては悪い方に働き、タウトヴィラス、ゲドヴィダス兄弟は、妹の夫であるダニエルを頼って亡命した他、彼を味方にしてミンダウガス打倒に引き摺り込んだのである。
今回、「キリスト教徒」ミンダウガスの娘と、ダニエルの息子が結婚する。
もしもミンダウガスが改宗しなかった場合、彼と騎士団との戦争は確実に起こる。
その時に巻き込まれてしまうのがリスクだ。
だから、まず確実にミンダウガスが改宗するのを確認し、その後でないと危うい。
リガ司教が知っているか、関わり無いかで、リスクが全く違うのだ。
「よし、では今は婚約という事で納めよう。
息子は返して貰うぞ」
「何故そうなる?」
「もう親戚だろ?」
「まだだ!」
「いいじゃないか。
俺とお前の仲じゃないか!」
「だから、お前からは迷惑しか掛けられとらんわ!!」
ダニエルは、ミンダウガスの図々しさに、何度でも呆れている。
だが彼は、ミンダウガスがこういう砕けた態度を取るのが、自分以外は彼の妻しか居ない事を知らない。
一介の小領主から君主にまで登ったミンダウガスにとって、貴族に何度も反乱を起こされながら、追放の憂き目に遭っても粘り強く問題を解決するダニエルは、憧れの存在でもある。
そして、共にカルカ河畔の戦いで死線を潜り抜けた戦友であり、数少ないモンゴルの脅威を理解する同志でもあった。
それがある意味「甘え」に近い態度を取らせているのだが、それを知らないダニエルにはうざったいばかりである。
「親戚云々は置いて、一個聞きたい事がある。
満足いく答えだったら、お前の息子は身代金無しで解放してやろう」
「何だ?」
今度はダニエルの方が顔を近づけて来る。
「改宗しようと思った、真の理由は何だ?
リトアニア程キリスト教を嫌っている国を、私は知らんのだがな」
ミンダウガスは、ちょっとにやけた顔になる。
「いや、奥さんがね」
ダニエルはツッコまない。
最近、この男が戦時中にも関わらず再婚した話は知っている。
惚気でなければ、きっとその妻の影響なのだろう。
「うちの奥さんね、昔騎士団の元から逃げて来たんだよね。
だからずっと、キリスト教の事は嫌いだと思っていた。
だけど、結婚して話を聞いてみると、そうでも無かった」
後妻の名前はモルタ、英語読みするとマーサである。
これは旧約聖書にも出て来る、一神教系の女性名であり、リトアニアの女性名ではない。
彼女はリヴォニアで育ったが、騎士団は嫌いでもキリスト教には嫌悪感が無かったという。
彼女は、自分の旧名は忘れてしまった。
幼い時に改名させられたが、もうその名前に馴染んでしまっている。
そのモルタに、偏見無しのキリスト教を教えられ、ミンダウガスは理解を深めたのである。
心の底から信仰するかはさておき、決して
「暴力を振るって良い相手は悪魔共と異教徒共だけです」
という邪教などではないのが分かった。
それで十分共存出来る。
なお、帯剣騎士団だけはモルタも、ダニエルも嫌っているし、誰に聞いても邪教のような宗教解釈しかしていない為、彼等への敵意は直すつもりはない。
本当に、ドイツ騎士団によって解体されて良かったと思っている。
結果的に、ミンダウガスが騎士団と和解しても良いと考えられるだけ、マシになったのだから。
とりあえず、ミンダウガスの思考の底に在ったものを聞けて、いつも自分を振り回す厄介な奴を少しは理解出来た事をダニエルは満足した。
婚儀成立を以ってリトアニアとハリチ・ヴォルィニ大公国の和平が成立。
ミンダウガスは北と南及び東側の脅威を外交で解消させた。
腹の探り合いでストレスを溜めたわけではなく、気心の知れたダニエル大公相手の交渉だから気楽だった筈のミンダウガスなのだが、
「よくやったでしょ!」
とばかりに、帰国後妻の元に直行して、一部怒られ、尻を蹴っ飛ばされながらも、褒めて貰ったのは言うまで無いだろう。
おまけ:
ミンダウガス「キリスト教、本当に嫌いじゃないの?」
モルタ「幼い頃、村に来た司祭様は良い方でした。
優しいし、貧しい事を恥とせず、村人と一緒に働き、困った人を助けていました。
壊れた家を直してやったり、病気の子供に自らの食べ物を恵んだり、不作の年は役人に掛け合ってくれたり。
どうしてそんな事をするんですか?って聞いたら
『全ての人は父なる神の子であり、等しく幸せになる資格がある。
私は父なる神の為に働くと誓ったから、この村の兄弟姉妹の為に働くのは当然だ』
って言ったんです。
それを聞いて、キリスト教って素敵な事を教えるんだなあ、って思いました。
司祭様は色んな事を教えてくれました。
貴方が幸せなら、隣人にも手助けをしてあげなさい。
でも自分が苦しいなら、迷わず神様とその僕である私を頼って下さいとか。
人は生きていく上で、家畜を殺したり、山野から食べ物を奪ったりと、どうしても罪を負ってしまう。
もっと酷い罪を負う人もいる。
そうした罪は、皆で受け止め合いなさい、とか。
私には納得いかない事もあったんですが、その司祭様は言った言葉を実践しながら生きていました。
だから司祭様は、村の皆から慕われていたのですが……」
ミンダウガス「もしかして、帯剣騎士団が来て司祭を追放し、村を支配し始めたとか?」
モルタ「いえ、リトアニアの何とか公がやって来て、司祭様を殺して礼拝堂を焼き打ちしたんです。
そしたらすぐに騎士団がやって来て、リトアニア軍を追い払った後に、村に居座ったんです。
そこからが大変でした……」
ミンダウガス(もしかして、親父か兄貴の仕業か?
頼むから、叔父か従兄弟であってくれ、そんな事したのは!
でも兄貴、北のキリスト教野郎の村を焼き討ちして来たとか、散々嬉しそうに言ってたからなあ。
時期的に、俺じゃないよな。
絶対、俺じゃないよな!
俺じゃないって、確信させてくれ!!!!)
大丈夫。
誰かがやらかしてないと、モルタさんは今でもその村で幸せに暮らしてた可能性があり、ミンダウガス君と出会う事は無かったんだから。




