独り立ちの時
モンゴルとドイツ騎士団が戦った。
そこで惨敗したドイツ騎士団の隙をついてミンダウガスはポーランドに侵攻。
その途上の国を制圧し、リトアニアは南側に領土を拡大する。
リトアニアに引っ掻き回された形のドイツ騎士団だが、その影響はノヴゴロドにおいて出た。
ドイツ騎士団本隊の支援無きリヴォニア騎士団は、彼等だけでノヴゴロドに侵攻。
「ネヴァ川の英雄」ことノヴゴルド公アレクサンドルは「氷上の戦い」で騎士団を撃破する。
これは騎士団を凍結したペイプシ湖に誘い込み、氷上で絶え間ない攻撃を浴びせたものだ。
慣れていない氷上で、滑りながら戦う騎士団は次第に疲労していく。
氷上の移動に慣れているノヴゴルド軍は、ついに騎士団の撃破に成功した。
一方、ジェマイティアのヴィーキンタス軍は、それ程の恩恵を受けていない。
クールラントのドイツ騎士団は、都市を造ってそこに拠って戦う為、防御側の優勢を発揮出来たからだ。
ミンダウガスもクールランドの南東部にある小リトアニア地方を攻めて、ドイツ騎士団の背後を脅かしたが、拠点に籠って戦う騎士団には然程の効果が無かった。
ポーランド攻撃でドイツ騎士団を防衛に当たらせる事で、効果はまあ半々という所だが、ミンダウガスはこれ以上外征を続けられない事態に陥っている。
それは政治上や軍事上の緊急事態ではない。
私的な問題である。
妻のルアーナの病気が悪化、明日をももたない状態になったのである。
中世において、国家は「家」でもあった。
王家、帝室の健康状態は国に関わる事態でもある。
ましてミンダウガスは、妻への依存症という部分があった。
国家存亡が掛かっているならともかく、助攻に過ぎない外征であれば、切り上げてヴォルタ城に戻っても不思議はない。
そうしない君主もいるから、これは性格的なものだろう。
ルアーナの病状の悪化もまた、彼女の夫への依存症が原因と言えた。
ミンダウガスが国を空ける期間は、これまでは短かった。
長くても2ヶ月程度で戻って来るし、戻って来てすぐに顔を見せている。
それがここ最近の外征は、半年がかりのものである。
しかもリトアニア近辺ではなく、遠くポーランドのクラクフまで行って蛮行を働いている。
更に休む間も無くクールラント奪還の支援攻撃に出た。
この半年以上の夫不在で、ルアーナは気鬱になり、それが心身を蝕んでしまった。
食が細くなり、一日中塞ぎ込んだり、次第に生気を失っていく。
父であるビクシュイスが、引退したとはいえ公爵という高い地位にあったのも、ミンダウガスへの連絡を遅らせる一因であった。
ビクシュイスは、公的な行動を私的な理由で妨げてはならないと考えている。
故に、可愛がっている娘を手厚く看病するものの、ミンダウガスに対しては報告を上げていない。
結果、死相が浮かぶ段階になって、ようやく戦場に居る婿のミンダウガスに
「娘が死にかけている。
急いで戻って来て欲しい」
と連絡を送った。
そして、ビクシュイスが予想した通り、ミンダウガスは全ての軍事行動を打ち切って戻って来たのである。
繰り返しになるが、ミンダウガスにも妻への依存症がある。
それは、資質はともかく気質的に合わない仕事の後でよく出て来た。
外交折衝等をした後は、妻の元に一直線に向かって行った事もある。
しかし戦争は、ミンダウガスには楽しかった。
上手くいかない事もあったが、それでもストレスを貯めず、むしろ発散すら出来ている。
それ故、妻の元に行って愚痴を零す必要もなく、長期間離れる事が出来ていたし、むしろ楽しかったとも言える。
「ふぉぉぉぉぉ!
軽騎兵による戦闘はこんなに楽しいのか!
燃やす、蹂躙する、囲む、追いかける!
タタールが暴れ回る気持ちが分かったかもしれない!」
そのように言って、息子や甥たちを呆れさせていた。
故に、自分の長期の留守が妻を病ませていたと気付くと、矢も楯もたまらず帰城したのである。
「ルアーナ、済まなかった。
俺はここに居る。
もうここから離れない。
だから、元気を取り戻してくれ!!」
眠っているルアーナは何も答えない。
ただ、か細い寝息が聞こえるだけである。
「ビクシュイス!
なんでこうなるまで知らせなかった!?」
「申し訳ございません。
申し訳ございません。
ここまで悪化するとは思ってもいなかったのです。
娘の弱さを窘めていましたが、効果がなく、このようになってしまいました。
申し訳ございません……」
ミンダウガスも、娘を失いそうな義父にこれ以上、単なる八つ当たり的感情をぶつけても理不尽なだけだと思ったのだろう。
それ以上は何も言わなかった。
「申し上げます」
「誰も入るなと言っただろう!」
「それが、ヴェンブタス公が急報だと言っています」
「ヴェンブタスに伝えよ。
戦争の事ならお前に一任する。
俺の代理として対処せよ、と」
取次は一回それで引き返したが、すぐにミンダウガスが居る寝所の外に戻って来た。
「ヴェンブタス公だけではありません。
キンティブタス公を始め、ルシュカイチャイ家の皆様が揃っています。
プリキエネ公爵夫人が亡くなったとの事で、その報告に参られたとの事です」
「は?
プリキエネ様が?
え?
なんで?
どうしてだ?」
取次に聞いても答えなんか出ない。
ミンダウガスは妻の事をビクシュイスに任せ、一旦私室を出て公務の場所に移動する。
「プリキエネ様が亡くなったと?」
「はい」
ルシュカイチャイ家筆頭のキンティブタス公が、一族を代表して応対する。
「どうしてだ?
体が衰えたと言っていたが、まだ元気そうだったぞ」
「それが……流行り病です。
ミンダウガス公出征中、リトアニアでは流行り病がありました。
それで、プリキエネの子がまず亡くなりました」
プリキエネはあくまでもプリキス公爵の未亡人。
忘れ形見である息子が成長するまでの名代に過ぎなかった。
余りにも才覚があるから皆が忘れていたが、公的にはそういう立場である。
そのプリキス公の子息が、家督継承を前に病死してしまう。
これには気丈なプリキエネも、相当に落ち込んでいたという。
そして、プリキエネ本人も病魔に襲われる。
看病していた息子から伝染したのかもしれない。
気落ちしていた所にこの病気、彼女の容態は急速に悪化していった。
だが弱々しいルアーナと違い、プリキエネは歴史に名前を残すレベルの女傑である。
死ぬ前に、一族及びミンダウガスへの遺言を述べていた。
一族に対する遺言は、相続の話である。
後継者が居ないプリキス家は潰し、一門筆頭であるキンティブタス公が所領を相続する事。
一方、兵権はヴェンブタスに委ね、兵を引き継ぐ事。
「ミンダウガス公への言葉を伝えます」
「聞こう」
「では、本人の口調そのままでいきますね。
『ミンダウガスの坊やも立派になったものだ。
もう私が発破を掛ける必要は無いようだねえ。
あんたがやっている事は正しい。
外で戦って、戦争を内に入れるんじゃないよ。
それで苦しむのはリトアニアの民だからね。
外の民が苦しむ? そんなの知った事じゃないね。
それくらい理不尽じゃないと、国の長は務まらんよ。
やっちまいな!』
でした。
公には失礼な口調、申し訳ございません」
「いや……うん、実にプリキエネ様らしいな、と思う」
「それと、これは遺言ではありませんが
『タタールとやらを見てみたかった。
坊やがどれだけ悩まされていたか、それとも恐れる必要が無いものだったか、知らずに死ぬのは残念だねえ』
とも言っていました」
「はは……それもプリキエネ様らしい」
「では、奥方様重病の中、失礼いたしました。
伝える事は伝えましたので、我々はすぐに戻らさせていただきます。
居城を長い事空けられませんので」
「大儀であった。
引き続き領内の防衛を頼む。
それと……いつか必ず、プリキエネ様の墓前に参ると……お伝えしてくれ……」
「はっ。
プリキエネも喜ぶでしょう」
喜ぶというより、呆れ顔で酒を煽る姿しかミンダウガスには浮かばなかった。
彼は軍師的存在を失ってしまった。
補佐官も副将も居るが、ミンダウガスと違った視点から世界を眺める事が出来たのはプリキエネしか居なかったのだ。
最早悩んでも、意外な視点で物を言って来る者はいない。
ミンダウガスは君主として独り立ちせねばならぬ。
そして、次の別れはプリキエネの訃報から十数日経って訪れる。
ルアーナが危篤に陥った。
ミンダウガスは妻の名を呼び続ける。
瘦せ細った手を力強く握りしめる。
悲痛な姿であった。
そんなミンダウガスを、誰かが憐れんだのか、一瞬の奇蹟が起きた。
「ミンダウガス様……」
「ルアーナ!
良かった!
気がついたのだな!」
「プリキエネ様が……」
「何だって?」
「プリキエネ様が……旦那に挨拶も無しで死ぬなんざ女の風上にも置けないねえ……と枕を蹴り飛ばしたのです」
「あははは、あの女性は、死んでからもそんなんかよ」
目を覚ましてくれた嬉しさと、亡きプリキエネ「らしさ」に、笑いながらも涙が零れる。
「そうですか……、プリキエネ様はお亡くなりになったのですね」
「ああ、そうか、ずっと眠っていたから知らなかったんだよな」
「私ももうダメです」
「そんな事を言うな!」
「今この時が、プリキエネ様に与えられた奇蹟なのです。
だからお別れする前に、お聞きしたい事があります」
「嫌だ!
別れるなんて言うなよ!
「私は……ミンダウガス様のお役に立てたのでしょうか?
ミンダウガス様は、私が居なくても生きていけると思います。
そんなミンダウガス様に……私は必要だったのでしょうか?」
「必要に決まっているだろう!
むしろ、居てくれないと困る。
誰が俺を癒してくれると言うんだ?
お前以外に居ない」
「嬉しゅうございます。
嬉しゅうございます。
嬉しゅうございます……」
ルアーナに号泣する体力は無い。
薄く涙を流しながら、小さい声でそう繰り返していた。
そして、その声が途絶えてしまう。
「おい、ルアーナ!
死んだふりなんかやめろ。
笑えないぞ。
もう俺はお前から離れたりしないぞ。
だから安心して目を開けろ。
おい、おい!!
プリキエネ様、そこに居るんだろ?
許すから、頼むから、もう一回ルアーナの枕を蹴っ飛ばせ!
目を覚まさせろ!
お願いだ……お願いしますよ……」
結局ルアーナは二度と目を開ける事は無かった。
ミンダウガスは、精神的に病んだ時に依存する相手も喪ってしまった。
彼は否が応でも独りでこの世界に立ち続ける事になる。
おまけ:
作者お気に入りのキャラ、プリキエネ姐さん退場です。
何度も書いてますが、ハリチ・ヴォルィニとの条約に名を連ねていた程度しか記録が無く、没年も分かりません。
記録に残らないので暗躍キャラになりました。
サブタイトル通り、ミンダウガスも良い歳になったので、指南役は退場という事で。
(本当に退場となったかは、後日の楽しみで)




