新たな北の脅威とルーシの英雄
「お、公爵様、部屋の外に出てるんですね?」
「奥方様と喧嘩したんですか?」
「もう、夜はウンザリしたとか?」
若い時からの馬回りで、親衛隊にも近い部下から軽口を叩かれていたミンダウガスは
(いや、俺はルアーナの見舞いで当分執務を停止するって設定だったんだが、なんか勘違いされてるぞ)
と、内心頭を抱えた。
だが、お忍びでモンゴル帝国の将軍を見て来たとは言えず、部下たちの下世話な話に乗っかるしかない。
「お帰りなさいませ。
お帰りなさいませ。
お帰りなさいませ。
もう二度と戻られないかと不安でした」
ルアーナの病室に入ると、こっちはこっちで情緒不安定になっていて、妙な事を呟いている。
不吉とか不要とか言われて育ったこの女性は、特に複雑な思考は出来ないが、自分が役に立っていないと思われる事に恐怖を覚えてしまう。
難産で健康を損ねてまで産んだ三人目の子供が死亡してしまい、以降は放っておくと気鬱で病むようになってしまった。
ミンダウガスも、気質的に合わない腹の探り合いのような事をした後は、妻で色々と発散してしまう為、この夫婦はちょっと共依存な関係にあった。
だから、ミンダウガスが見て来たモンゴル軍の話を聞いていると、ルアーナの方が落ち着いて来る。
ニコニコしながら夫の話を聞いている。
気の利いた回答なんか何も出来ない、それでも自分に向けて愚痴を零してくれるのが嬉しいのだ。
「婿殿、ノヴゴルド公国から使者……いや、商人が来ています」
妻の病室を出ると、外で待っていた舅が報告を入れた。
ノヴゴルド公国の使者に話すのは、妻に対して言った愚痴と同じ内容である。
しかし、先に妻に話したせいで、話が大分整理されていた。
「タタールは、この大地全てを征服するつもりだ」
これがミンダウガスが見て聞いて来たモンゴルの行動原理である。
ノヴゴルドの使者も唖然としていた。
バトゥの傍で、モンゴルの脅威をじっくり見せられ、その宣伝役に期待された「西に在る琥珀が採れる沿岸に住む小さな部族長」は、彼等がしばしば
「草原が続く限り、我々の大地だ」
「東の海から西の海まで、馬が進めなくなるまで進む」
「我々は天の民であり、全ての地上の民は我々に支配されるのだ」
と言っているのを聞いている。
彼等は農耕を「天の恵みを得られない、地上の民による天への冒涜」と考え、「全ての農地を潰して、牧草地にしてしまえ」とも言った。
はっきり言って、価値観を共有出来る相手ではない。
「だが、付き合う事は、案外簡単かもしれない」
とミンダウガスは語る。
まず彼等は、馬が行かない場所は攻めない。
ノヴゴルドは、ユーラシアの騎馬民族のルートからは北に外れており、逆らわなければ何もされない可能性がある。
強欲だから朝貢は要求されるが、それとて商売で取り返せるかもしれない。
「なるほど、我々にはその道がありますな。
では、ミンダウガス様はどうするのですか?」
ノヴゴルドの使者が尋ねる。
「俺は……リトアニアは戦う事になるかもしれない。
森と湖と湿地に守られた我が国だが、馬の放牧も出来る土地だ。
目をつけられるかもしれないし、沼の国だから嫌がるかもしれない。
どうなるかは、その時が来ないと分からないが、戦う事になると覚悟しておくべきだろう」
それがミンダウガスの答えであり、覚悟であった。
その上でミンダウガスは究極の対モンゴル策を語る。
「タタールから攻められない方法。
それは、攻めると損だと思わせる事だ!」
「やはりそれですな。
ノヴゴルドの市長もその結論です」
ノヴゴロドは貢ぎ物を出し続ける、もし攻めて都市を燃やしてしまえば、その貢ぎ物を得られなくなる、そう計算させたら良い。
リトアニアは、これからミンダウガスがどうするか考えるが、基本攻めても無駄だと思わせたい。
だが、仮にモンゴルに攻められなくなろうとも、もう一方の脅威の方は、リトアニアとノヴゴルドを目の敵としていた。
帯剣騎士団が消滅した今、新しい別の脅威がエストニアに押し寄せて来ている。
帯剣騎士団は極めて評判が悪かったが、一方で他のキリスト教国を遠ざける障壁としても機能していた。
同じキリスト教国のデンマークをエストニアの地から追い出し、利権の独占を図っていたのだ。
その帯剣騎士団がドイツ騎士団に吸収合併されると、デンマークと新たに北方の強国スウェーデンがエストニアを目指し始める。
教皇の仲介で、エストニア北部の利権はデンマークに譲渡される。
一方スウェーデンはスカンジナビア半島南部、バルト海沿岸部を支配下に収めていき、現在のフィンランドの首都で、エストニアの対岸に当たるヘルシンキ周辺までを領土とした。
西暦1238年は、ドイツ騎士団とデンマークによるバルト北部の分割統治の取り決めが為されていた。
それ故に彼等は攻めて来なかったのだが、もう制約は消えている。
猶予期間は消え、リトアニアとノヴゴロドはいつ十字軍から攻撃されてもおかしくなかった。
「ミンダウガス公には、東のタタールだけではなく、北の十字軍にも対処願いたく存じます」
ノヴゴロドの使者はそう市長の言葉を伝えて帰って行った。
言われるまでもない。
若き日のトラウマから過度にモンゴルを恐れていたミンダウガスだったが、成長して再びモンゴルに接した後は、適切に恐れるように変化する。
まあ、彼にその自覚はないが。
明日にでも得体の知れない魔物に襲われるから何とかしないとならない、この切迫感が彼を筆頭公爵にまで成り上がらせた原動力ではあるが、改めてじっくりモンゴルを見てみると
(彼等も所詮は人間の集まりに過ぎない。
考えてる事は意味不明だが、基本的に欲しい物を手に入れたいだけの人間だ。
角と牙と蝙蝠のような羽根が生えているとか、
目は縦に裂け、体は鱗に覆われ蛇の生き肝を好んで食べるとか、
満月の夜に巨大な化け物に変わって大地を滅ぼすとか、
青い肌で下品な男は穴に落として処刑するとか、
犬を殺してその腹に穀物を入れて食べるとか、
そんなのは恐怖で誇張された虚像でしかなかった)
ミンダウガスは、モンゴルがルーシを征服し尽くすまでに掛かる時間と、十字軍が攻めて来る時間とを天秤に掛け、十字軍の方が差し迫った脅威として対処する事を決める。
大分大局的に物を見られるようになって来た。
ミンダウガスはゆっくりと、リトアニアだけで通じる統治者から、世界史におけるプレーヤーへと進化している。
十字軍の中で、エストニア北方の利権を確保したデンマークは、これ以上の行動を止めた。
エストニア南部からリヴォニアを支配するドイツ騎士団リヴォニア支部が、差し迫った脅威である。
本隊であるプルーセンのドイツ騎士団にも警戒をせねばなるまい。
ミンダウガスは、時に兵を率いて、時に現地の公爵に一任してリヴォニア騎士団の小規模な侵攻を防いでいた。
この戦いに、彼は虎の子部隊である軽騎兵を出していない。
モンゴル軍を中から見て、まだ全然足りないと実感したからだ。
リヴォニア騎士団は今までの戦法で対処可能。
ドイツ騎士団は、悪いがジェマイティア人、そしてその頭目であるヴィーキンタス公に任せる。
救援要請があれば対処するが、それ以外は他の公爵たちに一任する。
その間に、ミンダウガス直轄領はノヴゴロド商人との交易で富を貯め込んでいく。
その富を使い、より多くの馬を揃え、リトアニア人で無くても騎乗の得意な者を雇用し、ちゃっかりとモンゴル軍から貰って来た彼等の弓を参考に短弓を改良し、軽騎兵をより強力な兵団として作り変える。
数は力だ。
あの大地を覆い尽くすような兵力があって、纏まって使われて軽騎兵は強さを発揮する。
少数の部隊のまま使っても、相手に学習されるだけだろう。
願わくば、一戦で相手を壊滅させる切り札に。
ミンダウガスが諸公たちに、口うるさくタタールがどうだとか、軍事改革だとか言わなくなった事を、公爵たちは喜ばしく感じている。
自由気ままが好きな彼等にとって、シャウレイの戦いまでは我慢したのだから、これからは昔のようにやらせて欲しいという思いは強い。
ミンダウガスの側から見れば、ある意味彼等を見限ったとも言える。
彼等の責任で自領の防衛をさせる一方で、もう彼等の兵力に頼る事無く、自分の経済力でリトアニア国軍を成長させる事に方針を切り替えた。
まだ信頼出来る仲間がいるものの、次第に彼は統治者の孤独を抱えるようになる。
そんなミンダウガスの元に、朗報が届いた。
それは国を守る苦労を理解し合えるかもしれない存在の誕生であった。
1240年7月15日、ノヴゴロド公国とプスコフ公国の連合軍が、フィンランドから侵攻したスウェーデンのビルイェル准国王をネヴァ川において撃破したのである。
それは国対国の雌雄を決する戦いではない、単なる国境付近での小競り合いであった。
しかしスウェーデンはネヴァ川及びラドガ湖という水運の要衝を奪う事に失敗し、将軍のスピリドンを討ち取られてノヴゴロドから撤退、以降手出し出来なくなる。
少数の兵を以て外敵を撃破したノヴゴロド公アレクサンドル・ヤロスラヴィチは、この勝利によってこう呼ばれる。
「ネヴァ川の英雄」アレクサンドル・ネフスキーと。
今も語られるロシアの英雄がここに爆誕した。
おまけ:
ネヴァ川の戦いは無かった説もありますが、本作ではあったものとします。
スウェーデンの「ヤール」は「国王級の家臣」「将軍」という意味で、国王ではなく大貴族の称号です。
分かりやすいよう、本作では「准国王」としておきます。
どうせこの後出て来ないし。




