ダウスプルンガスという男
リトアニアの地勢は、東に高地アウクシュタイティヤ、西に低地ジェマイティア、その中間にウピテ地方、南部にデルトゥバがある。
アウクシュタイティヤ・ウピテ・デルトゥバを主にリトアニアと呼び、ジェマイティアは少し系統が違う民族の住まう地であった。
ざっくり言うと、リトアニアとジェマイティアの連合政体が現在の形である。
リトアニアは東のルーシに目を向けている。
ジェマイティアは西のポーランドやプルーセンと関係が深い。
両者の共通の敵が、北のリヴォニアの帯剣騎士団であった。
「あなた、まだ寝ないのですか?」
ここの所、色々な書面や図面と睨めっこしているミンダウガスに、妻ルアーナが声を掛ける。
これまでにこの二人の間には子が一人しか生まれていない。
出生に難があり、体質的にも忌避されているルアーナは、中々妊娠しない事でも周囲から非難されていた。
ミンダウガスはそんな事を気にする事も無く、彼女を愛しているのだが、最近は夜が遅くなっている。
そういう意味でも、ルアーナにはミンダウガスが夜遅くまで考え事をしているのが気になるのだ。
「中々、騎兵が上手く作れない。
狩猟には良いのだが、戦闘用の騎射が出来ない。
どうしたものか……」
「そんな事を私に言われましても……」
「いや、独り言だから気にしないでいいよ。
君はただ俺の傍に居てくれたらそれでいい」
ミンダウガスは、モンゴルに倣った兵制改革を進めている。
彼の頭にあるのは軽騎兵だ。
現在の乗馬歩兵や、追撃時だけの騎兵とは違い、戦闘のほとんどを馬上で行う。
それには、長距離から接近戦まで主力となる弓騎兵が重要になる。
しかし、接近しての騎射はともかく、長距離では役に立たなかった。
バルトの民族は、騎馬民族並に馬が好きである。
そして狩猟をよくする。
獲物を追いかけて矢を放つが、かなり近づいてからのものだ。
戦争では、そういう場面ばかりではない。
カルカ河畔で経験したように、遠距離から矢の雨を降らせられ、それで盾を持ち鎧を着こんだ騎士を倒さなければならない。
それには威力が強い弓が必要である。
しかし、馬上で扱うのは短弓であり、長弓に比べて威力は落ちる。
モンゴル軍も短弓であるが、膠を使って複数の素材を貼り合わせ、固めた複合弓であった為、威力は段違いであった。
矢の雨を降らせるのだから、命中率はそこそこでも良いのだが、それも中々難しい。
せめて大体の位置に、距離のブレなく射かけられれば良いのだが、馬上では中々姿勢が安定せず、近過ぎたり、遠過ぎたりしてしまう。
古い騎兵が、弓よりも投槍を使っていたのは、単に鐙が無かったからだけではない。
そこは入口で、更に先があるのだ。
「あ、つまらん事を言ってしまったな」
ポカーンとしている妻を見て、ミンダウガスは謝る。
「申し訳ございません。
私はそういう話に全くついていけませんので。
貴方様のお役に立てません……」
そう、女性が皆、プリキエネのような政治や謀略といった事に長けている訳でもないし、軍事の事を語り合える訳でもない。
ルアーナは肌が弱い為に農業もほとんどした事がなく、好きなのは森でキノコやベリー類を集める事と、料理をする事である。
ミンダウガスの助けになれない事で寂しそうにしている妻を見て、彼は今夜はこれくらいにして寝床に向かおうかと思った。
ミンダウガスの軍事改革は進んでいない。
それでも構わず、敵はやって来る。
ハリチ・ヴォルィニ公国の一部を占領している帯剣騎士団が、リガの部隊と示し合わせてリトアニアに侵攻を仕掛けて来た。
偵察部隊からその報を受けたミンダウガスは、まだ戦力にはなっていない「軽騎兵」は残し、従来の部隊で迎撃に向かう。
だが、そこで彼は思いも掛けぬ人と会った。
「助けに来たぞ、ミンダウガス」
それはダウスプルンガスの軍であった。
「兄貴!
どうしてここに?」
「敵が来たからだ」
「いや……兄貴は俺の邪魔をするとか言ってなかったか?」
「それは民には関係の無い話だろ。
くだらん事を考えるな」
「まあ、そうなんだが……」
ダウスプルンガスとはこういう男である。
政治的、感情的に彼は弟を理解出来ず、改革は邪魔すると宣言していた。
しかし、いざという時には好き嫌いという感情を出さない。
嫌いな奴でも、同族・仲間である以上は助ける。
共に戦ったからといって、分かり合う事もしない。
それはそれ、これはこれ、という思考。
義に篤く、伝統を重んじ、頑固で好き嫌いが激しいが、いざという時は皆と手を組んで、先陣に立って戦う。
プリキエネが見誤ったように、裏で小細工をする能力もあるが、そうして嫌がらせをした相手とも非常時には、まるで対立なんか無かったように協力する。
以前プリキエネに泣きついた時と違い、ダウスプルンガスもまた成長していたのだ。
古い漢は古い漢なりに、立派になるものである。
「なんだ?
俺の助けは要らんのか?」
「いや、助かるよ兄貴。
敵は東と北から来る。
俺だけでは手が足りなかった」
「聞いたぞ。
お前はルシュカイチャイ家のヴェンブタス公と手を組み、副将を任せているそうじゃないか」
ヴェンブタスは、以前プリキエネに紹介された「軍事の手練れ」である。
ハリチ・ヴォルィニ公国との和約に署名した21人の公爵の一人だが、所領が小さく、手持ちの兵力は少ない。
プリキエネからは
「皆を束ねて道を示す事は出来ないが、示された道の障害を取り除くなら、我が身を顧みずにやってくれる男さね」
と評され、副司令官向きだと判断された。
だから彼の兵力に、軽騎兵としての訓練をして、成功したらそれを波及させようと考えている。
「兄貴も中々地獄耳だね」
「まあな。
あいつとは歳の頃も近いし。
で、そのヴェンブタス公はどうした?」
「今回は留守を守って貰ってます」
「お前が変な訓練をさせていなければ、あいつも参戦出来たんじゃないか?」
「いや、変な訓練とかじゃないよ」
「今はあれこれ言うまい。
だけど覚えておけ。
リトアニアにはリトアニアに合った兵の姿があるんだ。
無理して変えても、いざという時には役に立たんぞ」
それくらいはミンダウガスも承知している。
だが、いつまでもリトアニア国内の、自分たち有利な場所だけで戦うかどうか?
「今はあれこれ言わないのは助かる。
とりあえず、手持ちの兵力で戦おう。
俺は東から来る連中を叩きのめす。
兄貴は北の方を頼めるか?」
「分かった」
ダウスプルンガスはそれだけ言うと、自軍を北に転進させる。
いち早く森の中に入るつもりだ。
「我々はルーシに向かう」
ミンダウガス軍は東に向かって馬を進めた。
こちらは川沿いの湿地を使っての戦闘となろう。
双方の戦力は騎士階級が数十騎、従士を含めて数百といったところである。
小競り合いではあるが、負けたら国が荒らされる。
ミンダウガス軍は矢を射かけ、それが防がれるのを確認すると引き返す。
自分たち得意の地形への誘導だが、今回帯剣騎士団はそれに乗らない。
遠くから罵詈雑言を浴びせ、この戦場から動く気は無さそうだ。
「どういうつもりでしょう?
あの誉りだけはクソ高い、だから罠と知っても引き下がらない狂信馬鹿が、乗って来ないなんて」
部下が疑問を口にする。
ミンダウガスには理由が分かる。
「ここに俺たちを足止めし、その背後を北から来る連中に襲わせる。
そうなれば挟み撃ちにあった俺たちは敗北するって事だが……」
「北にはダウスプルンガス公が向かわれましたな」
「まあ、兄貴なら負けないだろう。
勇敢な森の戦士だからな」
ミンダウガスの信頼通り、森に潜んだダウスプルンガス軍は、通過する騎士団に背後から奇襲を掛けた。
予め、伐採した灌木を束ねた障害も敷いてある。
森の中にも、ぬかるんだ場所はあり、そういう地の利も得ていた。
森の中で自在に動くダウスプルンガス軍に対し、騎士団側は武器である長槍を上手く振るえない。
直進距離が稼げない狭い空間では、突撃がしにくい。
近接戦で、森の民らしく斧を叩きつけるリトアニア軍。
如何に騎士団の鎧が強固でも、斧で来られると防ぎ切れない。
斬撃は防げても、打撃は効いてしまう。
何度も何度も叩きつけられると、防御が破綻してしまう。
騎士団は被害を出すと、不利を悟って逃げ出していった。
神からも見える平地や大地で、正々堂々馬を走らせ戦ってこそ名誉ある神の使徒。
こんな鬱蒼とした場所で、地を這いまわる敵から、樹木を伐られるのと同じ扱いをされるのは不名誉、別に逃げても恥にならない。
騎士団を追い払うと、ダウスプルンガスは追撃を禁じた。
「今からミンダウガスを助けに向かう。
皆の者、行くぞ!」
北方部隊の敗走と、ダウスプルンガス軍の合流を知った騎士団は、被害を大きくしないように後退を始めた。
ミンダウガスとダウスプルンガスの部隊は、それを追いはしたが深入りはせず、残していった物資を回収するとこちらも後退した。
「兄貴、今回は助かったよ。
礼を言う」
ミンダウガスが握手を求め、素直に謝意を述べた。
ダウスプルンガスは特に気負う事もなくそれを受ける。
「まあ、一個貸したからな。
それは戦場で返してくれ」
そう言って弟を抱擁する。
そして弟から離れると
「まあ、次は政治の事になるかな?
俺としてはまた兄弟で仲良くなれるよう、お前が考えを改めるのを期待するよ。
そうでない限り、俺はずっとお前の邪魔をするからな」
そう背中越しに語りながら、手を振って去っていった。
ミンダウガスの兄、ダウスプルンガス、彼はこのような人物であった。
おまけ:
ユーラシア大陸の東の果てを更に行った島に、馬上で長弓を扱い、騎士並に接近戦もする、地上戦闘もこなす、崖から下りる、鎧着て馬乗って泳ぐような変態騎乗兵がいる事を、欧州人は誰も知らない。
そしてそいつら、モンゴル軍ですらドン引く蛮族。




