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十三 章

 ねっとりと纏わり着くような深い闇の中を、ぼくと水城は肩を並べて進んで行った。強力なライトは、この密度の高い闇の為に、妙に頼り無い光条を放っている。


 背後の開かれた入り口からは、ほのかな月の光が差し込んでいるが、その光さえ濃密な闇によって、喰らい尽くされ、黒く塗りかえられていくようだ


 ライトに照らされたその床は、ぼろぼろに腐り果てた畳である。一歩ごとに踵が湿った音を立て、体が数センチは沈んでいく。いつ足元が抜け落ちてもおかしくは無い。それでもぼくたちは進んでいかなければならない。


 木戸とルクレツィアは、この不気味な本堂に入らず、バックアップとして外に残っていた。ルクレツィアはぼくを通じて、ぼくの見ている情景を見ているだろう。もっとも、荒れ果てた寺の内部はあまりにも暗く、たいした物は何も見えないが。


 それにしても酷い臭いだ。肉の腐った臭いと、鼻につく香のような匂いが混じりあい、思わず胃の中のものが、喉元にまで込み上げてきそうだ。何の匂いだろう?


 水城は目だけを動かして、辺りの様子を窺っているようだ。暗すぎてその表情ははっきりしないのだが、かなり緊張しているように感じられる。水城にしては珍しい事だ。それほどまでに、〈鬼の姫巫女〉と言う存在は恐ろしいものなのだろう。


 ぼくは自ら施した精神防御の御陰で、そのような不安や恐怖を感じない。しかし、それも良し悪しなのだ。恐怖や緊張も、多少は無ければならないのだ。それがあってこそ、人間は慎重に行動できるのだから……。


 今のぼくにはそれが欠如しているようだ。こんな時に水城の表情を気にしているなど、まったく、ぼくは何をやっているんだ。


 ぼくのセンサーははっきりと、二つの〈デーモン〉の存在を認識している。それが徐々に近づいている。足取りはゆっくりとしたものだが、そのうちの一つは確実に近づいてきている。この墨を流した水中のような闇の向こうで、それは静かに息づいている。


 距離はどれくらいなのだろうか? ぼくたちのライトは途中で遮られているように、その姿を浮かび上がらせてはくれなかった。


 ぼくは自分の直線上にそれがいる事を認識した。さっきから、冷たく凍えるような〝妖気〟を浴びせかけられているのだ。姿は見えなくとも、すぐ傍までそいつは近づいている!


 ベネリを持ち上げ、肩づけして構えた。安全装置はその時点で押し込まれ、解除されている。引き金にかかった人差し指に力が入る。


「やめろ! 憂姫がどこにいるのかわからないんだ。散弾なんかぶっ放したなら、下手すると彼女にも当たるかも知れないぞ!」


 水城がそう言って、ベネリの銃身を押しのけた。


 それもその通りだ。ぼくはテレパシーで憂姫の存在を認識出来ないのだから、目視に頼るしかないのだ。もっとも、それが出来れば苦労はしない。


「この闇は〈鬼〉の妖術で創りだされたものだ。人工的な光はほとんど無効化される」


「それじゃ、どうすればいいんだよ? このままじゃぼくたちがやられちまうぜ?」


 前方から聞こえてくる、喘ぐような息遣いは確実に距離を縮めている。ぼくは唇を噛み締めて、光の届かない前方の闇を睨みつけた。


 それはそこに居るのだ。いつでもぼくたちに跳びかかれる状態で……。


 水城は〈鬼哭刀〉を突き出して、なにやらぶつぶつと唱えた。こいつは魔術師なのか?ぼくは水城が何をしようとしているのか、じっと彼を見つめた。聞き取りづらいその呟きが、密教の真言だと気づいた時、水城は大きな声で叫び、〈鬼哭刀〉で空間を切り裂いた。


 濃密な闇が一瞬のうちに消え去り、ライトの輝きが本来の明るさを取り戻した。


 本堂の屋根や壁は、所々破れて穴が開いていた。そこから月の青白い光が射し込んでいる。まるで幻影のように、本堂の内部が浮かび上がってきた。思ったより広く、そして朽ち果てていた。そして──




 ぼくの目の前、五メートルほどのところに、その化け物は立っていた。




 これは〈鬼〉なのだろうか? ぼくたちはその姿を目の当たりにして、思わず固まってしまった。なんと巨大で、醜い〈デーモン〉であろうか?


 それは肥大した筋肉の塊であった。ただし皮膚が溶け落ちている。赤い肉がびくびくと蠢き、青黒い血管が浮き出していて、じくじくとした気味の悪い体液が滲み、腐って歪んだ畳の上に滴っていた。これが吐き気を催す悪臭の元だったのだ。


 その短い手足は醜くただれ、犀か象のように固く、弛んだ表面をしていた。ぼくの胴回りより太い腕をしている。そしてその指先の爪は長く、湾曲した鎌の刃に似た鉤爪になっていた。一薙ぎでぼくの身体を両断出来そうなほど長く、そして鋭かった。


 膨れ上がった胴体の黄色っぽい脂肪層と、赤黒い筋肉が蠢くたびに、その表面から白く小さな蟲が、畳の上にぽろぽろとこぼれ落ちた。見たことないほど大きな蛆虫だった。


 胃の中のものが一気に込み上げてきた。心の防御を施していなければ、間違いなくそれをぶちまけていただろう。


 しかし、ぼくが本当におぞましさを感じたのは、その肉塊の上にちょこんと乗っている、翠の黒髪に縁取られた、青白い美しい女の顔であった。


 秀でた額、小振りだがすっきりと通った鼻梁、肉感的で形の良い赤い唇、切れ長だが二重のおおきな目……。


 それはルクレツィアのサイコメトリーで目撃した、あの〈鬼の姫巫女〉、綺堂院亜耶華のものであった。


 亜耶華はぼくを見て、ゆっくりとにじり寄ってきた。その瞳には輝きはなく、まるでガラス玉のように、無機質な光を反射している。


 ぼくは彼女の心の波動を受けた。それには怒りも憎しみも、何も感じられなかった。感じられたのは、すべてが終わったという達成感と虚無感、そして僅かながらに、こんなはずではなかったと言う驚愕が顕われていた。

 かつては美しかった〈鬼〉の姫は、腐り、凄まじい悪臭を放つ醜い肉体を、息も絶え絶えにして動かし続けた。まるでぼくという存在が、その目に入らないかのように……。


 吐き気を堪え、ぼくはベネリを発射した。酷い悪臭の為に、涙まで流れてきた。まともに目が開けていられず、その膨れ上がった胴体に銃口を向けた。頭を狙う余裕が無かったのだ。その巨大な肉塊は、もう手を伸ばせば触れる位に近かったかのだから……。


 ガク引き気味に、引き金を三度も引いた。轟音が響いた次の瞬間、ぼくの顔や胸には、生温かいどろどろしたものが跳んできた。酷く臭い。


 それがなにかわかった瞬間、ぼくは胸に込み上げてきたものを、とうとう我慢できなくなった。身体を二つに折りながら、胃の中の物を空っぽにする行為が止められない。


「莫迦、何をしていやがるんだ! さっさと避けろ!」


 水城が叫んでいるのが聞こえ、胃液で汚れた口元を拭う気力もなく、喘ぎながら顔を上げてみた。


 涙でぼやけた視界に映ったのは、黄色い腐汁を滴らせ、蠢く蛆虫をわかせている赤黒い肉壁であった。そしてその上には──。


 虚無を湛えていたはずのその瞳に、明らかに狂おしいほどの、餓えの光を満たしている、〈鬼の姫巫女〉の美しい顔があった。


 生存本能のなせる技だろう。ぼくは横っ飛びに腐った畳の上に転がった。


 次の瞬間、崩壊しかけている肉体とは思えないほどの速さで、巨大で鋭利な鉤爪が、ぼくの立っていた空間を薙ぎ払った。空気が裂ける音が盛大に上がった。直撃されていたのなら、ぼくの胴体は完全に両断されていただろう。


 しかし、これで胸を撫で下ろすの早かった。新鮮な肉に餓えたそいつは、真っ向からぼくを、その赤い目で睨みつけていた。


 ぼくがその目を見た時、亜耶華の心が僕の中に侵入してきたのを察知した。戦闘モードの自己暗示の御陰で、完全に心を支配される事は防げた。しかし、彼女か残していった思念から、その肉に対する執着心を覗き見て、女子高生の死体を貪り、喰い荒らした存在が何者であったか知る事が出来た。


 唸り声を上げ、亜耶華はさらに肉薄して来ようとする。慌ててぼくは立ち上がり──そして死を覚悟した。


 ぼくの脚は腐った床板を踏み抜き、両脚とも太ももまで嵌ってしまったのだ。


 長く、忌まわしいほど鋭い鉤爪が、ぼくの頭上から落ちてきた。


 最後まで目を瞑るまい。ぼくは目を見開き、その鉤爪がぼくの頭蓋骨を叩き割るまで、顔を逸らさぬように歯を食いしばった。 


 だが──その鉤爪は遂にぼくの頭には届かなかった。それが頭上に落ちる瞬間、その鉤爪はぼくの髪の毛にも触れる事なく、そのまま横に逸れていった。


 同時に、亜耶華の頭が真っ赤な霧に包まれ、そして消えてなくなった。


 僅かに遅れて、遠いところから銃声が響き渡った。


 ぼんやりとした頭の中で、木戸が発射したしたばかりのライフルを構え、満面の笑みを浮かべている姿が浮かんで消えた。


 結局、木戸は約束を果たしてくれたのだ。


 かつては〈鬼の姫巫女〉であったその肉の塊は、ゆっくりと溶け始めた。ばくはなぜだかそれを見て、切ないような、やるせないような哀しみを感じていた。


 僅かな間とはいえ、亜耶華と心をリンクしていた影響だろうか?


「大丈夫か、おい?」


 水城が右腕を差し伸べた。何も言わずにぼくはその手を掴んだ。


 ぐいっと、一気に引き上げられ、ぼくはまだ底の抜けていない畳の上に這い上がった。汚れた顔を乱暴に袖で拭くと、小さな声で呟いた。


「ありがとう──」


 それは水城に対して初めて使った言葉だった。それが聞こえないように、わざと小さな声で呟いたのだが、急に水城はにやにやと笑い出した。


「足元に気をつけろよ」


 そう言った水城の顔に、パンチを繰り出したくなったが、その言葉を無視する事にした。


 水城はぼくの顔を見て、大げさに肩を竦めた。そして真面目な顔つきになり、辺りをライトで照らしながら、半眼になって何かを探している。


 憂姫はどこにいるのだろうか?


 ぼくはいまだ目の前に現れない、もう一つの〈鬼〉のけはいに気をとられながらも、闇の中に憂姫の姿を探し求めた。


 木戸とルクレツィアが本堂の中を進んできた。妖術による濃厚な闇は、水城の力によって消えていたから、二人はすぐに僕たちのところまでやって来た。もちろん、足場の悪いのは同じであったから、おぼつかない足取りではあった。


「どうしたの? あの娘は見つからないの?」


 ルクレツィアが、足元を気にしながら近づいてそう訊いた。


「ああ、どこにもいない。もしかすると、ここには居ないのかも知れないな……」


 ぼくは胸に去来した不安を口に出した。すると水城が怒ったように口を挟んだ。


「憂姫は絶対にここに居る! 俺にはわかるんだ──ぶつぶつ言う前に、しっかり探せよ。それに、もう一体の〈デーモン〉には気を配っているのか?」


「わかってるよ!」


 ぼくは怒鳴り返したが、すっかりもう一人の〈デーモン〉の存在を忘れていたのだった。しかも、そのけはいはすでに感知されていない。まさか──逃げたのか?


 ぼくがそれを告げると、水城の顔が険しくなった。


「〈鬼〉が逃げるだと? ──そんな事がある訳ない」


 水城はそう呟くと、自分の考えに没頭するように黙り込んでしまった。


「何で〈鬼〉は逃げないと言えるの?」


 そうルクレツィアが、顎に手を当てて考え込んでいる水城に訊ねた。


 ゆっくりと顔を上げ、水城はルクレツィアの問いに答えた。


「それはな、奴らの本能が暴力衝動と、際限ない飢えに満たされているからだ。奴らは危険などを考えない。自分が滅ぼされる事を認識出来るのは、上位の〈鬼〉ぐらいなものだからさ。そしてここに居た鬼神は、さっき滅んだ綺堂院亜耶華の成れの果てだけのはずだからだ。だからそれ以外の〈鬼〉ならば──」


「──おまえらはさっきから何を言っているんだ?」


 いきなり木戸がそう言った。声が心なしか震えている。そして左手を上げて、まだそこだけには闇が色濃く残っている天井を指差した。


「あそこに居るじゃないか! 〈鬼〉なのか──憂姫なのかわからないが……」


 くすくすと言う忍び笑いが上から響いてきた。憂姫の笑い声は聞いた事が無かったが、それは恐らく、憂姫の声なのだろう。なぜかぼくはそう確信した。


 音も無く、軽やかに、白いひらひらとしたスカートを翻し、憂姫が暗い闇の中から、天使のように優雅に舞い降りてきた。それが死の天使だと思えたのはぼくだけだろうか?


 白いドレスはルクレツィアのようなフリルとレースで華美に飾られているもので、憂姫の漆黒の髪が強調されていた。彼女は満面に蕩けそうな甘い笑みを浮かべ、ぼくの目の前で大きく手を広げた。


 ぼくは凍りついたようにその姿を見つめ続けた。ルクレツィアがしがみついているのが、おぼろげに感じられた。


「遅かった──のか……」


 水城の苦渋に満ちた呟きが聞こえたが、それについて何かを問う事さえも出来なかった。


 ぼくは憂姫の笑顔を見て、驚きのあまりに立ち尽くしていた。憂姫のその微笑は、あの物悲しいような寂しげな微笑ではなかった。それどころか、挑発するような、どこか淫らな視線を孕み、男の欲望を喚起させるような淫蕩なものに感じられた。


 憂姫はもう、以前の彼女ではなくなってしまっている。ぼんやりとした思考の中に、それだけは真実を得ていると確信していた。そこで先程の、水城の呟きの意味が理解できた。


憂姫はもう──〈鬼の姫巫女〉として生まれ変わってしまったのだ。それが何を意味し、どういう事になるのかは知らないが……。


 憂姫は両手を広げたそのままで、まるで荒れた畳の上を滑るように近づいて来た。ぼくは思わず後ずさってしまう。顔が強張っているのが自分でもわかる。


「どうしたの? なぜわたしから逃げようとするの?」


 憂姫が小首を傾げ、愛らしい笑顔を作り出そうとしている。それがぼくには、さらにおぞましい行為であった。それがあの儚げな微笑からは、程遠いと言う事がわからないのか?


「どう? あなたの為にこの服をあつらえたのよ。こう言うのが好きなのでしょう?」


 にじり寄るその姿に、ぼくは嫌悪感を隠せずにいた。ルクレツィアが険悪な表情で憂姫を見つめ、ぼくの左腕に更に強い力で抱きついてきた。


 舌打ちした水城が、〈鬼哭刀〉を構えながらぼくと憂姫の間に割って入った。


「これ以上近づかないでくれ」


 そう言って、切っ先を憂姫に向ける、水城の半眼にした眼の中に、苦痛の色が見えたのは気のせいだろうか?


 憂姫は水城の姿を認識して、露骨に鬱陶しそうな視線を向けた。微かな苛立ちと怒りの感情が、憂姫の周りから発散されるのが感じられた。その瞬間、一度は感知出来なくなった、最後の〈デーモン〉の存在が明らかになった。やはり憂姫が……。


「邪魔しないで。あなたには感謝しているから、見逃してあげてもいいわ。だからわたしの邪魔をしないで」


 憂姫は傲然にも、水城の顔を睨みつけるとそう言い放った。


 もっとも、そんな程度の脅しでは、水城はびくともせずにいた。無言で唇を噛み締め、憂姫に向かって一歩踏み出した。


 だが、憂姫が軽く横に手を振ると同時に、水城の体が吹き飛んだ。長い距離を跳び、朽ちかけた木板の壁に激突した。呻き声を上げ、そのまま水城は崩れ落ちた。


「ちくしょう! どうしてこんな事になっちまったんだよ?」


 叫びながら木戸は、長いライフルの銃身を憂姫に振り向けた。悲壮な表情でスコープを覗いていた。引き金に指は掛かっているが、ぼくにはそれが引かれる事はないだろうとわかっていた。


 憂姫が無造作に、何かを投げる動作をした。木戸が何かをライフルで受けるように、それを目の前で横にした。木戸には自分に向かって来る、何かが見えていたのだろう。


 そして木戸の愛用のマグナム・ライフルは、頑丈な機関部を二つに折られ、その衝撃によって木戸は後ろに吹き飛んだ。意識も失われたらしく、そのまま動かない。でも──ああ、何とか生きてはいてくれた……。


「何をするんだ! 君は何を考えているんだ?」


 ぼくは思わずそう叫んだ。その問いが何の意味も持たないのを知っていて……。


「うふふ。決まっているじゃない。あなたが欲しいだけ。だから邪魔しないでと警告したのよ。それに殺してはいないわ。あの人たちに怨みはないもの」


 その一見すると無邪気な笑いに、ぼくは心底ぞっとした。恐怖に対しての防御を施していると言うのに、背筋が凍るような恐怖を感じていた。


「冗談じゃないわ。誰があんたなんかに祐騎を渡すものですか!」


 ぼくの前で腕を広げ、まるでぼくの盾になるかのように、ルクレツィアが立ち塞がった。


 莫迦、止めろ! 憂姫は尾ルクレツィアを憎んでいる。木戸や水城のように、殺すまでもないと思ってはくれないんだ!


「──やっぱりあなたは嫌いよ。わたしが持っていないものをすべて持っていて、そしてそれが当たり前のように思っている……。


 あなたみたいな女が昔から一番嫌いだったわ。やはりあなた、消えて頂戴。死んでしまえば祐騎だってあなたを忘れてしまうわ」


 憂姫は瞳を金色に燃え上がらせ、木戸に投げつけた何かを、もう一度ルクレツィアに投げつけようと、おおきく腕を振り上げた。


「止めろ! 憂姫、頼むから止してくれ」


 ぼくはルクレツィアを抱き抱え、自分の胸に抱きしめた。


 憂姫は逡巡し、ぼくを睨みつけた。そしてゆっくりと振り上げた腕を下ろす。


「ならばわたしと一緒に行きましょう。そうすれば他の人間は殺さないで置いてあげる。その女もね。さぁ、どうするの?」


 ぼくは憂姫を鋭い視線で見た。そうであって欲しかったが自信はない。ただ、絶対に彼女を恐れている事だけは知られたくない。


「どうしてぼくなんだ? 何故ぼくじゃなければならないんだ? 君は〈鬼の姫巫女〉に転化した。それはわかっている。ぼくたちは君を守り切れなかった。でも、それでぼくが必要になる訳じゃないだろう? それどころか、ぼくは憎らしい敵のはずだ。一思いに全員を殺してしまうと言うのが、本来の〈デーモン〉の考えじゃないのか?」


 憂姫は一瞬だけ恐ろしいほどの怒りと、そして人間だった時の哀しい表情を見せた。


「それはあなたが愛され過ぎているからよ。あなたは周りの人々に愛され、そして大事にされている。その癖あなたは誰も愛していない。それなのに何故、あなたばかりが愛されるの? あなただってわたしと同じ化け物のくせに! だからあなたが欲しいのよ。愛されていながら、誰も愛していないあなたが、わたしだけを愛する事になるように」


 青白い顔に、そこだけ色づいているかのように浮かんでいる、真紅の唇が歪んだ笑みを浮かべていた。恐ろしい執着心、妄執と呼べる念が発散されている。


「何を訳のわからない、変な理屈をつけているのよ?」


 ルクレツィアがぼくの腕の中から脱出し、腰に両手を当てて叫んだ。小さな体を精一杯大きく見せようとして、憂姫を睨みつけている。


「それに祐騎が誰も愛していないって? 莫迦な事を言わないでよ! わたしは彼に愛されているわ。それがあなたにはわからないって言うの?」


 ルクレツィアの瞳に、挑戦的な輝きが浮かんでいるのをぼくは見逃さなかった。


 憂姫の眼が細り、表情が消えていった。そして彼女はルクレツィアに近づくと、いきなりルクレツィアを張り飛ばした。その衝撃によって、ルクレツィアは派手に吹っ飛び、床の上で気を失ってしまった。


 ぼくは短く叫び、腰のパラ・オード45口径を引き抜いて憂姫に向けた。しかし、憂姫は素早くぼくの右手首を掴み、淫らな微笑を浮かべた。激しい痛みを感じ、右手の力が抜けた。ぼくはパラ・オードを落としてしまったのだ。


「ねぇ、もう足掻くの止めてくれない? 本当にあの娘を殺すわよ」


 押し殺した声で、憂姫は呟いた。息が触れそうなほどに近づいているその顔を見て、ぼくは改めてこの娘の美しさに感じ入った。


「どうして君は、自分が愛されていないと思ったんだ?」


 右手首の痛みを堪え、ぼくは憂姫に訊いた。すると、憂姫は一瞬だけ憂いを帯びた表情を浮かべた。だがすぐに、嘲笑に似た微笑を取り戻す。


「そうね。わたしは幼い頃から自分の家族に恐れられ、蔑まれて生きてきたわ。あなたもわたしの家族が、本物の家族ではなかった事を聞いているでしょ? それに学校でもわたしは避けられていたわ。苛められていたのね。容姿の所為で女の子はわたしを憎み、男は劣情を顕わにして迫ってきたわ。そんな生活がずっと続いたの。

 あなたもそうなのでしょう? わたしにはわかる。あなたのその力は、人間のものとは思えないほどの強さを持っているのが。しかも、人間にとって最も忌避されるテレパスですもの、あなたの今までの生活は、わたしと似ているはずよ」


そんな事はない──とは答えられなかった。確かにぼくは、この悪魔じみた能力の為に、家族や友人から疎まれていたのだから。それに、愛情と言うものに対し、ぼくはずっと懐疑的だった。だからある意味では、憂姫の言う事に共感できるのだ。しかし──


 ぼくには愛してくれている人が居る。その事が理解できたのは最近の事であったが……。


「悪いけど、ぼくは君とは違うよ。ぼくが誰に愛されているかは知らないけど、ぼくはちゃんと人を愛せている」


 ぼくは淡々として答えた。この憐れな少女を、更に傷つける事を言うのは厭だったが、それでも、誰が一番大切なのかはわかっていた。


「それに、君が誰にも愛されなかった何て、どうしてわかるんだ? ぼくも家族を憎んだ事があったよ。でも、家族はそれなりの愛情を持っていてくれた。それがわかったのは、彼らが死んでしまった後の事だけど……。


 君の家族が偽者だった事は聞いたよ。でも、それでも、その人たちは最後まで、自分が死んでしまうまで、君を守ろうとしたんじゃないのか?」


 憂姫が眼を見開き、ぼくの襟首を掴んで持ち上げた。細い腕のどこにそんな力があるのだろう? 彼女の瞳の奥に、怒りの熾き火がくすぶっていた。


「あなたに──あなたに何がわかるって言うの?」


「わからないさ」


 首が絞まっている為、あまりはっきりしない声でぼくは言葉を続けた。


「でも、君が憎しみと怒りの為に、自分自身で〈鬼〉に変わる事を望んだのはわかっている。そして、心さえも人ではなくなってしまった事も……」


 憂姫の顔から表情が消えた。ぼくはそれでも話すのを止めない。


「君はわざと亜耶華を──自分の〈親〉を生かして置いたんだな? それが彼女の望みではない事を知っていながら、獣のように、飢えを満たす事だけを考えて生きていくような、おぞましくも憐れな化け物に変えてまで……。

 

 あの女は死にたかったはずだ。ぼくは彼女の意識からそれを感じた。


 君はあの女が、それを厭うとわかってそうしたんだな? 絶望と悲しみを忘れようとして、ただ完全な死をのぞんでいたのに、憂姫、君は──


 その姿を眺めて、ただ自分が嘲笑う為だけにそうしたんだな!」


「だからどうだって言うの?」


 憂姫は何の感情も含まれていない、平板で乾いた声で答えた。


「もういいわ。わたしと一緒に生きていけないのなら、あなたにはここで死んで貰うわ。もちろん他の人間も一緒に、ここで始末してしまうわ」


 憂姫はそう言って、ぼくの首に両手を添えた。


「本当に──残念だわ」


 軽い溜め息を吐き、哀しげな声で呟いた。


「あなたならわかってくれると思っていたのに──」


 上目遣いに見つめるその瞳には、何もかも失ったと言う絶望と、自暴自棄になった人間に見られる暗い翳が宿っていた。その瞳を覗きこんだ途端、ぼくの脳裏に、瞬時にして憂姫の記憶がフラッシュのように映し出された。


 ──ああ、なるほど……。そういう訳なのか。


 ぼくは足掻くのを止めて、全身から力を抜いた。好きなようにするがいい。


 ぼくにも理解出来る。彼女の憎しみと怨みの念が、どうして形成されたのかが、わかってしまった。そして彼女はもう、愛情とか慈しみと言った、言うなれば〝正〟、もしくは〝善〟と呼べる、人間的な感情を完全に失ってしまっている事を……。


 それは〈デーモン〉と呼ばれている異質な存在の思考、感情ではなかった。虐げられて形成された、歪んだ人間のものだったのだ。


 ぼくは憂姫の哀しみや怒りに同調して抵抗を止めた訳ではない。そのおぞましくも醜い感情が、結局は人間そのものである事を知り、やるせなさと絶望を感じてしまったからだ。


 こんな世の中に生き続けるなんて……。



 ──もう、どうでも良かったのだ。



 酸欠の所為だろう、頭の中がぼんやりとして、次第に意識が遠退いていく……。


 いきなり響いた耳障りな銃声によって、ぼくは一瞬のうちに覚醒した。


 首を絞められていた感触がなくなり、酸素を求めている肺が痛んだ。激しい咳の発作がおそってきたて、思わずぼくは膝をついて喘いだ。


 涙の滲んだ眼を開けてみると、金髪を振り乱したルクレツィアの姿が、ぼんやりと浮かんできた。


 ルクレツィアは両手を伸ばし、その発射されたばかりの拳銃を握り締めていた。初めて敵に対して、いや、生きている者に発射された拳銃は、おおきく震えている。ルクレツィアは青白い顔に、呆然とした表情を浮かべていた。唇の端から、血が流れている。


 憂姫は眉を顰めて、脇腹の傷を手で押さえ、ゆっくりとその血に濡れた左手を目の前に持ってきた。それを見て、信じられないと言った表情を浮かべた後、鋭い視線をルクレツィアに向かって投げかけた。


 蒼白な顔をして、ルクレツィアは更に引き金を引こうとした。しかし、それよりも早く跳躍して、一瞬の内に距離を縮めた憂姫は、ルクレツィアのシグを払いのけ、右手を手刀の様に振り上げた。


 ぼんやりとそれを見ていたぼくは、ルクレツィアの危険を察知した瞬間に、思考を介さず、体が反応しだしたのを理解した。自動的に脇の下の1911に右手を伸ばして、それを抜くと同時に安全装置が外される。照準するのももどかしく、憂姫の背中に照星が合わさると同時に引き金を二度引いた。ぼくは、自分でも信じられないほどの速さで、それを行ったらしい。まだ憂姫の手刀は下ろされていなかった。


 憂姫は背中に着弾した、45ACP大口径ホロー・ポイント弾の衝撃により、その細身の身体を仰け反らせた。バランスを崩して二歩ほど前進し、そしてゆっくりと振り返り、ぼくを見つめた。唇を歪めた微笑を浮かべているが、その瞳には怒りの炎が燃え盛っている。


 ぼくが自己暗示による、精神攻撃に対しての防御を張り巡らせていなければ、その時点でぼくの身体は、凍りついたように動かなくなってしまっただろう。それほどの恐怖と鬼気を、憂姫はぼくに向かって放射していた。


 ぼくは思わず叫んで、1911の引き金を引き続けた。憂姫の美しくも恐ろしい顔面に向かって……。


 しかし、その銃弾は彼女の身体に届く前に、見えない壁にぶつかり、すべて弾かれてしまった。物理的な攻撃を遮断する、防御壁が創り出されていたのだ。上級の〈デーモン〉が持っている、念動力を用いたバリアーだった。

 

 憂姫はぼくの動きを弄うようにじりじりと近づいて来た。微笑は嘲笑に変わっている。


「愚かな人──わたしと一緒に来てくれれば……」


 すでに憂姫は、ぼくの目の前に立っていた。両手で構えた1911を、憂姫は無造作に伸ばした右手で掴み、歯を剥きだして笑った。その歯は、すべて鋭く尖っていた。

 

 もう駄目だろう。どこか醒めた考えでぼくは覚悟した。どうせぼくの銃弾は、彼女の身体まで届かないのだから、握った拳銃も役に立たないだろう。


 ぼくは大きく息を吐き、憂姫をじっと睨みつけた。それしか出来る事がないからだ。


「ねぇ、もう一度訊くわ。わたしを倒す事なんか出来ないのはわかったでしょう? わたしはすでに、〈鬼の姫巫女〉を継承したのだから、あなたたち人間には滅ぼす事なんて出来ないのよ。だからもう観念して、わたしと一緒に行きましょう。あなたもわたしと同じ、〈闇の種族〉に転化してあげるわ。不死の一族になれるのよ? それにわたしは、あなた以外の眷属を持つ気はないから安心して」


 憂姫は優しげな声で懐柔しようとした。しかしその声は、今までの儚げで控えめな響きを一切持たず、明らかにぼくを服従させようとする圧力を含んでいた。


 ぼくはちょっとだけ考えた。ぼくが犠牲になる事で、みんなが生き残れるのならば──でも、ぼくはやはりそんな風に思えなかった。本当にルクレツィアたちを生かして帰す訳はないだろう。今のぼくはもう、それほど憂姫を信用していない。


「厭だね」


 ぼくの口からでた言葉は、結局のところ自分本位な答えだった。


 悪いな、みんな。ぼくは自己犠牲の精神を発揮するような人間じゃないんだ。ぼくは、みんなで死ぬ事を選んでしまうような人間なんだよ。


「そう──もう、いいわ……」


 その表情が一瞬だけ哀しげに曇った。それは以前の、〈鬼〉になる前の憂姫の表情だった。


 すっと彼女の右腕が上がり、ルクレツィアの悲鳴が上がった。


 ぼくは最後まで目を瞑らずに、憂姫の手刀が降りてくるのを持っていた。何の表情も失ってしまった憂姫は、綺麗だったが酷く哀しげに見えた。


 ぼくは殺されようとしているのに、憂姫に対して済まないと言う気持ちが湧いてきた。ぼくは最後まで彼女を拒絶してしまった……。


 憂姫の右手が風を切って落ちた瞬間、気合の声が響き、目の前でその右手が飛んだ。水城が、青く輝く刀身の〈鬼哭刀〉を、憂姫の右腕に叩きつけたのだと気づくまで、ちょっとの間かかった。でもどうして、あのバリアーを破れたのだろう?


 肘から先がなくなり、鮮血を噴出している右腕を押さえようともせず、憂姫は数メートルほど飛び退いた。水城の〈鬼哭刀〉が、何もない空間を音を立てて薙いだ。盛大に舌打ちした水城は、平突きの構えで脚を踏ん張った。いつでもダッシュ出来るように。


 ぼくは後退した憂姫の顔面に向け、反射的に1911を振り向けて発射した。心は膿み疲れて動くのを拒否していたのだが、身体だけがそれに反応しているのだった。


 目の前で45ACPの弾丸が砕けるのを見て、一瞬だけ彼女は怯んでしまった。まだ〈鬼〉と化して間もない所為であろう。水城はその隙を見逃さない。叫び声を上げて、一気に憂姫に向かって突き込んだ。


 何の抵抗もなく、水城の握る〈鬼哭刀〉は、憂姫の胸の真ん中に突き刺さり、背の方に貫通してしまった。 


〈鬼哭刀〉は、金属が弾けるような甲高い音を立てていた。そして低い、唸り声のような響きを絶え間なく、刀身から発していた。憂姫の背中から生えているように見えるその刃は、青い光から真紅の光に変えながら眩しいほど輝いている。


 ああ、この音が〈鬼〉の慟哭する声なのだ。〈鬼哭刀〉の名の意味が、今はっきりとぼくには理解できた。


 それは美しくも哀しい音色であり、悍ましい怨嗟の呻き声であった。


 憂姫の魂がその蒼き輝きを放つ黒々とした刀身に貪り食われていく……。


 水城がその刃を抜くと、力の抜けた吐息を漏らし、憂姫はゆっくりと身体を横たえた。ぼくを見つめるその瞳から、次第に輝きは失われつつあった。そして全身から白い煙が立ち昇り、急激に肉体が崩れ始めた。


 水城は苦渋の色を浮かべた眼差しで、憂姫の蒸発しようとしている肉体を見つめていた。


「終わったの……?」


 ルクレツィアが近づきながらそう言った。殴られた頬が青黒く腫れ上がっているのが痛々しい。


「ああ──これですべて──終わったよ……」


 気の抜けたように水城はそう答えた。そしてすでに青い光に戻った〈鬼哭刀〉を鞘に収めた。はっきりと聞こえるような、大きな溜め息を一つ吐き、顔を上げた。


「さぁ、帰ろうぜ」


 もう二度と振り返らず、水城は先程通った道を歩き出した。一瞬だけ戸惑っていたが、木戸も脚を引き摺りながら、その後に着いて行く。


 ぼくはじっと、その白骨だけになったしまった憂姫を見つめていた。なんとも言えぬ罪の意識が残っている。それがなぜだかぼんやりと理解していた。


 ルクレツィアがぼくの背中から腕を回し、ギュッと抱きしめてきた。温かい気持ちがぼくの中に流れ込んで来る。


「あなたが気にする事じゃないのよ。かわいそうだけど、人の心を自由しようなんて、やってはいけない事なんだもの。でもそれほどまでに、祐騎の事が好きだったのね」


 ぼくはルクレツィアの言葉を聞いて、ようやく、なぜ憂姫がぼくに拘ったのかがわかった。ぼくは憂姫に恋心を抱かれていたのだった。そしてその執着心が、彼女を〈鬼の姫巫女〉へと促したのだと理解していた。


 結局、憂姫の思いに応えられなかったと言う事が、ぼくの心の中に、言いようのない罪悪感と後悔を植えつけていたのだ。


 憂姫がぼくに執着したのは、ぼくの中に自分と同じものを感じた為なのだろうか? 憎悪と憎しみを糧に育つなにかを……。


 でも今は──背中に感じるルクレツィアの温かさだけは、手放したくはなかった。それは本当に心の底から生まれている感情だった。


 

 月の青白い光の中、ぼくたちはお互いの腕を絡ませて歩き出す。



 それが永遠に続く事だとは信じてはいない。でも今は、それが幻ではなく、現実のものだとわかっている。だから──


 この温もりを守っていこう。いつか絶望がすべてを飲み込んでしまうまでは……。

 




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