49 北限の鷲⑩
『赤い雄鶏』の幹部構成員は焦り始めていた。ベルフォンテーヌ宮殿の主庭園への侵入は成功したのに、どの班からも合図がない。
「どうなってるんだ。もう第二幕が始まった、庭園の貴族どもに爆弾を投下するのは海戦の場面だぞ」
ジャン=リュック・カナールが苛立った声を出した。
「バティストもマチューも何をやってる」
組み立て式の投擲装置は地下水路から運搬し準備ずみなのに、花火師の荷物に紛れて運び入れた肝心の爆薬が届かない有様だ。刻々と時間は過ぎ、オペラ『エクセルシオール』は山場を迎えようとしている。幹部たちは待つしかない状況だった。
がさがさと葉が擦れる音がした。カナールたちはぎょっとした顔で音の方を見た。そこに『赤い雄鶏』の構成員がよろけながら現れた。彼は幹部たちに叫んだ。
「マチューたちが追われてる。爆薬を持って集合した場所に衛兵がいたんだ」
彼らは騒然となった。
「どういうことだ?」
逃げてきた構成員に詰め寄ると、傷だらけの男は吐き捨てるように答えた。
「知るかよ! まるで待ち構えてたみたいにうじゃうじゃ出てきやがった。マチューは抵抗してるけどいつまでもつか…」
カナールらは周囲を見渡した。遠くからオペラの勇ましい曲が聞こえてくるだけだが、それが却って不安を煽った。暗闇からいつ何時、官憲が捕縛の手を伸ばしてくるのか。
「…撤退しよう」
一人がぽつりと漏らした言葉が彼らの道を決定づけた。
「そ、そうだな。今はあまりに不利だ」
「ここは一旦引いて出直ししなければ」
言いながら幹部構成員たちはじりじりと水路の第六出口に向かい、後は声すら発せず水路に駆け込んだ。
ひとまず安全を確保すると、彼らの中に次第に怒りが沸き起こってきた。
「どうしてなんだ、あれだけ綿密に立てた計画が…」
「まさか、裏切り者が?」
禁断の言葉は全員の抑えた疑惑を浮上させた。
「それなら、ここにいない者だ」
「まさか、奴が?」
「あの医者だけが単独行動をしてただろ」
意見の一致を見る構成員に向けて、嘲笑が浴びせられた。
「やれやれ、ここまでお膳立てしてやっても失敗するとはな」
聞き覚えのある声が水路に響き、カナールは逆上した。
「ピエール、どこだ? 貴様が裏切ったのか?」
「自分の無能を人のせいにするな」
「何だと!」
「計画も忘れてここに逃げ込んだ己の迂闊さを恨め」
姿を見せぬままの宣言とほぼ同時に何かがきしむ音がした。
「何だ?」
「水門か?」
何故と考える間もなく足元の水量が一気に増えた。
「これは…、あの噴水の?」
ようやく自らの過ちに気付いたカナールが、必死で戻ろうとした。
「早く出るんだ! 海戦の場面が始まる!」
竜の泉から大量の水を溢れさせて海のような効果を狙う演出だと情報を掴んでいたのに、捕まる恐怖から水路に入ってしまった。致命的な失敗を回避しようと、カナールたちは必死で歩いた。
「うわっ」
一人が溢れる水に足を滑らせた。前を行く仲間の服を掴み、道連れにするように水の中に引き込む。その連鎖が幹部たち全員を呆気なく水没させた。
水は一気に水路の天井付近まで満ち、男たちを呑み込む。手足をじたばたさせてもがいていた彼らは一人また一人と動きを止め、やがて水に流され揺らめくだけのものへと変化した。
オペラ『エクセルシオール』第二幕では、迫力のある海戦が繰り広げられていた。
仲間の惨状を知らない幹部マチュー・エロンは完全に衛兵に取り囲まれた。銃を構える警備隊に向け、彼は口元を歪めると上着の前を開いた。
「撃てるなら撃ってみろ!」
マチューの胴部には爆薬を詰めた袋が巻き付けられていた。衛兵たちが射撃をためらうのを笑い、彼はマッチを取り出した。
「こうなったら道連れにしてやる!」
自爆を敢行しようとした革命家の足元に、蛇のように地面を伸びてきたものが絡みついたのはその時だった。先端に石を取り付けたロープが彼の片足を拘束した。マチューが外そうとするより先にロープが引かれ、彼はもんどりうって転倒した。すぐさま衛兵が手足を押さえて確保する。爆薬の袋をむしり取ると縄を掛け、警備隊はマチューを連行しようとした。
「待ってくれ」
足に絡んだロープをほどいたのはマルセルだった。彼の背後から、探偵のシモンが覗き込む。
「ちょっと教えただけなのに上手いもんだね、兄さん。失業したらうちに来いよ」
「考えとくよ」
苦笑いしながら、マルセルはロープを探偵に返した。
「単純だけど役に立つな」
「南方大陸の狩りで、逃げる動物の足元に投げて絡め取るんだ。うちのお嬢さんがこの手のものが好きでね」
型破りで知られるサラ・パンソンらしいとマルセルは頷いた。騒動が終わればこんな場所にもオペラの音楽が聞こえてくる。
シャルロットは皇后たちと楽しく見物しているだろうと、彼は疑いもしなかった。
海戦の場面でいきなり竜の泉から水があふれ出すのに観客は度肝を抜かれた。作り物とは思えない帆船が水の上を進み、主人公の将軍と敵国の王子が一騎打ちを繰り広げる。最後は姫君に贈られた短剣で将軍は王子を討ち取り、愛する者を取り戻す。観客席から盛大な拍手が湧き起こった。
その中、侍従に何事かを告げられた皇太子が両親に詫びて桟敷席を立った。彼はまっすぐに宮殿に進んだ。
警備本部で侵入者を招きかねない抜け道のことを聞かされたアロイスは絶句した。
「……そんなものが」
「ディロンデル公爵家や他の家は異常ありません。あとはドートリュシュ大公家とダイグル公爵家です」
シャルロットの訴えに元帥の息子は従うべきと判断した。
「二班を向かわせる。ロシニョール嬢、ダイグル公爵の部屋の抜け道はどこに?」
「暖炉の奥です。上に置いた花瓶が固定装置役をしていますので、花瓶を下ろして右側から押せば開きます」
「分かった」
警備隊が出て行き、シャルロットは間に合うことを祈った。そして、この場にマルセルがいないことに気付いた。
「マルセルなら、侵入者の確保に行っている。順調だからすぐに戻ってくるよ」
心境を見透かしたようにアロイスに言われ、皇后の侍女は顔を赤らめた。
ドートリュシュ大公の部屋前に到着した警備隊は、既に数名の護衛が待機しているのを見て驚いた。
「失礼、貴官の所属は?」
「皇太子殿下の直属部隊だ」
「では、殿下が中に?」
顔色を変える警備隊に、彼らは苦渋の表情を見せた。
「殿下のご命令だ」
主のいない暗い部屋で、皇太子ルイ・アレクサンドルは一人椅子に座り待ち続けた。やがて、がたりと音がして壁の額縁が動いた。絵を押し上げるようにして出てきた人影は使用人の制服の埃を払い、持っていた袋から何かを取り出した。それを部屋の隅に仕掛けようとした時、侵入者は腕を掴まれた。
振り向いた彼女は、背後に立つ皇太子と対峙することになった。庭園で波を思わせる仕掛け花火が点火され、窓を照らした。その中に浮かび上がるのはダイグル公爵令嬢の姿だった。
「久しぶりだね、ダイグル嬢」
「殿下……」
わなわなと震え、彼女は皇太子にすがりついた。
「みんな、私の本意ではありません。父と兄の虐待で母が精神を病んだのも、革命家たちの手先にされたのも」
目を潤ませての訴えに、皇太子はかつての婚約者を抱き寄せた。安堵するダイグル公爵令嬢の耳元で彼は囁いた。
「知らないとでも思っているのか? 君がファニアを――私の小白鳥を殺させるために、誰にどんなおねだりをしたのかを」
彼の両手が公爵令嬢の細い首を掴み、締め上げた。
「その手で何人破滅させれば気が済むのだ、この毒婦!」
声も出せない公爵令嬢の手が、震えながらスカートの隠しに伸びる。次の瞬間、皇太子の口から呻き声が漏れた。彼の胸元にはナイフが突き立てられていた。
倒れるルイ・アレクサンドルを見下ろしながらダイグル公爵令嬢は乱れた髪を直し、言い捨てた。
「あんたはいつも、詰めが甘いのよ」
室内の異変を感じた護衛が駆け込む直前に、彼女は窓から脱出した。
「殿下!」
「医者を呼べ!」
激痛を堪え、皇太子は命令した。
「…あの女を逃がすな」
庭園では勝利の二重唱が海戦の終わりを告げていた。




