36 赤い雄鶏の声⑩
リーリオニア皇国首都シーニュ。ベルフォンテーヌ宮殿や貴族の屋敷が建ち並ぶ整然とした街並みから離れた下町で、聖光輪教会が簡易診療所を設置していた。
医師や看護師の資格を持つ尼僧たちが貧しい人々の診察をし治療を施す中、見習い修道女が忙しく働いていた。
「姉妹モニカ、こちらの方に包帯を」
「はい、姉妹ソニア」
包帯を持つモニカの手つきは手慣れたものだった。腕に怪我をした子供に素早く巻いていくと、彼女は子供と母親に笑いかけた。
「はい、これでおしまい。あ、包帯は汚れたらすぐに洗って、煮沸消毒してから使ってください」
「ありがとうございます、ほら、お礼言って」
「ありがと…」
ぺこりと頭を下げ、母親に手を引かれて帰って行く男の子をモニカは見送った。
「ジョスもよくあちこち擦りむいてたな」
幼くして病死した弟を懐かしく思い出しながら、モニカは後片付けに掛かった。医療用具の数を点検して箱詰めしていると、彼女に医師が声をかけた。
「お疲れ様、頑張ってるね」
「ピエール先生」
顔を輝かせて、彼女は昔なじみの医師に駆け寄った。
「今日はこっちの当番なんですか?」
「そうだよ。頑張ってるね」
「はい、この辺りはモグリのヤブ医者しかいないし、最初にちゃんとした治療を受けなかったから助からなかったり障害が残る人も多くて」
ニドの街は鳥の巣のようにごちゃごちゃした迷路のような下町だったが、それでも人々は職を得て日々の糧を稼いでいた。そう回想しながら、モニカはあちこちに汚物が溜まる貧民街を眺めた。
ピエール医師は他の尼僧たちと何かを話し合っていた。やがて、奉仕団の責任者である年配の尼僧が見習いを呼んだ。
「姉妹モニカ、こちらの先生が私たちの活動への寄付者を探してくださいました。寄付の品を取りに行ってきてください」
「分かりました、姉妹イネス」
簡単な地図をもらってモニカは歩き出した。進むうちに周囲の景色は変わっていった。貧民街から下町、中産階級の住宅街、富裕層のお屋敷町、そして貴族街。ここまで来ると通りには時折紋章付きの馬車が行き来するのみで、人影も希だった。モニカなどには閑静すぎで物寂しいくらいだ。
「ユリと羽根飾りの紋章……あった。……大きなお屋敷」
貴族の家なら平民が入れるのは裏口しかない。モニカは更に歩いて裏手に回り、開いていた裏門をくぐった。
「すみません、修道院の者です。こちらで寄付の品をいただけると聞いて参りました。どなたかいませんか?」
モニカの呼びかけに誰も答えなかった。ウィンプル越しに頭を掻き、見習い修道女はそっと裏口を開けた。
中は酷く薄暗かった。むっとするようなどんよりした空気と湿気を感じ、モニカは顔をしかめた。
「何なのよ、こんなに天気がいいのに窓もカーテンも閉め切って」
誰にも呼び止められないまま廊下を進む。奥に行くとドアが半引きになった部屋から呻き声がした。病人だろうかと、モニカの職業意識が反応した。
「あの、大丈夫ですか?」
覗き込んだ室内はやはり薄暗く、ソファに横たわる人物がぼんやりと分かるだけだった。彼はうつろな目を宙に向け、ぶつぶつと呟きながらガラス製の奇妙な形のパイプに手を伸ばした。
常軌を逸した様子にモニカは後ずさった。
「何なの、ここ……」
もう寄付など頭から飛んでいる。小走りに廊下を戻る途中で人の話し声がした。思わず壁際に身を寄せ大きな花瓶の陰に隠れる。話し声は男性と若い女だった。
「……どうして、さっさと始末できないの」
「計画のためだ。我々が改革する世界の……」
そっと覗うと、黒髪の女性がちらりと見えた。
「……あれ、確か女学園で…」
記憶にある顔だとモニカは首を伸ばした。だが、声の主たちは遠ざかっていく。つい花瓶に凭れる手に力を入れ、動かしてしまった。ごとりという物音が予想外に殷々と廊下に響く。モニカは反射的に猛然と駆けだした。裏口まであと少しという所で誰かに肩を掴まれ、見習い修道女は飛び上がった。
しかし振り向いた彼女が見たのは知り合いの顔だった。
「よかった、ここの人たち、おかしいんです」
半泣きで訴えるモニカはいきなり殴られ昏倒した。ぐったりとした見習い修道女の周囲に、いつしか人影が集まっていた。
皇后に仕える日々の中で、シャルロットはロシニョール男爵の違法行為の証拠がどうなったかやきもきしていた。
その報告は意外な人がもたらしてくれた。面会に来た者がいると言われ、シャルロットは下庭園に出た。そこで待っていたのはディロンデル公爵令嬢ユージェニーだった。
「ディロンデル様、どうされたのですか」
「探偵社のシモンさんから連絡が来たの。男爵の机から無事に文書を回収して、別物にすり替えて男爵邸に戻したとか」
公爵令嬢は密偵の活劇のような状況を楽しんでいるようだった。
「それで、証拠になる物は見つかったのでしょうか」
「それらしい書類はあったのだけど、暗号で書かれているそうですの」
「……あの欲深な小心者らしいです」
公爵令嬢は笑い、扇の陰から告げた。
「男爵夫人の侍女が優秀で、その暗号を驚くほどの勢いで解読していますのよ」
「マダム・モワノが……」
男爵の行動をほぼ完璧に記録していた彼女だ。あの男の思考や癖が手に取るように分析できるのだろう。
「暗号はどうやら聖光輪経典を使っているようですわ。とんだ罰当たりね」
「神を身も恐れない自分に酔っていたのでしょう」
冷たく言い放ち、探偵社の作業が早く実を結ぶことをシャルロットは祈った。
「こんな時に申し訳ないんだけど、悪い知らせだよ」
すっと会話に入ってきたのはウジェーヌ・ガロワだった。隣に難しい顔をしたアロイス・ヴォトゥールもいる。
「何かあったのですか、ガロワ様」
「アロイスたちが昨日『赤い雄鶏』のアジトを急襲したんだけど、もぬけの殻だった。変装までして探り当てたのに」
「どこからか情報が漏れていたようだ」
アロイスが悔しそうに言った。ウジェーヌが友人の肩を叩いて慰めた。
「かなり際どいとこだったんだ。奴ら、機密文書をいくつか残してたよ。焼却する暇もなかったようだ」
そして彼は表情を変えた。
「実は、この騒動の間にロシニョール男爵がオテル・プーレから姿を消した」
シャルロットは驚愕の表情を彼に向けた。ウジェーヌはしょげた野良犬めいた顔で詫びた。
「内務省も人手が足りなくて。どうしても『赤い雄鶏』の追跡より優先順位が落ちるから」
「仕方ないことです」
誰も責めない男爵令嬢に改めて頭を下げ、内務卿の息子は周囲を素早く見渡し小声で言った。
「男爵が君にテロリストの名前を知らせた意図は何だろう」
「分かりません。名前しか知らない人間をどう見分ければいいのか」
「そうだね、男爵が君を侮っていたなら最も愚かな行動を期待したと思うよ。例えば、皇后宮の周囲の人に訊いて回るとか」
〈デルフィーヌ〉には段々と彼の示唆することが飲み込めた。
――そう、皇后付きの侍女が反政府組織の構成員の名前を知っているだけでも大問題ね。下手をすれば陛下の関与を疑われるわ。男爵はメモなど知らないで通せばいいのだから。
「皇后陛下の失脚でしょうか、目的は」
「まあ、皇王陛下は温厚なお人柄で、重大問題の決定に皇后陛下の意見を聞くのは知られているからね」
そんなことになれば皇家に激震が走る。譲位するとしても若い皇太子を不安視する者が出てくるだろう。
「そこに頼れる大物として登場するのが大公殿下ということかしら」
ユージェニーが扇をくゆらせながら大胆な意見を述べた。
意見を交換した後、友人たちと別れてシャルロットは皇后宮に戻ろうとした。途中で庭園に黒い一団を見つけた。尼僧たちだった。
「あれは、聖ミュリエルの」
シャルロットは彼女たちに歩み寄り、礼をした。
「ご機嫌よう、院長様」
「ああ、ロシニョールさん。あなたを探していたのよ」
思いも寄らない声をかけられた男爵令嬢は、その後更に想像もしなかったことを告げられた。
モニカの失踪を。




