氷高内親王
氷高内親王はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/148442257)
一
八洲(本州・四国・九州)には王や首長を墳墓に埋葬する習俗があった。
墳墓のほぼ半数には女性が埋葬されており、八洲に土着の倭人は女性も王や首長となった。
しかし、八洲が震旦(中国)の文明を取り入れるに連れ、震旦と同じく王や首長は男性がなるものという価値観が浸透していった。
それでも、八洲は震旦と比べ、女性が社会的に男性と大差ない地位を保ち、政治と軍事の両面で相当に大きな発言権と役割を持った。
それは日本なる統一国家が八洲の大部分を支配しても根強く残り、君主である天皇にも女性が少なくなかった。
だが、男系の男子こそが天皇になるべきという意識も芽生えつつあった。
そのことが日本の法典たる大宝律令にも表れていた。
そこには女帝の子も即位できるとあり、女系の女子であっても天皇となれるかのように読めた。
ただし、それは男性の皇族を父に持つことが前提とされていた。
そのように日本では皇統を男系に限定するか否かで駆け引きが繰り広げられた。
震旦の法体系たる律令を導入するのに貢献した藤原氏は、皇統を男系の男子に限定し、一族の女子を天皇に嫁がせ、皇室と一体化することで実権を握らんと画策した。
それに対して皇室は藤原氏の貢献を認めてはいたが、彼らに取り込まれるのを警戒し、男系と女系のどちらでも継承できる双系を維持しようとした。
そうして氷高内親王は微妙な立場に置かれた。
彼女は祖母が讚良天皇で、阿閇天皇を母とし、珂瑠天皇は弟に当たった。
氷高内親王が誰と婚姻するかで男系と双系の力関係が大きく変化しかねなかった。
それゆえ、周囲もどう教育するか決めあぐね、本人が恋愛よりも学問に関心を示したこともあり、氷高内親王は色事から遠ざけられた。
ところが、彼女はそれが災いし、男性に耐性がなくて笠麿/麿から誘惑されると、簡単に惚れてしまった。
女好きの麿は宮中でたまたま出会った氷高内親王を皇女とは知らずに誘惑した。
氷高内親王は目鼻立ちが理想的に整っており、髪は背中を覆うほど長かった。
張り詰めた乳房は綺麗な形を保ち、先端は赤みがかっていた。
腰は極限まで引き締まり、足に至る曲線は蜂のようだった。
そうした氷高内親王を誘惑した麿は、女性にもてるべく優しくてまめだった。
氷高内親王は容易く恋に落ち、麿に体を許した。
麿の手が氷高内親王の上衣を開き、豊満な乳房を掴むと、淡紅色の乳暈に埋もれていた乳首が露出した。
氷高内親王の乳首に麿の唇が触れ、麿が乳首を吸い、痛いほどの刺戟に彼女は全身をわななかせた。
胸から顔を離した麿は、氷高内親王の衣服を全てを脱がし、眩しいほど白い彼女の下半身が露わになった。
全裸で横たわる氷高内親王の体に麿が入れると、彼女は悦楽に呻き、彼の首に腕を巻き付けて力一杯に抱き締めた。
麿は全身の力を込めて腰を振り、汗まみれになった氷高内親王は、歯を食い縛って眉を寄せ、甘美な絶頂感に獣のごとく咆哮した。
やがて彼女は妊娠し、麿は自分が孕ませた相手が皇女と知った。
氷高内親王は麿との子供を産むと言って聞かず、ここでも男系と双系の駆け引きが影響し、彼女は無事に出産できた。
誕生したのは久勢内親王なる娘だった。
久勢内親王は伊勢太神宮(伊勢神宮)に巫女として派遣され、本土の畿内(奈良県・京阪神)から遠ざけられた。
伊勢太神宮に祀られる天照は皇祖神とされ、彼女に仕えることは名誉とされた。
こうして氷高内親王と久勢内親王は不名誉を免れた。
しかしながら、麿を捨て置くわけには行かなかった。
麿は飽く迄も愛人とされ、氷高内親王と正式に婚姻したとは見なされなかったため、暗殺されて闇に葬られるということはなかったが、美濃国(岐阜県南部)の国司に任じられて体良く左遷された。
美濃国では信濃国(長野県)に繋がる街道の開削が進められていた。
信濃国は讚良天皇の夫たる大海人天皇が副都を置こうとしたところで、日高見(東日本)を治めるための拠点だった。
けれども、美濃国と信濃国の間は深い谷と峻険な山が連なり、街道の開削は困難を極めた。
二
藤原不比等/不比等は美濃国へ赴任する麿に対し、四男の藤原麻呂/麻呂を副官として付けた。
不比等は大宝律令の編纂で責任者を務め、藤原氏の長である藤氏長者として宮中に多大なる影響力を有していた。
そのような不比等にしてみれば、麿は藤原氏が皇室の外戚となるのに目障りだった。
麻呂は麿を監視し、彼が街道の開削に失敗したなら責任を押し付け、成功すれば手柄を横取りするよう不比等に指示されていた。
しかし、その指示は麻呂を複雑な気持ちにさせた。
麻呂の母たる藤原五百重/五百重は大海人天皇の妾だった。
彼女は大海人天皇の歿後、不比等に引き取られて彼の子供を産んだ。
その子が麻呂だった。
五百重は大海人天皇に先立たれ、生じた心の隙間を不比等に埋めてもらい、藤原氏が皇室と一体であることを示すのに役立った。
だが、育ちの良さから麻呂は心優しくて穏やかで、弁舌と音楽の才に恵まれるなど感受性が豊かだった。
そうした麻呂にとって不比等と五百重の密通で産まれたことは、彼に複雑な気持ちを抱かせ、荒んだ生活を送らせた。
しかしながら、女好きの麿は男にも社交的だったので、一人で酒を飲む麻呂にも気さくに接した。
麻呂はそうした麿に懐き、現地の豪族らも彼に好意的で、皆で歌を詠み交わすこともあった。
おかげで美濃国の統治は上手く行き、藤原房前/房前が東海道(東海地方・関東地方)と東山道(滋賀県・中部地方・東北地方)を巡察すると、その治績を賞されて褒賞を与えられた。
房前は不比等の次男で、麻呂が麿と親しくしていることを父に報告した。
それを聞いた不比等は、麿に利用価値を見出した。
美濃国や尾張国(愛知県西部)など日高見は馬の飼育に適し、強力な騎兵を提供していた。
大海人天皇は「壬申の乱」という内乱に勝って即位したが、その勝利に貢献した「壬申の功臣」は、多くが日高見の出身だった。
彼は地方にも配慮すると約束し、日高見の豪族を味方に付け、「壬申の功臣」の子弟を中央の官吏に登用した。
藤原氏は「壬申の乱」で敗れた側に属し、震旦の法体系たる律令に通暁していたおかげで再起できたが、「壬申の功臣」とは微妙な関係にあった。
そこで、不比等は美濃国の豪族らと仲の良い麿に恩を売り、彼を通じて「壬申の功臣」の基盤である日高見に楔を打ち込もうとした。
麿は麻呂を介して不比等から藤原氏に与しないかと誘われた。
氷高内親王のことを忘れられていなかった彼は、不比等の誘いに乗った。
宮中の大物たる不比等に気に入られたなら、中央に返り咲くことも夢ではなく、逆に彼を敵に回せば、帰京できなくなるどころか命を狙われかねなかった。
不比等の手先となった麿は、藤原氏の勢力を植え付けるため、これまで以上に国司の仕事に力を入れた。
そうして彼は麻呂や美濃国の豪族らと共に吉蘇路(木曽街道)という街道の開削を成功させた。
開削の成功は参加者に一体感を抱かせ、麿が美濃国の豪族らを藤原氏の側に与させるのを容易にした。
再び褒賞を与えられた麿は、尾張国の国司も兼ね、麻呂ともども位階を上げた。
他方、首都たる平城京では氷高内親王が阿閇天皇から皇位を譲られ、四十四代目の天皇である氷高天皇となっていた。
氷高天皇は即位してから間もなく連続して二度も美濃国に行幸し、どちらも麿が彼女を出迎えた。
麿はその腕を掴んで氷高天皇を押し倒した。
体が氷高天皇の豊かな乳房に重なり、衣を通して彼女の鼓動が麿に伝わった。
氷高天皇は麿に手を伸ばし、しなやかな指でその髪を掻き分け、彼の眼差しが彼女の視線を絡め取った。
ゆっくりと顔を近付け、麿は氷高天皇の赤い唇に触れた。
彼は強く唇を押し付けて氷高天皇を貪り、彼女もそれに応えた。
吐息が絡まって舌が蠢き、唇が深く重ね合わされ、麿は氷高天皇との媾合いに溺れ込んだ。
三
地方の行政を監督する按察使が設置されると、麿はこれも兼ね、三河国(愛知県東部)と信濃国も管轄するようになった。
麿が平城京に帰ったのは不比等が亡くなってからで、麻呂と共に帰京した。
二人は更に位階が上がって麿は右大弁に、麻呂は左右京大夫に任じられた。
弁官は諸官司を管轄下に置き、左弁官と右弁官に分かれ、それぞれに大弁・中弁・少弁がいた。
京職は京の行政を司り、東西で左京職と右京職に分かれ、長官は大夫と言った。
麻呂は特別に都の東西を統轄した。
都に栄転した麿は、正式に婚姻できなくても氷高天皇と内縁の関係を結べると考えていた。
ところが、麿と氷高天皇の間には溝が出来ており、昔と同じようには行かなかった。
帰京してからも麿は藤原氏のために働いていたが、氷高天皇はそれを快く思っていなかった。
氷高天皇に位を譲った阿閇天皇は、皇室が藤原氏に取り込まれつつあるのに気付き、危機感を募らせていた。
阿閇天皇は孫の首親王を跡目としていたが、彼の母は不比等の娘である藤原宮子/宮子だった。
首親王には宮子の異母妹たる藤原安宿媛/安宿媛が嫁いでもおり、藤原氏の血脈が皇室を搦め取ろうとしていた。
そこで、阿閇天皇は氷高天皇に譲位し、首親王の次は吉備内親王の子供を位に就けようとした。
吉備内親王は阿閇天皇の娘、氷高天皇の妹に当たり、皇族である従兄の長屋王に娶られ、子宝にも恵まれてもいた。
長屋王の父は大海人天皇の長男たる高市皇子で、「壬申の乱」を勝利に導き、皇族にして「壬申の功臣」の筆頭だった。
学問に興味を持つなど聡明な氷高内親王も不比等の野望を見抜き、太上天皇/上皇となった阿閇天皇/阿閇上皇と危機感を共有した。
首親王と安宿媛の子が即位すれば、その天皇には不比等の血が父母の双方から流れ込んだ。
かつての外戚である葛城氏や蘇我氏でさえそこまでしなかった。
長屋王と吉備内親王の子供に皇位を渡すため、阿閇上皇と氷高天皇は時間を稼ぎ、皆の理解を得ようとした。
そのような氷高天皇が藤原氏に取り込まれた麿と昔と同じように接せられるわけはなかった。
麿もそれを受け入れ、阿閇上皇が病気になると、その平癒を祈るためと称して出家し、満誓と号して独身を貫いた。
そして、彼女が快復せずに没したので、満誓はその責任を取り、筑紫観世音寺を建立せよと命じられて筑紫国(福岡県西部)に左遷された。
それには久勢内親王も同道し、赤須と名を改め、筑紫観世音寺の寺女を務めた。
赤須は結婚して男子を儲けていたが、夫に先立たれて寡婦になっていた。
大伴旅人/旅人が大宰府に赴任してくると、満誓は旅人が主宰する筑紫歌壇に加わって彼を監視した。
旅人は歌人にして「壬申の功臣」の子弟だった。
満誓は不比等の三男たる藤原宇合/宇合が節度使として西海道(九州地方)にやってくると、彼に旅人のことを報告した。
節度使は地方の軍政を任務とし、宇合は震旦の唐に派遣され、最新の軍法に精通していた。
危険な航海に乗り出し、唐から知識を仕入れてきただけあって彼は冷静沈着で、持節大将軍として毛人の反乱でも活躍した。
余りに頭が切れるので、慇懃無礼なところはあったが、満誓の報告は正当に評価し、赤須とその子を彼の没後も守ると請け合った。
ところが、満誓が没してから暫くの後、宇合は兄弟の房前や麻呂ともども天然痘の大流行で呆気なく命を落とした。
長屋王および吉備内親王と彼らの子供たちはそれ以前に藤原氏の謀略で死に追い遣られていた。
それゆえ、氷高天皇も天皇の位を首親王に譲らざるを得ず、氷高上皇として首天皇を補佐した。首天皇は氷高上皇を母と呼び、氷高上皇は首天皇を我が子と称した。
彼女は唐に倣い、百万町歩開墾計画や三世一身法によって開墾地を財政に組み込むなど長屋王と共に改革を推進した。
首天皇と安宿媛の娘たる阿倍内親王は氷高上皇を尊敬し、皇太子である日嗣御子として五節舞を彼女に捧げた。
氷高上皇は未婚のまま西暦の紀元後七四八年に死んだ。
註
*男性の皇族が父なら、女帝の子も即位できる:『令集義』
*久勢内親王が氷高内親王の娘とされる:荒木田延豊『斎宮記』
*麻呂が不比等と五百重の密通で産まれる:洞院公定『尊卑分脈』




