薩末比売
薩末比売はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/147326046)
一
連合国家である倭国は超大国の震旦(中国)から八洲(本州・四国・九州)に土着する倭人の代表と認められ、その信用により韓郷(朝鮮)の鉄を安定的に入手し、構成国に分配することで得ていた。
しかし、それは震旦や韓郷の情勢に左右されて不安定だった。
分裂していた韓郷の統一が進むと、倭国は韓郷の鉄資源に関する利権を失った。
しかも、新羅が韓郷を統一した際、倭国はそれを妨害しようとし、新羅と同盟した震旦の唐まで敵に回してしまった。
韓郷では高句麗・百済・新羅が覇権を争っていたので、高句麗と百済を支援して統一を妨害し、唐の介入を牽制するのが倭国の外交戦略だった。
ところが、百済と高句麗が滅亡し、韓郷を統一した新羅だけではなく、唐とも敵対して倭国は国際的に孤立した。
もっとも、倭国は倭国王たる大王の権威を高め、八洲の鉄資源を開発し、正統性の獲得が国内だけで完結するよう改革を推し進めていた。
その改革は国際的な孤立によって加速し、倭国は日本という中央集権的な国家に再編され、大王の称号も天皇に改められた。
改革の模範となったのは震旦だった。
震旦は君主と臣下の関係を周辺諸国と結び、その君臣関係により冊封体制なる国際秩序を維持していた。
かつての倭国もそれに参加していたが、日本は唐と正式な国交を結ばなかった。
他国の承認を必要としない点で日本は唐を同格の隣国と見なし、唐にその地位を承認されていた新羅を格下の蕃国とした。
日本はそれを新羅に受け入れさせた。
新羅は唐の援助で韓郷を統一したが、韓郷の併合を目論む唐と険悪な関係になった。
その最中に日本とも敵対しては唐に併合されてしまいかねなかった。
新羅は日本から属国のように扱われるのを甘受し、日本は新羅にその先進的な文化を提供させた。
そうして日本は更に文明化したが、その文明には華夷思想も含まれていた。
華夷思想は自国を文明的な中華、周辺国を野蛮な夷狄と見なす思想で、自国の辺境も夷狄とされた。
日本の辺境として野蛮視された地域の一つに熊襲(熊本県・鹿児島県)があった。
熊襲に多く居住する隼人は、倭人の種族である倭種の一つだったのだが、中央政府たる朝廷からは異民族である異人と見なされた。
隼人司に属する畿内隼人は、隼人舞を奏上して朝廷に服属の意を示し、天皇の番犬となるよう強いられた。
隼人はそのように差別されていたが、朝廷が南嶋(南西諸島)に目を付けると、その境遇は更に悪化した。
南嶋は掖玖(屋久島)や多禰(種子島)、阿麻弥(奄美群島)、度感(吐噶喇列島)、信覚(石垣島)、球美(久米島)、貴駕島(喜界島)、阿児奈波(沖縄本島)などがあり、南嶋人は黒潮に乗って唐と交流していた。
もし南嶋を押さえられれば、南嶋人を介して唐の文物が手に入った。
朝廷は多禰人や掖玖人、阿麻弥人らに圧力を掛けて彼らを帰服させた。
そうして八洲と南嶋を繋ぐ熊襲の重要性が増すと、隼人の土地は開墾や買収、詐取によって侵奪された。
おびただしい隼人が貧困に陥って奴隷に売られた。
朝廷が覓国使を派遣し、熊襲や南嶋の調査に当たらせ、組織的な収奪を図ると、隼人の不満が爆発した。
その音頭を取ったのが薩末比売だった。
薩末比売は薩摩国(鹿児島県西部)の隼人である阿多隼人こと薩摩隼人/薩人で、亡き母から首長の地位を受け継いでいた。
隼人にとっては戦って死ぬのが誇りで、薩末比売も武勇を誉れとし、常に不敵な笑みを浮かべて男勝りだった。
彼女は大胆な言動で同胞を鼓舞し、彼らから女神のごとく崇められた。
顔が整った薩末比売は、二重瞼の大きな目をしており、鞣し革を貼り付けたような光沢のある小麦肌で、野性味の濃い美女だった。
腰は蜂か蟻を思わせるほどくびれていたが、それと比べて不均衡なくらい胸の膨らみは豊かだった。
無意識な流し目からも妖しい色香が零れた。
そのような薩末比売が自ら肥人たちを従え、覓国使の刑部真木/真木らに抗議したのだから、隼人は昂奮を禁じ得なかった。
多禰国(大隅諸島)の多禰隼人も薩末比売ら薩人と肥人に同調した。
隼人は甑島(甑島列島)の甑隼人のごとく離島にもいた。
肥人は肥後国(熊本県)の隼人で、彼らの首長たる大人弥五郎/弥五郎は薩末比売の夫だった。
二
弥五郎は取石鹿文の後裔だった。
取石鹿文は熊襲の王で、倭国の王子である小碓に殺されたが、その子孫は生き延び、永らく雌伏していた。
彼らが抱いた怒りの炎は、時の流れと共に消えるかと思われたが、朝廷の抑圧によって再び火が点いた。
そうして弥五郎は隼人を団結させるため、薩末比売のところに婿入りした。
巨人を意味する大人の名で呼ばれるだけあり、彼は大柄な体格に恵まれ、その容貌に違わぬ豪胆さを有した。
王というよりも武人で、そのことから同じく武人肌の薩末比売とは互いに惹かれ合い、深く愛し合っていた。
弥五郎は薩末比売を抱き寄せると、寝衣の胸に手を入れ、彼女の豊かな乳房を撫でた。
薩末比売の乳首は弥五郎の指に乳暈を愛撫され、見る見る内に充血して大きくなった。
弥五郎は薩末比売の乳首を掴んで軽く引っ張っりながら、その寝衣を剥ぎ取り、全裸になった彼女の口を唇で塞いだ。
薩末比売は奔放な悦びに身を委ね、弥五郎を離すまいとばかりに彼の体を噛み、濡れた肌を擦り付けた。
彼女は弥五郎との娘たる久売と波豆を産んだ。
薩末比売は母娘で隼人を煽動し、熊襲の各地で覓国使の調査を妨害した。
しかし、隼人も一枚岩ではなく、豪族の中には朝廷から位階を賜り、同胞を奴隷として売りに出す者もいた。
薩末比売たちの陣営にも内通者が潜み、彼女たちの動向を朝廷に報せた。
西海道(九州地方)を管轄させるべく朝廷が筑紫島(九州)に置いた太宰府は、軍団の兵士を熊襲に派遣して隼人を弾圧させた。
朝廷は全国を五畿七道に分け、人民に税や労役・兵役を課し、軍団兵が各地を警備していた。
薩末比売たちを弾圧するために派遣された軍団は、陽侯麻呂/麻呂と大伴旅人/旅人が将軍に任じられた。
麻呂に捕らえられた薩末比売は、久売や波豆を人質に取られ、同胞の助命と引き換えに彼の家畜となった。
陽侯氏の先祖は唐により滅ぼされた隋の達率楊候阿子王/阿子王だった。
世が世なら皇帝になれたかも知れず、それ故に麻呂は心の中で日本を見下していたが、震旦の文化に精通しているところを評価された。
日本を中華とすべく朝廷に登用された彼は、夷狄の女酋とされた薩末比売を飼い、朝廷が目指す「東夷の小帝国」を戯画的に演じてみせた。
彼は薩末比売にのし掛かって唇を押し付け、彼女のこんもりと膨らんだ胸乳を鷲掴みにした。
獣となったかのように薩末比売を抱き、彼女も妖しい刺戟に堪えかねて体をくねらせた。
薩末比売が大声を上げて山犬のごとく咆哮し、めくるめく悦楽に麻呂は欲望を放出した。
麻呂が本国たる畿内(奈良県・京阪神)に帰還すると、薩末比売と久売および波豆も連行された。
久売と波豆は麻呂の邸に幽閉され、薩末比売は厩に放り込まれた。
そこで彼女は全裸にされて天井から吊され、股間を激しく勃起させた麻呂に蹂躙された。
薩末比売が犠牲になれば、娘たちには手出ししないと麻呂が約束していたので、彼女は耐え忍んで口や尻も犯された。
鞭打ちや拷問を加えられ、便所のごとく小便を掛けられることもあった。
倒錯した快楽を追求しながらも麻呂は抜かりなく出世を重ねていった。
旅人も麻呂と同様、畿内に帰還して出世し、隼人らを率いて都の目抜き通りを行進する大役さえ任された。
大伴氏は建国の功臣を祖とする武門で、旅人も普段は武人として厳格な態度を示しつつ、それを窮屈に感じてか、時に茶目っ気のある姿を見せた。
薩末比売の夫である弥五郎も妻や娘たちと共に抗議を主導して捕らえられたが、弥五郎を捕らえたのは旅人だった。
そのせいで弥五郎は薩末比売たちがどうなったのか知らぬまま奴隷の身に落とされた。
だが、旅人は弥五郎を畿内に連れて帰ることはしなかった。
弥五郎は奴隷市に出されて大隅国(鹿児島県東部)へ売られた。
三
昇進を重ねた麻呂は、国司に任命されて大隅国へ赴任し、再度、熊襲の土を踏んだ。
諸国を統治するために設けられた国司は、任地の全権を握り、その地位を利用して汚職する輩も少なくなかった。
麻呂も租税を増やし、頻りに大隅隼人へ力役を課して私腹を肥やした。
そうして獲た富を麻呂は太宰府や土地の豪族に賄賂をばらまき、彼らを抱き込んで弾劾を免れた。
彼らと懇意になるために酒宴も催し、その席では薩末比売が裸で練り歩かされた。
薩末比売も久売および波豆ともども麻呂の赴任に同行させられていた。
彼の横に跪く薩末比売は、その陽物が堅くなると、人前であろうとも仰向けになって脚を広げ、一物を差し込んでほしいと乞うた。
彼女は肉棒を押し込まれるだけではなく、亀頭や陰嚢を頬張らされ、鞭や平手を喰らい、痣と粘液だらけになった。
久売と波豆も参加させられ、薩末比売の乳首や陰核を口に含み、母の肛門に指を入れるなどして麻呂を楽しませるよう強制された。
麻呂は任期が満ちれば土着し、他の豪族よりも遙かに豪壮な邸宅を建て、実質的な王として君臨するつもりだったが、彼が自らの王国を築くことはなかった。
弥五郎が西暦の紀元後七二〇年に叛乱を起こしたからだ。
大隅隼人を統率して蹶起した弥五郎は、日向国(宮崎県)の日向隼人ら各地の隼人を軍門に加え、奴隷を解放してもいった。
弥五郎たちは麻呂や彼に味方する豪族らを襲撃して掠奪や放火、殺傷などを恣にした。
自堕落な生活で鈍っていた麻呂は、叛徒の勢いに抗せず、国司館から馬で脱出せざるを得なかった。
その際に薩末比売たちを連れていこうとした。
だが、薩末比売は麻呂の隙を突き、隠し持っていた短剣で彼を斬り付けて娘たちを逃がした。
麻呂は薩末比売を殴り、彼女の手足を縛り上げ、二人で山中へと落ち延びるも叛徒に追い詰められた。
彼は薩末比売の首を絞めながら陰茎を突き立て、狂ったように腰を振り、彼女の体内に精液を迸らせた。
窒息した薩末比売は顔を歪めて痙攣しながら、断末魔の嬌声を上げ、やがて動かなくなった。
麻呂は化け物のような男根を薩末比売の女陰に呑み込ませつつ、彼女の短剣を手に取り、自らの喉首を刺し貫いて自害した。
久売と波豆は叛徒と合流し、父の弥五郎と再会を果たした。
弥五郎は娘たちと再会できたことを喜び、妻が受けた仕打ちに怒りを募らせ、それを同胞の境遇に重ね合わせて哀しんだ。
彼は熊襲を独立させ、隼人の楽園を作るつもりで蜂起したが、薩末比売の最期を聞き、決意を新たにした。
そのために弥五郎は叛乱を指揮するだけではなく、肥人書と薩人書で著された歴史書を完成させようとしていた。
隼人には固有の文字があり、肥人之字や阿比留文字・阿比留草文字と呼ばれ、その真書が肥人書、草書が薩人書に当たった。
弥五郎は熊襲の歴史を子孫に残し、隼人の誇りを受け継がせようとした。
しかしながら、叛乱と史書のどちらも失敗に終わった。
麻呂の死が太宰府に報告されて朝廷に伝えられると、旅人が征隼人持節大将軍に任命された。
筑紫島の各地から兵を集めた旅人は、大軍団で叛徒を容赦なく攻め立て、多数の隼人が殺された。
七ヶ所の城に立て籠もった叛徒は、最終的に朝廷へ降伏した。
旅人は首謀者の弥五郎だけを斬首し、隼人の戦死者ともども隼人塚に葬った。
叛乱を平定した彼は、一旦は都に凱旋したが、太宰府の長官である大宰帥として再び筑紫島に下向した。
旅人は妻や妹を伴って西下し、熊襲に骨を埋めるつもりで、特別な行政をして隼人の懐柔に努めた。
隼人は返却された土地を熱心に開拓し、熊襲の独立は彼らの頭から消え去っていった。
久売と波豆は母の仇を討ち、父の夢を叶えることを諦められず、思い詰めて海に身を投げた。
政治的な騒乱に疲れた旅人は、山上憶良/憶良や満誓と筑紫歌壇なる歌人の集団を形成し、争いの絶えない世間から逃れたいという望みを歌に託したが、皮肉にも位人臣を極めて帰京後に病死した。
註
*陽侯氏が達率楊候阿子王を先祖とする:『新撰姓氏録』
*麻呂が馬で脱出し、山中において自害する:鹿屋市の伝承
*隼人に肥人之字という固有の文字がある:卜部兼方『釈日本紀』
*肥人之字が阿比留文字・阿比留草文字とされる:平田篤胤『神字日文伝』
*真書である肥人書と草書たる薩人書がある:『本朝書籍目録』
*七ヶ所の城に隼人が立て籠もる:神吽『八幡宇佐宮御託宣集』
*隼人塚に隼人の叛乱における戦死者が葬られる:『三国名勝図会』




