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ヤマト奇談集  作者: flat face
奈良時代
60/61

宮子

宮子はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/146787924)


   一


 (しん)(たん)(中国)は滔々たる大河が広大な沃野を生み出し、豊かな恵みが文明を育んだ。

 その文明は大河を統べ、沃野を敵から守るため、全ての権力を君主に集中させた。

 そうして震旦は皇帝が官僚制度を通じ、全国を専制的に治め、超大国として君臨した。


 ()(こく)など近隣諸国も震旦に倣って中央集権化を図った。

 ()(しま)(本州・四国・九州)の諸国が連合した倭国は、国々の王や首長が豪族となり、盟主である大和(やまと)(おう)(けん)(おお)(きみ)()(こく)(おう)として戴いた。

 大王は中央の豪族たる諸大夫(まえつぎみ)と合議して全土を統治した。


 しかし、地方を実際に支配するのは在地の豪族で、彼らは(くにの)(みやつこ)などに任命された。

 また、中央でも大王の君権が太后たる(おお)()(おや)や太子である(わか)()(どおり)に分掌され、大豪族が寡頭制を樹立して大王を牽制し、大王を中心とした集権化は困難を極めた。

 その間にも倭国の制度は時代に合わなくなっていき、堆積する矛盾が遂には内乱を勃発させた。


 内乱の勝者となった(おお)海人(あまの)王子(みこ)は、その武威によって改革を強行した。

 彼は大王の称号を(おお)(きみ)と改めて(おお)海人(あまの)(おお)(きみ)となり、国号も(ひの)(もと)と改称された。

 大海人天皇の亡き後は、息子の(くさ)(かべの)()()が即位するはずだったが、その前に急死してしまった。


 仕方なく草壁皇子の母である(さら)(らの)(ひめ)(みこ)が即位して(さら)(らの)(おお)(きみ)となり、孫の()(るの)()()に皇位を譲るべく策を講じた。

 珂瑠皇子は草壁皇子の遺児だった。

 讚良天皇は宮廷歌人たる(かきの)(もとの)(ひと)()()(ひと)()()に歌を詠ませ、草壁皇子から珂瑠皇子への流れこそが皇室の嫡流であると宣伝させた。


 彼女は珂瑠皇子のために初の本格的な都城たる(あら)(ましの)(みやこ)(藤原京)を完成させると、退位して彼を践祚させた。

 まだ少年でありがらも珂瑠皇子は()(るの)(おお)(きみ)となり、讚良天皇が太上(おおき)天皇(すめらみこと)(おおき)(みかど)たる(さら)(らの)(おおき)(みかど)として補佐した。

 讚良上皇は震旦を模範とし、(ふぢ)(わらの)()()()()()()(たい)(ほう)(りつ)(りよう)を完成させ、初めて律令を定めた。


 震旦では律令という法体系に基づいて政治が行われており、不比等は(ふぢ)(わらの)(かま)(たり)(かま)(たり)の息子だった。

 鎌足は讚良上皇の父である(かつら)(ぎの)(おお)(きみ)の懐刀で、不比等は律令に習熟していた。

 彼は日本を性急に集権化させようとはせず、伝統的な制度を法制化することで制御し、徐々に中央集権へ持って行こうとした。


 大宝律令では()(かん)(はつ)(しよう)の仕組みが整えられた。

 世俗王たる天皇は祭祀王の(すめら)(みこと)も兼ねており、祭祀の方は神祇(かみ)(づかさ)という官公庁が取り仕切った。

 世俗の政治は大王と諸大夫による合議制に替わり、天皇と(おおい)(まつりごとの)(つかさ)の統裁合議によって行われた。


 統裁合議とは太政官で合議して採決を取り、天皇が裁可するというものだった。

 太政官の下には(なかの)(まつりごとの)(つかさ)式部(のりの)(つかさ)治部(おさむる)(つかさ)民部(たみ)(つかさ)兵部(つわものの)(つかさ)刑部(うたえただす)(つかさ)(おお)(くらの)(つかさ)(みや)(うちの)(つかさ)という省庁があり、弾正(ただすの)(つかさ)により監察された。

 都においては(みさと)(づかさ)が、地方では副都の(なに)()(上町台地)に(せつ)(つの)(つかさ)が、(つく)(しの)(しま)(九州)に(おお)(みこともちの)(つかさ)が置かれ、中央の選んだ(くにの)(つかさ)が全国に送られた。


 人民の把握も大王が豪族を介し、間接的に把握するだけの(おう)(みん)(せい)ではなく、国家が直接に把握する(こう)(みん)(せい)へと移行した。

 だが、実際には国造が(こおりの)(つかさ)となっただけで、在地の豪族が地方を支配する(ざい)()(しゆ)(ちよう)(せい)がそのまま続いた。

 それでも、国司が郡司の上に位置するなど集権は着々と推し進められていった。


 そうした体制の中心である珂瑠天皇は大切に養育され、伸び伸びと成長して明るく大らかだった。

 それに、撰善言司(よきことえらぶつかさ)()(きの)()()から先人の善言を教授されるなど英才教育を受けて聡明で、周囲から愛されていることを自覚し、彼らに対して優しく接してもいた。

 祖母の讚良上皇に厳しく躾けられて胆力もあり、早すぎる即位にも物怖じしなかった。


 不比等はそのような珂瑠天皇の治世において政界へ大きく進出して地歩を固めた。

 (あがた)(いぬ)(かいの)()()()()()()を妻とした彼は、愛人との娘たる(ふぢ)(わらの)(みや)()(みや)()を珂瑠天皇と結婚させた。

 三千代は珂瑠天皇の子守で、後宮に絶大な力を持っていた。


 宮子も娘の将来を見据えた不比等に花嫁修業を施されて真面目一本槍に育った。

 それ故に謹厳であって近寄りがたい人物と見なされていた。

 しかしながら、珂瑠天皇の妻となったことで角が取れ、愛嬌を示すようにもなった。


 彼女は可憐な女人で、どのような(をの)()でも振り返るほど﨟長けていた。

 白い肌は薄い絹に似ており、血管が透けて見えた。

 鼻は高く整っており、眉は細くて長く、淡い唇は(おさな)い童女のようだった。


 細長い指をしており、外見は華奢であるけれども着痩せする方で、乳房は大きく実っていた。

 腰部の肉付きも良く、絹肌の内側には若鹿のような生命力が秘められていた。

 境遇が似通っていたこともあってか、珂瑠天皇は宮子のことを愛おしく想い、宮子も珂瑠天皇を慕うようになった。


 彼は自分の掌で包むように宮子の手を握り、頭を持ち上げた股間の男子を握らせた。

 宮子の指に包まれた男子は猛り立ち、彼女は息遣いが荒くなって頬も赧らんだ。

 珂瑠天皇は臓の奥まで疼き、汗が滲んだ宮子の乳房を掴むと、彼女を貪るように抱いた。


   二


 宮子と愛し合って自信が増し、珂瑠天皇は親政に意欲を示した。

 元々、彼は志貴皇子の影響で政治に関心があった。

 志貴皇子は讚良上皇の異母弟で、大海人天皇が内乱に勝利した時はまだまだ幼く、凄惨を極めた争いに大きな衝撃を受けた。


 そのことが志貴皇子に実際の政治から距離を取らせ、文学や学問へと向かわせた。

 ところが、古今の典籍に触れた志貴皇子は、理想の政治を空想するようになった。

 また、彼は和歌に才能を開花させ、人麻呂とも詩友の関係にあった。


 志貴皇子の歌風は寓意を含み、機知に富んだ彼は、目利きが出来て珂瑠天皇にも遊興を手解きした。

 珂瑠天皇はそうした志貴皇子に感化され、理想に燃えて親政を志した。

 しかし、不比等は珂瑠天皇の親政に反対だった。


 律令制度が施かれて官人機構が整備されれば、天皇といえども法に従わねばならなくなり、政治の実権は律令官人に移った。

 それは官人が責任を負い、天皇が追及されないようにするためのものでもあった。

 未熟な若者が高すぎる理想を掲げて失敗すれば、始まったばかりの律令制が破綻してしまいかねなかった。


 それに、新興の(ふぢ)(わら)(うじ)は有能な律令官人となることで一族の未来を切り開こうとしていたので、不比等は律令体制が崩壊するのを望まなかった。

 彼は珂瑠天皇と宮子の食事に媚薬を盛り、欲望のまま快楽に溺れるよう仕向けた。

 珂瑠天皇は不比等が願った通り国事よりも情事を優先するようになった。


 讚良上皇は病気を患っていたため、それを強く咎めることが出来なかった。

 珂瑠天皇は宮子ともどもすっかり色狂いとなり、彼女の妊娠中は宮子の侍女である(いし)(かわの)()()()()(きの)(かま)()(かま)()を妾とした。

 宮子も子を孕んだ身で夫との性交を求めたが、無事に出産するよう禁欲を強いられ、息子の(おびとの)()()を産んだ時には性欲を抑えられなくなっていた。


 珂瑠天皇が宮子を見舞うと、宮子は珂瑠天皇に飛び掛かった。

 彼女は珂瑠天皇の裾を捲り上げ、彼の両膝を大きく左右に押し広げると、内腿に深く顔を埋めてきた。

 啜るように唇を当てたものに芯が通ってくると、今度は根元まで含み、頭を何度も前後させた。


 指先を動かして睾丸まで嬲り、袋の中で遊ぶものを掌に転がした。

 宮子が尻を突き出すと、珂瑠天皇は屹立したもので彼女の奥を突き上げ、獣に似た唸り声を何度も繰り返させてやった。

 刀子と竈門も加わり、乱交に及ぶこともあった。


 珂瑠天皇は讚良上皇が崩御すると、ますます歯止めが利かなくなり、宮子の相手をするため、媚薬を過剰に摂取した。

 そうして完全に狂った彼は加虐性愛に目覚め、人の生き血を好んで吸うようになり、かつての気高さが嘘のようだった。

 首親王は珂瑠天皇と宮子から引き離され、母方の祖父たる不比等によって養育された。


 不比等には三千代との間に首親王と同い年の娘である(ふぢ)(わらの)(あす)宿(かべ)(ひめ)(あす)宿(かべ)(ひめ)がいた。

 首親王は安宿媛と同じ屋根の下で育ち、三千代が彼に乳を含ませた。

 珂瑠天皇は正気に戻らぬまま西(せい)(れき)の紀元後七〇七年に崩じた。


 刀子は珂瑠天皇との息子を二人も出産していた。

 だが、彼女は竈門ともども珂瑠天皇の妻妾とは見なされなかった。

 刀子が産んだ二人の息子も皇籍を与えられず、(たか)(まど)(うぢ)(うぢ)()を授かり、それぞれ(たか)(まどの)(ひろ)(なり)(ひろ)(なり)(たか)(まどの)(ひろ)()(ひろ)()と名乗った。


   三


 珂瑠天皇を亡くした宮子は、愛する人に二度と抱かれることがないという虚しさから全くの狂人と化してしまった。

 不比等は宮子を隔離し、人と接触できないようにした。

 首親王さえ宮子とは会えなかった。


 しかし、薬のせいで性欲旺盛な宮子は常に激しい欲求不満を抱え、淫欲を満たしてやらねば、手が付けられなくなった。

 そこで、不比等は人麻呂を宛がった。

 人麻呂は従者である舎人(とねり)として草壁皇子に仕えたことがあり、不比等とも懇意にしていた。


 宮廷歌人たる人麻呂にとって最大の後援者であった讚良上皇が死去すると、不比等が彼を食客とした。

 人麻呂は歌才に恵まれ、独特な感性の持ち主だった

 それゆえにか、世間の常識に囚われず、放蕩無頼の生活を送り、女と酒に溺れていた。


 不比等は巨根かつ絶倫の人麻呂に宮子の相手をしてくれるよう依頼した。

 人麻呂は天皇の妻を犯すことに興趣をそそられ、男娼となることを引き受けた。

 毎晩、宮子は人麻呂に失神するまで責め続けられた。


 人麻呂は舌舐めずりしながら宮子を甚振り抜き、彼女は下卑た痴態を見せ、発情期の豚が発するような声で叫んだ。

 やがて宮子の胎内に人麻呂の赤子が宿った。

 宮子は(みや)()(ひめ)なる娘を産んだ。


 子供が出来たことで人麻呂は天皇となったかのごとく図に乗った。

 宮子との関係を公のものにしかねなかったので、不比等は彼を始末することにした。

 人麻呂は宮子の妊娠を理由に休暇を与えられて(いわ)(みの)(くに)(島根県西部)を旅し、(かも)(しま)で捕らえられて刑死した。


 彼は草壁皇子の血脈を正統と宣伝するのに貢献したので、公式に断罪されることはなかったが、一時は名前を呼ぶのも忌避されるようになり、志貴皇子が詩友の挽歌を詠むこともなかった。

 宮子姫は竈門の同族たる(きの)(みち)(なり)(みち)(なり)の養女となった。

 ()(うぢ)()(いの)(くに)(和歌山県)を故地としており、道成はそこで漁をする海人たちの長で、養女の実母である宮子の快復を祈願して(どう)(じよう)()を造立した。


 だが、宮子は宮子姫を産んでも狂ったままで、不比等は人麻呂に替え、奴隷の子供たちに宮子を慰めさせた。

 全裸になった子供たちは、宮子の乳房を愛撫して陰核を弾き、いきり立った竿を彼女の頬や鼻に擦り付け、唇を押し開いてしゃぶらせた。

 割り裂かれた二肢の間にも一物を押し込まれ、宮子はあられもない身悶えを見せながら、子供たちのそれを暴発させていった。


 若い獣たちの精力は飽くことを知らず、宮子の精根が尽き果てるまで彼女を好きなように嬲った。

 淫楽に耽る宮子は、新しく造営された平城(ならの)(みやこ)へと身柄を移送されても気付かなかった。

 平城京は首親王のため、不比等が造営を主導した都城で、安宿媛を首親王と婚約させた不比等は、首親王を即位させようとした。


 それは嫡子に継承させていく震旦の相続に則ったもので、同時に皇室の嫡男へ娘を嫁がせる藤原氏の威信を高めた。

 讚良上皇が草壁皇子を即位させるべく他の皇子を押し退けるため、それに協力する不比等の一族を外戚として重んじたので、藤原氏は皇族が結婚するのに最も相応しい相手と見なされた。

 その先陣を切ったのが宮子だった。


 もっとも、宮子が珂瑠天皇と愛を交わした新益京は、後に大火が起こって焼亡した。

 平城京では志貴皇子が薨じ、彼の薨去には挽歌が詠まれ、不比等が宮子の快復や首親王の即位を見ずに死んだ。

 首親王は即位して(おびとの)(おお)(きみ)となり、宮子に大御祖の尊称を捧げたが、彼女の狂気は癒えなかった。


 やっと宮子が平癒したのは、震旦の(とう)に留学した仏僧たる(げん)(ぼう)が帰国し、最新の医学に基づいて投薬されるのを待たねばならなかった。

 正気に返った宮子は、(しよう)(りん)(えん)で余生を過ごした。

 松林苑は平城京の宮城である(へい)(じよう)(きゆう)に付属する苑地で、離宮を伴っていた。


 そこで暮らす宮子は、本を集めて(まつの)(みや)なる印を捺し、多くの時間を読書に費やした。

 夫を裏切ったと自己嫌悪する彼女は、ひたすら自省の日々を送り、人前に出るのを好まなかった。

 首天皇と再び対面し、彼と安宿媛の娘たる()(べの)(おお)(きみ)から(おおき)(おおい)太后(きさい)の称号を献じられてもそれは代わらなかった。



   註


*珂瑠天皇が人の生き血を好んで吸う:生駒市の伝承

*草壁皇子に人麻呂が舎人として仕える:賀茂真淵『万葉考』

*人麻呂が珂瑠天皇の妻を犯す:『人丸秘密抄』

*鴨島で人麻呂が死去する:高津柿本神社の伝承

*宮子姫が紀伊国で漁をする海人の娘とされ、道成が道成寺を造立する:『宮子姫伝記』

*新益京が大火で焼亡する:皇円『扶桑略記』


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