阿閇皇女
阿閇皇女はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/145658690)
一
八洲(本州・四国・九州)に土着する倭人には幾つかの種族があり、大王の一族である阿毎氏は天孫族だった。
大王を君主とする大和王権は、八洲の諸国と連合し、その連合政権は諸外国から倭人を代表する倭国と見なされていた。
天孫族は粛慎(満洲)から移民して土着した種族で、天上の神々たる天津神を信仰した。
大王の称号を天皇と改めた大海人天皇は、天津神でも日神である天照を特に重んじ、自身を初代の大王たる狭野に擬えた。
彼は祆教(ゾロアスター教)と習合した道教に傾倒していた。
祆教において日輪は王権の象徴だった。
大海人天皇は正統な大王であった大友大王を内乱で倒して即位した。
大友大王は大海人天皇の兄たる葛城大王の息子だった。
簒奪者と非難されぬよう大海人天皇は天皇と称して自己を神格化した。
内乱に勝利した大海人天皇にはそれを押し通すだけの武威があり、彼はその威光により中央集権を推し進めた。
倭国は先進国に倣い、集権化を進めていた。
大海人天皇は倭国の国号を日本と改称し、皇親政治によって中央集権体制を確立していった。
皇親政治では天皇の親族である皇族が政治の要職を占め、豪族の勢力を排して改革を強行した。
豪族は倭国を構成していた国々の諸王で、特権が廃止されるような改革には抵抗していた。
武力で政権を奪取した大海人天皇は、軍事を根本に据え、豪族を軍事国家の官僚へと組織し、人民からも兵士を徴発した。
ただし、皇太子たる日嗣御子の草壁皇子は体が弱くて気も小さく、皮肉にも武張ったところがなかった。
異母弟である大津皇子の方が父の大海人天皇から英雄の資質を受け継ぎ、彼から可愛がられていた。
草壁皇子もそれが分かっていたので、卑屈になって人付き合いが苦手だった。
それでも、日嗣御子の立場にあることを自覚し、真面目に勉強して頭が良かった。
それでいて優しさを失わず、従者たる舎人や女官である采女に寄り添い、彼らから慕われていた。
そのような草壁皇子の母たる讚良皇女は一人息子の彼を是が非でも即位させようとした。
彼女は天皇の正妻である皇后で、大友大王の異母姉に当たったが、大海人天皇と苦楽を共にし、並々ならぬ権力を手にしていた。
そうした母によって草壁皇子は阿閇皇女と娶された。
阿閇皇女は讚良皇女の異母妹で、偉大な姉に絶えず引け目を感じていた。
彼女は草壁皇子より年上で、彼より身長が僅かに高くて胸も大きかったが、華奢な印象が強く、随分と幼く見えた。
丸い瞳は二重瞼で、低い鼻と小さな唇が愛らしかったが、その容貌は芋臭かった。
それ故にか阿閇皇女は自己主張して争うことを好まなかった。
讚良皇女は親子ほど年齢の開いた阿閇皇女がお気に入りで、彼女ならば姉さん女房として年下の草壁皇子に自信を付けさせられると考えた。
もっとも、そのような計算を抜きにしても草壁皇子と阿閇皇女は仲睦まじかった。
草壁皇子は妻しか愛さず、阿閇皇女もそうした夫を恋しく思った。
阿閇皇女は草壁皇子の手を取り、胸乳のところへ導くと、草壁皇子は阿閇皇女を押し倒した。
彼は阿閇皇女の裳裾を掻き開き、己の袴も押し下げ、その身を彼女に乗せ掛けた。
阿閇皇女もそれに応じる動きを示した。
草壁皇子は阿閇皇女の体が濡れ始めたのを見定めると、一息に突き入れて彼女を呻かせた。
阿閇皇女は草壁皇子が緩急自在に体を動かすのに連れ、眉の間に皺を寄せつつ、次第に大きく反応し始めた。
突き上げてくる快美な感覚を留めきれなくなり、彼女は反り返りながら草壁皇子の背に手指の爪を食い込ませ、喉に含んでいた声を吐き出した。
阿閇皇女は長女の氷高皇女と長男の珂瑠皇子、次女の吉備皇女を産んだ。
ところが、大海人天皇が世を去り、大津皇子が草壁皇子の暗殺を謀って讚良皇女に処断された。
草壁皇子は己の不甲斐なさが大津皇子に野心を抱かせたと考えて自らを責めた。
彼は阿閇皇女との媾合いに逃避したが、深く心を病み、日嗣御子のまま若い身の上で急逝した。
阿閇皇女は悲嘆に暮れた。
讚良皇女はまだ幼児の珂瑠皇子が成長するまでの間、自らが皇位に即いて讚良天皇となった。
二
讚良天皇は愛息の遺児である珂瑠皇子にいずれ皇位を譲り渡すつもりだった。
しかし、草壁皇子には異母兄弟たちがおり、彼らが登極しても不思議ではなかった。
彼女は天孫族に伝承される天孫降臨の神話を強調し、孫の珂瑠皇子に譲位することを権威付けようとした。
天孫族は天上から降臨した天津神の子孫とされており、天照も孫の瓊々杵を天降らせていた。
讚良天皇は石上麻呂/麻呂が邪気を払うべく大楯を立て、中臣大島/大島が天孫降臨を物語る「天神寿詞」を読み、忌部色夫知/色夫知が神器たる玉璽・剣・鏡を捧げる中、現人神として即位の式を挙げた。
石上氏・中臣氏・忌部氏はいずれも祭祀を掌っていた豪族で、瓊々杵が地上に降臨する際、天照は地上の邪神を平定し、瓊々杵に「三種の神器」を授けていた。
天照を祀る伊勢太神宮(伊勢神宮)の式年遷宮と大嘗祭も讚良天皇の治世に初めて行われた。
式年遷宮は伊勢太神宮を定期的に再建し、天照の神力が枯れぬことを願った。
大嘗祭は天皇が米などを天照らに供えて自らも食し、その力を身に着けようとした。
讚良天皇は天照の化身とされ、神仙境とされた吉野に何度も行幸し、宮廷歌人の柿本人麻呂/人麻呂に彼女だけではなく、草壁皇子を神格化した歌も詠ませた。
彼女は大海人天皇の長男にして草壁皇子の異母兄である高市皇子を太政大臣に任命し、新しい都の造営を推進させた。
そうして新益京(藤原京)が築かれると、讚良天皇は西暦の紀元後六九四年に遷都し、少年の珂瑠皇子に譲位した。
即位は壮年になってからという不文律が存在していたが、珂瑠皇子は遷都によって過去の束縛を離れ、皇位に即いて四十二代目の天皇たる珂瑠天皇となった。
讚良天皇も太上天皇/上皇である讚良上皇として珂瑠天皇を後見した。
珂瑠天皇の地位を揺るがぬものにするため、讚良上皇は震旦の法体系たる律令を手本に大宝律令という法典を編纂し、天皇の地位を法によっても護らせた。
大宝律令の選定は草壁皇子の異母弟である忍壁皇子が総裁となった。
忍壁皇子は高市皇子が新益京の完成から程なくして急死すると、大海人天皇の息子で最年長となった。
庶流の彼はより高い地位に就きたいと望み、長子の高市皇子や嫡流の草壁皇子にも媚びを売ったが、讚良上皇からは巧言令色の徒として嫌われ、不遇を託っていた。
そこで、忍壁皇子は讚良上皇の寵臣たる藤原不比等/不比等に取り入った。
不比等は葛城大王の側近であった藤原鎌足/鎌足の息子で、実務に長けていた。
讚良上皇から大宝律令の選定を命じられた彼は、律令に箔を付けるためと称し、忍壁皇子を総裁に推薦した。
その見返りとして忍壁皇子は出世のために培った人脈を活かし、不比等の後ろ盾となった。
彼は大宝律令が公布されると、皇親の代表として知太政官事に任じられた。
不比等は讚良上皇にも引き続き重用され、娘の藤原宮子/宮子を珂瑠天皇を嫁がせてもいた。
彼は讚良上皇が没して珂瑠天皇も早逝すると、皇位の継承は首親王が法的に優先されると主張した。
首親王は珂瑠天皇と宮子の一人息子で、大宝律令では皇子・皇女が親王・内親王とされた。律令の本場たる震旦では父子直系の男子が皇帝となった。
また、葛城大王が定めた家法の不改常典も、相続は父子直系にすべきと明記していた。
ただ、首親王はまだ幼く、不比等は阿閇皇女/阿閇内親王に中継ぎとして即位するよう求めた。
阿閇内親王は皇太子の妃であったに過ぎず、政治経験もなかったため、珂瑠天皇の後を継ぐのに躊躇した。
だが、讚良上皇の前例に沿うだけで良いと不比等から説得されて皇位に即いた。
そうして四十三代目の天皇たる阿閇天皇となった。
もっとも、即位の正統性は天孫降臨の神話ではなく、不改常典の法令に依拠していた。
国家が律令に基づいて運営されるようになり、それに精通する不比等の発言権が自ずから強まった。
三
全面的に不比等を頼った阿閇天皇は、彼に言われるがまま和同開珎なる銅銭を発行し、風土記という地誌を諸国に作成させた。
七一〇年には平城京への遷都も行った。
しかし、宮城の平城宮は皇太子の宮殿である東宮が東に大きく張り出し、不比等の邸宅と接していた。
不比等は首親王が立太子されると、宮子の年の離れた異母妹たる藤原安宿媛/安宿媛を彼の婚約者とした。
ここまで来て阿閇天皇は不比等に疑問を覚えた。
藤原氏は外戚として藤の木ごとく皇室に寄生し、皇室は藤原氏に養分を吸い取られて枯れるのではないか。
皇族も忍壁皇子/忍壁親王が不比等の後ろ盾となるなど一枚岩ではなかった。
ただ、忍壁親王は平城京へ遷都するよりも前に死に、知太政官事は異母弟の穂積親王が継いだ。
それは彼が皇親の長老格であるがゆえの人事だった。
だが、穂積親王は高市皇子の養女たる但馬皇女と密通して左遷されるなど行状が芳しくなかった。
大海人天皇の息子でありながらも天皇にはまずなれず、彼はその鬱憤を遊蕩により解消しようとした。
もっとも、穂積親王の振る舞いには茶目っ気があり、風変わりながらも親しみやすい人物として少なからぬ支持を集めていた。
それでいて不比等の勢力には与していなかったため、阿閇天皇は穂積親王の下に皇親を結集させ、不比等に対抗しようとした。
ところが、穂積親王は協力する条件として自分と関係を結ぶよう阿閇天皇に要求した。
阿閇天皇はその時になっても草壁皇子を忘れておらず、穂積親王の要求に激しい忌避感を覚えたが、不比等に対抗するには彼の協力が欠かせなかった。
穂積親王は阿閇天皇を抱き締めたまま横になり、阿閇天皇の胸乳が穂積親王の胸板に押し潰された。
彼はその柔らかさと熱さを肌で感じ、滑らかでいて弾力がある彼女の唇に口付けした。
穂積親王の腕に抱かれた阿閇天皇は、胸の内で草壁皇子に謝罪しつつ、体を痙攣させながら嗚咽して気を失った。
彼女は穂積親王と密約を交わし、彼の入れ知恵で七一五年に氷高皇女/氷高内親王へ譲位するという奇策を実行した。
氷高内親王に位を譲ったのは、表向きは年のせいで心身が衰えたが、首親王はまだ若いので、万全を期すため、もう暫く中継ぎを立てると説明された。
しかしながら、その説明では首親王の未熟さが殊更に強調され、不改常典が持ち出されることもなく、氷高内親王もまずは辞退するという謙譲の美徳を排し、喜んで即位すると宣言した。
阿閇天皇も氷高内親王も首親王を憎んではいなかったが、草壁皇子の血が他人に乗っ取られるのは耐えられず、母娘は文字通り我が身を差し出してでも防ごうとした。
母の阿閇天皇は穂積親王に体を許し、長女たる氷高内親王は次女である吉備皇女/吉備内親王の血統に皇位を継承させるため、己は独身を保った。
吉備内親王は高市皇子の長男たる長屋王に嫁いでいた。
阿閇天皇は氷高内親王に破格の俸禄を授け、最も高い品位を与えた。
長屋王と吉備内親王の子女も阿閇天皇の嫡孫とされた。
それにより長屋王も阿閇天皇の嫡子となり、非公式ながら長屋親王とも呼称された。
これには不比等も危機感を抱いたが、阿閇天皇の強い意思とあっては受け入れざるをえなかった。
藤原氏が天皇の忠臣であることを存在理由としている以上、真正面から叛くわけには行かなかった。
天皇が無力ならば実力で黙らせることも出来たが、阿閇天皇は皇親勢力を味方に付けていた。
けれども、その代表たる穂積親王が阿閇天皇や不比等よりも早くに世を去った。
天皇を辱めるのに興趣をそそられていた穂積親王は、不品行が災いして長生きできなかった。
おかげで天秤は藤原氏に傾き、不比等は一族の勝利を確信しながら没した。
彼は阿閇天皇よりも後継ぎに恵まれていた。
阿閇天皇は長屋王を右大臣に任命したが、人事の均衡を図るため、不比等の長男である藤原武智麻呂/武智麻呂と次男たる藤原房前/房前も昇格させざるを得なかった。
自らの死期を悟った彼女は、枕元に長屋王と房前を呼び寄せ、後事を託して七二一年に逝去した。
註
*不比等が大宝律令の選定を命じられる:北畠親房『職原抄』




