勾子
勾子はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/140866253)
一
始まりは日向国(宮崎県)にまで及んだ戦乱と霧島山の噴火だった。
壊滅的な打撃を受けた日向国は、少なからぬ人々が新天地に移り住まなくてはならなくなった。
難民たちは日向国を統べていた鵜萱朝の王族たちに率いられ、食い繋ぐために諸国で傭兵として雇われながら各地を流浪した。
その途中に彼らは他の難民も吸収し、指導者の五瀬は様々な出自の人々が安住できる王道楽土を追い求めた。
五瀬は志半ばで戦死したが、弟の狭野が兄に代わり、大和国(奈良県)の「鳥見の里」を占領して大和王権を建国した。
狭野は五瀬を皇尊と称し、自身はその代理として大王を名乗った。
五瀬には厳媛という護衛にして愛人がおり、厳媛は五瀬が戦死してからも狭野の護衛を務め、狭野から道臣なる号を授けられた。
道臣の子孫は大和王権が八洲(本州・四国・九州)の諸国と連合して大和政権を成立させると、大伴氏と呼ばれるようになった。
彼らは大王の近衛軍を率い、それは大王が倭国王となっても変わらなかった。
大和政権は八洲の大部分を征服し、八洲に土着の倭人を代表する倭国として海外からも認められた。
大王の幼武は超大国たる震旦(中国)に倣い、全ての権力を君主たる自分に集中させようとした。
しかし、その集権化は余りに急進的であったため、幼武の死後は反動で急激に分権化し、大王の廃止さえ検討された。
これに大伴金村/金村は危機感を募らせた。
金村の祖父たる大伴室屋/室屋は幼武の治世において官界の長である大連だった。
室屋は忠義に厚く、幼武から信頼されていたが、人の好さを利用され、分権を推し進めようとする派閥が大王を傀儡化するのに加担させられた。
それを悔いながら死んだ祖父を反面教師とし、大伴氏の当主に就任した金村は、決して主導権を奪われまいとした。
それ故に権力欲が強く、権力を握り続けるためなら、賄賂や陰謀も辞さなかった。
だが、室屋の最期を無念に思う彼は、大王の護衛たらんとする大伴氏の魂まで失ってはいなかった。
金村は傀儡に堕した大王を見限り、越前国(福井県東部)の豪族である男大迹を密かに訪ねた。
男大迹は近江国(滋賀県)から越国(北陸)までを治め、経済力や政治力があり、大王たる活目や誉田別の血を引いてもいた。
金村は男大迹に真の大王となってくれるよう求めた。
男大迹も集権こそ倭国の進むべき道と考えており、野心もあったため、金村の要請に応えて挙兵した。
その際に男大迹は盟約の証として金村に財物を下賜しただけではなく、様々な技能を持った者たちを仕えさせた。
その中に青海勾子/勾子という女性の剣士もいた。
青海氏は越後国(新潟県)の豪族だった。
越後国は倭国と敵対する道奥(東北地方)の荒覇吐王国に接するからか、尚武の気風に富んでいた。
勾子も武人に憧れて一生懸命に鍛錬し、身体能力が高いだけではなく快活であって礼儀正しかった。
そうして勾子も金村の護衛を務めた。
奇しくも大伴氏の先祖たる厳媛もまた優れた女剣士だった。
陰険でありながらも尊王の血潮を滾らせる金村は、初代の大王を護衛した先祖が再臨したかのごとき女剣士に胸が躍った。
勾子も愚直な権力者たる金村に庇護欲を掻き立てられた。
金村はどれだけ憎まれようとも自身の信念によって権力を維持し、己の派閥を構成する身内には面倒見が良く、本人なりに国家を真面目に憂えていた。
そうした不器用さに同情し、それが慕情に転じた。
共に男大迹を即位させるための戦争に従軍し、護衛とその対象として過ごす内、金村と勾子は心身ともに強い絆で結ばれた。
勾子は均整の取れた素晴らしい体付きをしていた。
胸元は理想的に張り詰め、腰から太腿にかけての曲線は誰もが溜め息を漏らすほどだったが、その出で立ちは男子のものだった。
勾子は金村に後ろから抱きすくめられて背筋を震わせ、豊かに盛り上がった乳房を掴まれると、大きな喘ぎ声を出した。
金村が勾子の体に手を這わせ、乳房の先端を掴み上げれば、更に派手な声が上がり、熱い吐息が漏れた。
勾子は後ろからしっかりと自分を抱き寄せる金村の腕を掴み、彼の胸に頬を擦り寄せ、腰を動かしながらその体を貫かれた。
妻と死別していた金村は勾子と再婚した。
前妻が産んだ息子たちである大伴磐/磐と大伴狭手彦/狭手彦、大伴糠手子/糠手子は勾子の人柄を信頼して父の再婚に反対しなかった。
金村と勾子の間には息子の大伴阿彼布古/阿彼布古が産まれた。
二
男大迹が自分の即位に抵抗する勢力を打ち破ると、殆どの豪族が男大迹に寝返った。
豪族は各地の首長や王で構成され、大伴氏のごとく大王に直属する一族も豪族だった。
男大迹は手白香王女の息子である広庭王子を養子にし、自身の長男たる勾に春日王女を、次男の高田に橘王女を娶らせた。
手白香王女・春日王女・橘王女は先代の大王である稚鷦鷯の姉だった。
大王となった男大迹は、都のある大和国に入り、倭国を再び集権化すべく畿内政権を樹立した。
畿内政権は大王と中央の豪族が全国を支配する体制で、地方の豪族が国政に参加するには中央に拠点を持たねばならなかった。
筑紫島(九州)の北部は畿内政権が進める中央集権に反発し、竹斯国として倭国から独立した。
男大迹は竹斯国の盟主たる筑紫磐井/磐井を金村と物部麁鹿火/麁鹿火に討伐させた。
物部氏は警察などを職掌とする豪族で、治安を維持するために武装してもいた。
当主の麁鹿火は金村ともども大連に就任しており、男大迹から竹斯国を平定するため、筑紫島より西は思いのまま統治して良いとされた。磐井を討った麁鹿火は、筑紫島の北部を再建し、倭国に復帰させようとした。それと同時に自らの部下たちを再建の事業に関わらせ、己の影響力を西国に広めていった。
そのような部下たちの一人に穂積押山/押山がいた。
押山は伊勢国(三重県中部)の豪族で、穂積氏は黒潮の流れに乗って交易する一族だった。
黒潮は西海道(九州地方)から南海道(四国地方・和歌山県)、東海道(東海地方・関東地方)へと流れており、穂積氏は海外の商人とも取り引きした。
そのような一族の人間として押山は厳しい教育を受け、航海や語学などあらゆることに精通し、皆から頼りにされていた。
麁鹿火はそうした押山を見込み、筑紫島の北部が担っていた韓郷(朝鮮)との通交を任せた。
倭国は筑紫島の北部を通し、加羅や百済と友好的な関係にあった。
韓郷の中南部たる弁韓の南端には任那という倭人の居留地が設けられており、それ以外の地域は伽耶と呼ばれ、韓人の諸国が加羅なる連合を形作っていた。
西南部の馬韓にある百済は、震旦との外交や先進的な文化の導入で倭国に利益をもたらしてくれた。
東南部の辰韓にある新羅は、発展の立ち後れから倭人の海賊に侵攻を許し、倭国から攻撃されることも少なくなかった。
北部にある高句麗は、南下して百済や新羅を圧迫し、それに押されて百済は慕韓に、新羅は秦韓に活路を見出した。
慕韓は馬韓と弁韓の、秦韓は辰韓と弁韓の境界で、いずれ弁韓も百済ないし新羅に狙われると思われた。
そうなれば任那も脅かされるはずで、麁鹿火は交渉する必要があると判断した。
竹斯国は倭国への対抗上、敵の敵は味方で、倭国に友好的な加羅や百済ではなく、新羅と関係を深めていた。
それを是正するため、麁鹿火は押山を百済に遣わした。
高句麗ばかりか百済や新羅も南下する以上、加羅や任那が滅びるのは時間の問題だった。
そこで、麁鹿火は加羅を見捨てて任那も放棄し、百済との友好を維持することで韓郷から引き続き鉄資源を供給してもらおうとした。
そのために彼は押山を通し、百済に馬を献上した。
八洲の馬は頑丈かつ従順で、粗食にも耐えたため、韓郷でも重宝されていた。
任那に接する慕韓の四県を併合したいと百済から密かに打診されていたので、押山の派遣には金村も同行し、百済による任那四県の併合を支持する密約を結んだ。
金村は見返りとして百済に押山らを登用させた。
そうして倭系百済官僚が形成され、倭人の官僚が百済の中枢に食い込んだ。
三
韓郷に対する金村と麁鹿火の措置を男大迹も是認した。
彼らの意見は外交のみならず、畿内政権の在り方についても一致していた。
倭国を再び集権化することで同意が取れていても誰がその主体となるかで意見の不一致があった。
男大迹は大王の専制により集権化すべきと主張し、畿内政権に参画する中央の豪族は、多くが中央集権は合議制によってなされるべきと唱えた。
その対立は大王の跡継ぎを誰にするかという問題にも波及し、男大迹は勾を太子として生前に譲位した。
それは豪族の同意を得ずに即位させ、大王の権威を高めるためのものだった。
金村と麁鹿火は大王専制を支持して勾を支持した。
大王が権威を高めれば、その直属である大伴氏と物部氏も力を増した。ところが、いざ男大迹が崩御すると、勾は政界の長たる大臣の蘇我稲目/稲目ら貴族共和制を目指す豪族たちに暗殺された。
稲目たちは広庭王子を擁立し、軍を率いて金村と麁鹿火を攻めた。
旗印である勾を殺され、彼の跡を継ぐ者がいなかったため、大伴氏と物部氏の軍勢は戦意を失っていた。
麁鹿火の同族たる物部尾輿/尾輿も兵を率いて稲目の側に寝返った。
手勢を失った麁鹿火は、不審な死を遂げ、尾輿が当主の座に就いて大連となった。
大伴氏は孤立して瓦解し、内乱は終結して金村は失脚した。
勾の暗殺に協力した高田が見返りとして暫し大王を務めた後、広庭王子が大王の位に即き、二十九代目の大王である広庭大王となった。
広庭大王は勾子を宮殿に呼び付けた。
金村は病と称し、住吉郡(住吉区)の別邸に籠もっていた。
広庭大王は金村の様子を勾子に尋ねたが、彼のことを訊くのは口実で、勾子に伽をさせるのが広庭大王の目的だった。
貴族共和制を目指す豪族たちに擁立された広庭大王は、主導権を手放す代わりに私生活では勝手を許された。
無聊をかこつ彼は、表向きは超然としていたが、欲しいものがあれば、何としてでも手に入れた。
金村の赦免を餌に勾子を抱くことも、豪族たちから同意を取り付けていた。
勾子は広庭大王から伽を命じられて顔を強張らせたが、引き換えに金村が許されると言われて従った。
彼女は広庭大王に組み伏せられ、その体を蹂躙された。
広庭大王の動きは激しく、勾子の口から荒い息が漏れた。
やがて広庭大王の腰が小さく痙攣し、勾子の中に大量の液体が噴出された。
約束通り金村は罪に問われなかった。
しかし、老境の彼は妻の身に起こったことを知ると、病の床に就かねばならぬほど嘆き悲しんだ。
そして、快復することなく、そのまま病没してしまった。
勾子はその間も広庭大王から勝手気儘に玩ばれ、彼の種で孕んだ。
彼女は男子を出産したが、夫を失った悲しみに打ち拉がれ、難産により帰らぬ人となった。
産まれた子は大伴宇遅古/宇遅古と名付けられ、金村の息子とされた。
稲目たちは金村と麁鹿火が支持した大王専制だけではなく、彼らの外交政策をも否定した。
韓郷では加羅と結び、百済と新羅に対抗しながら、任那を維持するとされ、その政策は尾輿により主導された。
尾輿が派遣した倭人たちは、加羅の一国である安羅(咸安郡)を拠点とし、伽耶の韓人たちと協力した。
彼らは在安羅諸倭臣等(あらにはべるもろもろのやまとのまえつぎみたち)と呼ばれ、加羅および任那を併合しようとする百済と対立し、新羅と手を結ぶことさえあった。
百済は任那復興会議を開催し、倭人を保護すると称して倭国を敵に回さず、加羅および任那を属国化しようとした。
それは押山の案で、百済王から委意斯移麻岐彌という名を与えられた彼は、下哆唎国守となって麁鹿火たちの外交政策を継続させた。
そうした迷走の果てに新羅が秦韓と弁韓を支配し、漁夫の利を得る結果となった。
広庭大王は西暦の紀元後五七一年、己は何もしていないのに、自分の代で任那が失われたのを嘆きながら亡くなった。
稲目は仏教の国教化を巡って尾輿と対立してもいたので、麁鹿火たちの外交政策を継承し、押山はそのことに満足しながら客死した。
註
*金村の息子に宇遅古がいる:『古屋家家譜』
*押山が委意斯移麻岐彌という名を与えられる:『百済本記』




