29 ミリーレデル夫妻②
シュエットがエリオットを連れてきたその日の夕方、パングワンはいつものように執務室にいた。
午後は読書か刺繍の時間と決めているはずのシーニュは、ひかえめにドアをノックしながら「あなた、お話があります」とかたい声で話しかける。
「シーニュか。構わない、入りなさい」
緑色を基調とした落ち着いた雰囲気の執務室。一番奥にある執務机に、パングワンはいた。
机の上には帳簿が広げられているが、彼は仕事をしていたわけではないらしい。
帳簿の上に腕組みをして、深く考え込んでいるような姿勢をとっていた。
「話がありますの」
「そうだろうね」
「シュエットのことですわ」
「そうだろうね」
難しい顔をして、パングワンは開きっぱなしだった帳簿を閉じた。
パタン、と帳簿を閉じる音が、やけに耳に響く。
「シーニュ。どうして、とめた?」
エリオットのことを、シュエットがどこまで知っているのか。
それを問うための質問を邪魔したことを、彼は言っているのだろう。
パングワンの問いに、シーニュはすぐには答えず、窓のそばへ歩み寄った。
遠くの空を、黒い雲が覆っている。もうすぐ、あの雲はこちらへ流れてくるだろう。そうしたら、この辺りも黒い雲が空を覆って、今にも泣き出しそうな色になるはずだ。
「もうすぐ、嵐がくるわ」
「それは、」
「天気のことじゃないわ。シュエットのことよ」
「また、使ったのか」
「ええ、使いました。だって、大事な娘のことですから」
シーニュはしれっと答えた。
シーニュ・ミリーレデル。旧姓、レヴィ。
ミリーレデル商會の社長夫人にして、占星術を扱う魔導師でもある。
シーニュの生家であるレヴィ家は、占星術に長けた一族だ。その精度は凄まじく、占星術というより予言に近いと言われている。
とはいえ、ここ百年ほどはその能力に恵まれた人物はおらず、結果を出せずに没落の一途をたどったわけだが。
シーニュ自身も、能力に恵まれているわけではない。倒れるほどに魔力を使ってようやく、あいまいな言葉を聞くことができる程度である。
彼女の健康とその他諸々を検討した結果、パングワンはシーニュが占星術を使うことを禁止していた。
「倒れたのか?」
「ちょっとフラついただけですわ。ほら、この通り、ちゃんと立っているでしょう?」
苦笑いを浮かべて優雅にお辞儀してみせるシーニュに、パングワンは「仕方のない人だな」と苦笑いを返した。
「もうすぐ嵐がくる、というのが結果なのか?」
「ええ、そうです。シュエットは今後、嵐に巻き込まれる。いえ、もしかしたらもう、巻き込まれているのかもしれません。情けないですわ。母親のくせに、これくらいしか占えないなんて」
「そう言うな。心構えくらいは、できるだろう?」
「そうね。それにしても…………あなたも、見たでしょう? シュエット、ピヴェール様を頼っていたわ。あの子がよ? 私たちにさえ遠慮して決して甘えないあの子が、甘えていたの。それがどういう意味か、わからないなんて言わないわよね?」
「しかし……」
「そうね。シュエットには問題がある。あの人のせいでね。いえ、私のせいでもあるわね。私が目を離したばかりに、あの子には負わなくていい傷を負わせてしまった」
「シーニュ……」
「でもね、だからこそ、あの子には誰よりも幸せになってもらいたいのよ」
母の顔でほほえむシーニュは、とてもきれいだった。
出会った頃よりも年を重ねて、それでも彼女は美しいままだ。
ああ、今日も私は彼女に恋をしている。
若い時のような胸を焦がすような恋ではないけれど、凪いだ湖面のような穏やかな恋も良いものだ。
ふと、パングワンの目に本棚が映る。
一番下にしまってある、分厚い本。背表紙には『ジンクスについてのはなし』と書いてあった。
シュエットがジンクスについて気にするようになった時に、彼女にねだられて購入したものだ。珍しいわがままに、思わず値段も見ずに買って、少々後悔した代物である。
「なあ、シーニュ。ジンクスの語源を知っているかい?」
「いいえ、知りませんわ」
「アリスイというキツツキが語源なのだよ。アリスイはね、自らの首を百八十度回転させて真後ろを向けるから、不吉とされてきたんだ。そんな背景もあって、しばしば占いや魔術に用いられてきたらしい。シュエットはジンクスに縛られている。三人きょうだいの一番上はうまくいかない、というジンクスをね。そんなあの子をきつつきが救ってくれたのなら……妙な結びつきだと思わないか?」
「あらまぁ。そんなはなしがありますの? ロマンチックなのかそうでないのか、いまいちなエピソードですけれど……でも、今のところ、シュエットを任せられるのはピヴェール様をおいて他はないと思いますわ。彼ならば、彼ほどの魔力をお持ちの方ならば、シュエットの問題も解決できるはずですもの」
そう言って、シーニュは夫の背後に回ると、大きな背をぎゅっと抱きしめた。
胸の前を交差するシーニュの腕をそっと撫でながら、パングワンも「そうだな」と答える。
窓の外ではポツリ、ポツリと雨が降り始めていた。
次第に激しさを増す雨が予兆でありませんようにと願いながら、パングワンは祈るように妻を抱き寄せた。
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