取引先
担当事務員が代わることを、取引先に知らせなければならない。
遠方の取引先には電話で済ませるが、出向ける距離の“大切な取引先”へは、営業担当者と同行して挨拶をして回った。
オフィスビルなどに入っている、それはもう立派な一流企業ならいざ知らず、陵北電機はごく普通だし、通勤時の服装もジーンズは当たり前な感じ。
肌が弱い私は、ストッキングが苦手で、出来ることならばスーツを着たくなかったから、更衣室で先輩たちの服装をチェックして、気軽な私服通勤が可能だと判るなり、いち早く切り替えた。
そんな私にとって、挨拶まわりは脅威そのもの。ストッキングは慣れないし、すぐに電線してしまう。メイクなんて自己流だし、ファンデーションは肌に合わない……。
でも、取引先に同行して名刺交換だなんて、大人っぽくてカッコ良いな…と思う。それに、淡い想いを抱く、憧れの井沢さんと同行する機会もあるわけで。
緊張の反面、未知の世界にワクワクしていたのも事実。目に映る全てが、新鮮で楽しい。
辞令を受けた瞬間、目の前が真っ暗になり、「人生終わった」とさえ思った頃とは別人だ。人生、何とかなるものだ。
1ヶ月前とは大違いの自分が、何だかおかしかった。
*
井沢さんが担当する取引先の中でも、一番近い場所にあるのが、日本電産工業株式会社という、国内大手メーカーの事業場。車で5分くらいのところにあるから、自転車でも行ける範囲だ。
その日は、井沢さんの運転で出掛けることになっていた。――が、なにしろ、まだ18歳の小娘。
私は純粋な女の子で、男性にはあまり慣れていない。車に乗るといえば、父親の運転ばかり。
「いつか、彼氏の運転で、ドライブとか行ってみたい」という、乙女な夢を持っていた頃でもあって、シチュエーションは違えど、好きな人の運転で助手席に座れると、内心はワクワクしていた。
但し、ドライブの時間は往復でも10分少々。
(時間なんていいの! 2人でいられるなんて、夢みたい!!)
仕事をすっかり忘れ、乙女気分。
恥ずかしくも、大切な青春のヒトコマとして胸に刻んだ。
*
取引先の事業場を目の前にして、「デカイ!」というのが、率直な感想。
正門の中心に、守衛が常駐する受付があり、両脇の通路は車が擦れ違うくらいの幅がある。
井沢さんは慣れた様子で受付に向かい、私の入構証を貰ってきた。彼は既にフリーパスのような、顔写真付きのカードを持っていて、それを胸につけている。
その時、私は既に全体の雰囲気に呑まれ、圧倒されていた。
よくは解らないが、事業場の広さと規模と社員の多さ、訪問してくる営業マンの多さに目が眩んだ。
こんな世界があるんだ――。辺りをキョロキョロしながら、井沢さんの後ろについていく。
とても広い建物の迷路のような廊下を、彼は迷わずに進んでいった。
一枚のドアを開け中に入ると、そこにはまた別の世界が広がっていて…。自分の会社で広いと思っていたけれど、その倍以上の面積があると思われる、明るく開放的なフロア。
慌ただしく動いている人たちは、殆どがスーツやシャツ姿。制服がない――わけではなさそうだが(一部で着ている人がいた)、どの人もパリッと身を整えている。
井沢さんは手近の人を捕まえ、担当者を呼んでもらう。
しばらくして――
「あー。井沢くん!」
明るい女性の声がした。
聞き覚えのある声は、電話で何度か話をしたことがある女性。
「新しい事務の子を連れてきたよ」
にこやかな表情で、その女性と引き合わせてくれる。
「椎名です。よろしくお願いします」
いつも通りの、無難な挨拶。私の名刺はまだ出来ておらず、自己紹介をして頭を下げるだけ。
一通りの形式的な紹介を終え、立ったまま仕事の話をしている2人の会話を、意味が解らないながら耳を傾けた。
「あ、そうそう」
井沢さんが、私に顔を向ける。
何かと見上げると、
「彼女ね、俺の中学の同級生なんだ」
「……え!?」
思わず、目が点になる。
――ああ、なるほど! だから、砕けた雰囲気というか、堅苦しい雰囲気ではなかったんだ。……って、そんな偶然もあるんだ!
キリっとした、少し気が強そうな印象の女性。
最高に、カッコ良かった。