要らない腕時計
たまには穏やかな日もある。
珍しいことに、ここしばらく、井沢さんは宗教を口にしなかった。
「来い」とも「行く」とも言わない。
どんな理由であれ、私には平和な日が続いていた。
井沢さんの席の後ろに、ワープロが一台置いてある。少し昔のデスクトップ型の、パソコンみたいなワープロ。
そこで木村ちゃんが資料を作成していた。
席がフロアの端同士で、普段は声をかけられなかったから、課長がいない隙を見ては、ちょこちょこと話をしに行っていた。
「木村ちゃん。進んでるー?」
近くの空いている椅子を引っ張ってきて、話をする態勢作り。
文字を入力しているだけの彼女は、さすがに退屈だったらしくて、嬉しそうにしていた。
声を抑えながら、軽く笑って話をしている私達の間に、スルスルと井沢さんが椅子を動かして、話に入ってきた。
「あー。ここ、こうするといいよ」
「あっ、ホントだ。ありがとうございます」
木村ちゃんに操作の仕方を教えつつ、楽しそうにしていた三人。
もっと話していたいけど、お喋りも程々にしないといけない。
時計を見つつ、私は席に戻ることにした。
すると……。
「そうだ。椎名ちゃん」
井沢さんに呼び止められて振り向いた。
なにやら、彼は左手首にしていた腕時計を外している。
その時計を、私に差し出した。
「なに? これ」
訝しげに彼を見てしまう。
「あげる」
「はあっ!?」
木村ちゃんが、キョトンとした目で見ている。
意味不明で衝動的過ぎる井沢さん。
「いらないよ。というか、なんで?」
「んー。新しいの買うから」
「え……。でも、動いてるよ?」
困る私を愉快そうに眺めている井沢さん。
「さて、ちょっと出かけてくるか」
伸びをしながら、カバンを手にすると、呆然としている私と木村ちゃんを残して去っていった。
「わー。ラブラブなんだねぇ」
「いや。あの人に、深い意味はないと思うよ」
彼がつけているコロンの香りが残る時計。
よくあるシルバー色の、ステンレス製のもの。
井沢さんの体温が残っている。
渡されてしまった、この紳士物の時計を、どうすればいいの?
捨て――られないよね。
いつものように、振り回されるばかりの私。




