其の肆
今しがた鼓膜を震わせた言葉を信じられず、思わず表情に出す。傍に控えていた使用人たちは堪えきれないといった風に息を呑み、目を丸くした。
「……五条赤人ならば年も近く、本来ならば順当だ。長男長女とはいえ、あちらには三歳下の弟もいる。婿入りを提言してきた。婚約が成立した場合、弟が家を継ぐそうだ」
徹底的だ。長男を手放してまでとは、よほど紫乃を欲しているのか。いや、『三枝』を欲しているというべきか。
脳内で必死に真意を探ろうとする紫乃は、思わず質問を発していた。
「けれど、五条は『五の血統』本家でしょう? 分家の三枝に長男を婿入りさせるなんて、そこまでして繋がりが欲しいのかしら?」
「違うと思うわよ」
それを否定したのは、紫苑。
「現在、『数の血族』の子供で、五条赤人と年が近い女性は紫乃だけよ。それ以外は一番下でも二十歳を過ぎているわ。しかも、数の血族内、もしくは軍上層部や他の名家出身の婚約者付きね」
単純明快で、覆しがたい真実だった。故に、紫乃は押し黙るしかない。この件について、有効な解決策を見出す事は、できなかった。
既に作られた道から脇道に逸れたと思えば、結局戻ってきてしまっていた。そんな気分だ。
「……なら、その話を受けるのね」
諦めたような呟きを、藍紫は一蹴する。
「いや、私たちは二人の婚約を進めたいと思っている。そもそも、最初に婚約を言い出したのは私たちだろう」
「そうね。問題は、五条家をどう納得させるかだけれど」
その言葉尻に乗っかった紫苑が、頤に手を当てて思案に耽る。それを、藍紫は意に介した様子もなく遮った。
「その点については、まずはどこか別の家に仲介を頼んで、五条家の当主と話をしようと思っている」
藍紫が告げた解決策は、平和的かつ最善と思われた。だが問題は、手段はともかく、相手が納得してくれるかの一点に尽きる。そうでなければ、意味がない。
そんな紫乃の思考を読んだわけではあるまいが、藍紫は安心させるように小さく笑った。
「確かに、神木君は名の知れた旧家名家の出ではないが、あの神木夫妻の息子で『神憑き』だ。それだけで十分三枝家に引き込むメリットはある。さらに本人同士の意思も決定していると来ている。それでも足りないのならば、現在『数の血族』が陥っている殻に篭った有様に入れる新しい風だとでも言えばいい。お前たちには気に入らない事かもしれないが」
最後にとってつけたその言葉を鼻であしらい、紫乃は尋ねた。
「仲裁役はどの家に頼むのかしら?」
「基本的には、『三』でも『五』でもない家だろう。欲を言えば一ノ瀬家が理想だが、そこまでは言えまい。どちらとも深い関係のない、七飯家あたりが妥当だろうか」
頷きを返答に代える。
「日にちが決まれば一言頂戴。明日からは部活もあるから、できれば休日ね」
「そうなるだろう」
「それじゃあ、わたしは部屋に戻るわ。神木、今日はもう家から出るつもりはないから、帰って構わないわよ」
一ノ瀬青一との面談以降、すっかり板についた『女主人』としての行動。そんな変化に一番戸惑っているのが自分自身である事を感じながら、頷いた玄に背を向けた。
「ただいま」
誰もいない部屋の中に一応声を投げかける。ほんの微かに痛む胸を押さえて、靴を脱いだ。いつものように、飼っている黒猫はどこかへ出かけているらしい。猫らしく勝手気ままなその行動に苦笑しながら、冷房のスイッチを押した。
腰に下げていた刀をいつも通りにしまい、藍紫に書いてもらった書状を丁寧に鞄にしまい込む。軽くなった体を幾度か伸ばせば、動き出したクーラーが吐き出す冷たい風が左側を通り抜けた。
どさりと、体をソファに投げ出す。紫乃と共に過ごす時間は楽しいが、三枝家の中ではやはり肩肘張ってしまうのは避けられない。こればかりは、性分のようだった。
汗ばんだ体を放り出しながら、ぼんやりと中空を見つめる。
いつだって浮かぶのは、『みんな』の顔。笑った顔と、最期の表情の一対ずつ。
常盤、藤斗、鳶哉、空。浅葱、桜、若菜、葵、胡桃、杏子。そして、玄奈。
友人を殺し、姉を見殺しにし、一人だけ生き残った自分を怨んでいると思っていた。祟り殺されてもおかしくないほどだと。
けれど、玄は今、仇を討てず、死ぬ事もできず、あろう事か婚約などという幸せを掴もうとしている。
それを苦しみはしない。過去を過去と割り切り、未来を向く事は、紫乃から告げられた新しい生き方だ。それを、言われて数週間も経たないうちに破る事はしない。
だから、白い天井に浮かぶかつての友人たちに、精一杯笑ってみせる。まだそれは、ぎこちない作り笑いだけれど。いつか、本当に笑えるように。
「……みんなが生きられなかった分を、生きてみてもいいかな」
誰にともなく呟く。いらえは、いつの間にか帰ってきていたグリムの鈴の音だった。
「おかえり」
足元に擦り寄る黒い毛の塊を抱き上げる。楽しそうに鳴くグリムを抱き締め、その毛並みに顔を埋めた。
つい最近まで、怖かった。
帰ってきた家に誰もいない事が。暗闇に幻視する友人たちの顔が。どこからか響く怨嗟の声が。自分が生きている事が。あれだけ好きだった友人たちに怨まれている事が。
――――それらの痛みが、少しずつ薄れていく事が。
今もまだ、その恐怖はしこりのように胸の奥にある。心境の変化とは言え、たった一週間やそこらで急激に何かが変わるはずもない。それを取り去るには、玄は長い時間一人で過ごしすぎた。
それでも、その恐怖は気を抜けば発狂しそうなものではなくなっていた。ただじんわりとそこにあり、無視はできないが、それに狂わされる事もない。そこにあるだけ。
けれど、何よりもそれを受け入れている自分が、一番変わった。それを、自覚する。
ズボンの右裾に手を突っ込み、万が一に備えて巻きつけていたナイフを外す。涼しくなった脛に身震いして、テーブルの上に放り出した。




