其の弐
零れ落ちたその呟きを、受け止め損ねる。仕方なく、一度聞き返した。
「……怖くなった?」
肩の上で、首が上下するのを感じる。幼い子供のようなその態度に、その言葉が思い違いや過剰表現ではない事を悟る。そもそも、玄がそんな事をするはずもなく。
本当に、怖がっているのだ。微笑み一つで凄惨な過去を押し込めてきた玄が。髪を伸ばした程度で罪悪感を飲み下してきた少年が。
今、幼子のごとく紫乃に取り縋って、身のうちに巣食う恐怖を必死に耐えている。
ゆっくりと、抱き締められていた腕を引き抜く。少しだけ緩んだ拘束の隙間を縫って自由を取り戻すのは、それほど難しいことではなかった。
「……何をそんなに怖がるのよ」
優しく、落ち着かせるようにその後頭部を撫でる。まるで、赤子だ。
紫乃の体温を感じて少し落ち着いたのか、腕の力が緩む。口も緩んだのか、水滴が滴るように、言葉が漏れ出した。
「……半日もかかったから。君があそこで待っていない事は、わかってたんだ」
「そう」
「……でも……それでも、君があの場にいない事が、怖くなった」
声が、震える。それは、聞いた事の無い玄の声。泣きも喚きもせず、ただ打ち震えるだけの臆病な少年の声。
「……あの時も、そうなんだ」
またしても零れ落ちた言葉に、紫乃の思考が止まる。『あの時』がどの時を指すのか、紫乃には判断できなかった。まさか雨の中泣き叫んだ黒歴史ではないだろう。
そんな紫乃の逡巡を感じ取ったのか、玄は徐に口を開く。
「……君が攫われて、車に追いつけなくて、このまま、君がいなくなるんじゃないかって、また喪ってしまうんじゃないかって、そう思ったら、狂いそうだったんだ」
その言葉が指すのは、紫乃が誘拐され、車に押し込められた時。わざわざ神憑きとしての力を使ってまで、車を走って追いかけてきたというのだから、その必死さは計り知れない。
だが、それは職務故ではなかったのか。守護対象である自分が攫われたから、追いかけてきた、ただそれだけの事ではなかったのか。
「……『誰かを喪う事』を怖がるのは、当たり前よ。あなたなら尚更でしょう」
過去の悲劇を繰り返したくないという思いは、不自然ではない。ここまで恐怖するかと言われればわからないと言うしかないが、懺悔の中に出てきた単語をつなぎ合わせた程度でも、その過去の凄惨さは伝わってくる。この反応もまた、不自然ではないのではないか。
そこまで推測したところで、玄がゆるゆると首を横に振った。先程から、動作が幼児退行を起こしているようで、胸の奥がくすぐったくなる。
それを気の迷いと断じ、玄に問いかけた。
「……何か違うのかしら?」
「……『誰か』じゃなくて、『君』なんだ」
ぐさりと、何かが紫乃の体に突き刺さる。それは、痛みか、苦しみか。はたまた、別のものか。紫乃には判断できない。
「……どういう、意味」
「…僕も誰かだと思ってた。けど、違うんだ」
またしても、腕に力がこもる。
「今、君がいなくて。それはわかってたはずなのに、怖くなった。嫌な想像ばっかり思い浮かんで、いてもたってもいられなくなって。思わず走り出してたんだよ」
抱きつくというよりもしがみついているような玄が、ゆっくりと言葉を紡いでいく。それを聞きながら、紫乃は自分の事を思い出していた。
あの時、車に押し込められ、琥珀の元へ引きずり出されたとき。
琥珀の存在への戸惑いなどはあったにせよ、紫乃は一心に、玄の救助を願っていた。玄の存在が隣にいない事を怖がり、二度と会えなくなる事を恐れていた。玄が来る事に疑いなどなかった。
玄と出会った頃の自分では、絶対にありえない感情。あの頃の紫乃は、きっと自力での脱出を考え、それでなくても一人でも多く道連れにする方法を模索していただろう。
「……そんなの」
けれど、あの時は違ったのだ。
「…そんなの、わたしも同じよ」
いつもなら、こんな弱音は心の奥で焼却処分に処されるはずなのに。なぜか、するりと口から飛び出て行った。その事に、紫乃自身が一番驚く。
「……あなたが助けに来るまで、わたしは一人だったのよ」
掌を滑る髪の感触に、しがみつく。こんな行為だって、忌避していたはずなのに。
紫乃は『三枝の娘』だ。それは肩書きであり、責務であり、鎖。あるべき姿は親族によって、慣習によって定められている。そこから逸脱する事は許されず、立ち居振る舞いに始まり生活習慣や技能、対外関係に至るまで指導は多岐に渡る。幼い頃から、紫乃はそれを当たり前に生きてきた。
紫乃は『三枝の娘』だから。なのに、今、『三枝の娘』としてあってはならない弱音を吐き、気丈に率いらなければならないはずの従者に縋ろうとしている。
「……怖くないはずが無いじゃない。死ぬかもしれないのよ」
玄は、何も言わない。
「……でも、何よりも、あなたに会えなくなるのが怖かった。過去に何かを抱えているであろうあなたに、もう一つ傷をつける事が嫌だったの」
ただ、腕の力が少し強まる。
それは、この先の言葉を諌める痛みかもしれないけれど。
「……わたしはもう、あなたがいなきゃ、ダメなのよ」
堰を切った紫乃の声帯は、もう止まらない。
「……僕はもう、誰の手も取れないと思ってた」
それを遮るようにして、玄は呟きを零す。
「許されないと思ってた」
「そんなわけはないわ」
「うん、君は許してくれる」
いつかの言葉を、繰り返す。
玄の中に、刷り込むように。
「わたしはあなたの傍にいるわ。何があっても」
それが耳に入っているのかどうかはわからない。ただ玄は、感慨深げに呟く。
「……ただの守護対象だったはずなのに。いつの間にか、君を守る理由は『仕事』じゃなくなってる気がするんだ。君を喪う怖さが、『仕事』だからじゃないんだ。……君を、喪いたくない。君と、離れたくない」
しっかりと背に回された腕が、紫乃を捉えて放さない。それは、玄の心情の現れか。
「……わたしは、死なないわ。守られるだけのお姫様じゃないもの」
いつかどこかで言ったような、台詞。それを聞いて、玄はようやく笑った。
「そうだったね。君は、強いから」
呆れたようなその言葉に、苦笑した。
――――ここが、三枝家の居間である事も忘れて。




