其の拾伍
「……敵影確認。排除する」
『殺さないでくれよ』
その言葉には返答せず、腰の手甲鉤を引き抜く。視界の端で、濃い赤に染めた髪が揺れた。
月が雲に隠れ、周囲に束の間の闇が下りる。それでなくてもこの真夜中、周囲は目を凝らしても薄ぼんやりとしか把握できない。
だからこそ、夜は翡翠の土俵なのだ。
「『明星』」
自分の体が軽くなったのがわかる。体が朧に霞んで半透明である事を確認してから、敷地内に踏み込んだ。
魔力活性化に伴う身体能力上昇を超えて、さらに加速していく。これが、支援に特化した闇系統魔術の骨頂。翡翠が手に入れた力。
門から通用口までの数十メートルを一瞬で詰め、見回りをしていた警官数名を叩き伏せる。動かなくなった事を確認してから、門の方を振り返った。
「排除完了」
『了解。そっちへ向かう』
数秒経って姿を現したのは、幸田橙也だ。筋骨隆々とまではいかないが、それでも鍛えられた体。百八十センチを越す身長も相まって、かなりの威圧感がある。
その橙也はといえば、うなじの辺りで一つに束ねた茶髪を揺らして立ち止まり、人好きのする笑みを浮かべた。
「それじゃ、いこうか」
「わかってるから」
大盾を背負った背中を追って、建物内に踏み込む。ところどころに白いビニールテープが貼られた廊下を踏破し、一つ目の扉跡地を跨ぐ。
「……檻って」
「『器』を持つ人間を攫ってきてはさ、適合実験をしてたらしいんだ」
「ウチらみたいな?」
「そう」
橙也の大柄な体が、檻の前に屈みこむ。切断面をごつい指が撫で、覗き込んだ視線の先で顔が歪む。それは、驚愕。
「なんかわかったわけ?」
「ああ。この切断面さ、たぶん武器じゃなくて魔術だ」
「は? 普通の攻撃魔術に切断は無いし。何言ってんの?」
じろりと睨みつけた翡翠を、橙也は諭すような笑みで待ち構える。
「普通の攻撃魔術には無くてもさ、特殊な攻撃魔術にはある」
その誘導に応じて、翡翠の中で一つの可能性が顔を上げる。それは、最悪の可能性。
「……『神憑き』……!」
「そう。そしてさ、俺たち以外の神憑きはさ、二人しかいない。そのうちこんな事ができる状況にあったのはさ、あの子だけだ」
翡翠の脳内に浮かぶ、あの優しい微笑み。切なさと愛しさが入り混じった複雑な感情が、胸の内から噴き上げる。今でも、耳の中であの声がする。優しいアドバイスが蘇る。
「……玄様……」
その呼称に、橙也は苦りきった笑みを浮かべた。
「そ。君の王子様だ。今回の件さ、琥珀君が攫った三枝家の令嬢を取り戻しに来たあの子が起こしたらしい。つまり、ここの破壊も殺戮もさ、全てあの子の仕業って事」
くらり、と眩暈がする。
あの夏の日、翡翠の面倒を見てくれた玄は、どこまでも優しく、穏やかだった。翡翠の存在を看破したその技量は確かに恐るべきものだが、それでも根は優しいと思えた。
なのに、今回の件は全て玄の仕業だという。それでは、翡翠の中の玄像と一致しない。
そんな翡翠の動揺を察したのだろう、橙也は優しく頭を撫でた。
「たぶんさ、守護対象として少なからず関わっていた人間が傷つけられてさ、頭に血が上ったんだろ。あの子は優しいからな」
自分が子供のようにあやされていた事に気づき、頭の上の手を跳ね除ける。
苦笑して歩き出した橙也の後について、廊下に歩を進めた。
四階唯一の部屋に続く大きな扉を開け放つ。その内部は、まさしく『研究所』と呼ぶにふさわしい内装だった。最も、今は原形を留めないほどに破壊されているが。
今までの部屋や廊下とは段違いに広いその室内へ踏み込む。乱雑に散らばり破砕された実験器具だったものを避けつつ、奥へ踏み込む。
部屋というよりも広場と呼ぶべきその中で、翡翠はあるものに目を留めた。
「……血」
「ん? ああ、そうだな。誰の血なのやら」
「……今回の事件で怪我をしたのは、三枝紫乃のガーディアン、つまり玄様と、その担任で八校総戦術教師の山代宏緑、そして主犯の一花琥珀。出血量からして、この血は山代宏緑のもの」
その分析に、橙也は頷いた。
「ああ、腕を切り落とされた奴か。確かに、この量はそうかもしれないな」
そんな言葉も耳に入らない。そのすぐ横に広がる、それよりも少し少ない血を見つめ、考える。
「発表によれば、山代宏緑は生徒である三枝紫乃と玄からの連絡で駆けつけ、交戦中だった二人を発見。二人を逃がすために割って入り、戦闘へ。右腕を切り落とされるも、刺し違えるように琥珀の腹部を貫いた」
その言葉で、橙也は翡翠の言わんとしている事を察したようだった。息を呑む音に次いで、ため息のような呟きが零れる。
「……その血は琥珀君のものか。かなりの出血だけど、無事かな」
「無事じゃ済まないし。『天陽』が間に合えばいいけど、じゃなきゃ死んでるから」
ただ淡々と、事実だけを口にしていく。厳しく聞こえるかも知れないが、事実を把握せず理想だけを口にするのは、翡翠の性分ではなかった。それでは無責任だ。
ダン、と衝撃音が響く。
はっとして顔を上げれば、橙也の拳が、壁にひびを入れていた。魔力活性時で身体能力が強化されているとは言え、凄まじい筋力だ。
けれど、翡翠が驚いたのはそこではない。
橙也の顔は、苦悶に歪んでいた。
「光にぃ」
「あ、ああ。悪い。ちょっと頭に血が上った」
声を掛ければ、何かを押さえ込むように苦しそうな笑み。だが、翡翠は何も言わない。
「琥珀の失踪に関する手がかりはここには無さそうだし、撤退するよ」
「ああ、わかった。水さんの情報に期待しよう」
踵を返し、広場を出る。
点々と広場全体に散っていた血痕の中にあるであろう玄の血に、少しの名残惜しさを感じながら。




