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其の参

 見慣れた廊下を抜けて、見慣れない部屋に入る。紫乃(しの)の父親である藍紫(あおし)の書斎兼応接室は、普段立ち入る事の無い、この家の中でも未知の領域。その事に緊張を感じながら、紫乃は(はる)に続いて敷居をまたいだ。

「まあ、座りなさい」

そう言われ、玄の隣、人一人分の間を開けてソファに腰を下ろす。来客用の上等なソファは、ふかふかだった。

「さて、あんな状態で帰ってきたのだから、自己紹介は済んでいるとは思うが……一応言っておこう。紫乃、こちらは神木玄君、今日からお前のガーディアンとして、傍についてもらうことになる。まあ、あまり屈強とは言えないが、直接戦闘ではお前でも片手で捻られるだろうな。そういうことだから、安心して良い」

それは、さっき目の当たりにしたばかりだ。安心どころか、傍にいられても不安しかない。なにより、いつまでもへらへらと笑っているのが癇に障った。

「さて、一応写真は渡していたと思うが、玄、そこでむすっとしているのが私の娘、紫乃だ。あまり素直な子ではないと思うが、よろしく頼む」

大きなお世話だ。そう吐き捨てたいのを何とか堪え、会釈した玄からこれ見よがしに顔を背ける。前方で藍紫がため息をついたのがわかったが、あえて無視しておく。

「……嫌われましたね」

「気にする事ない。紫乃は誰に対してもこんな感じでね」

別に、紫乃とて好きでこんな事をしているわけではない。ただ、気に食わないだけなのだ。確かに、紫乃は玄には敵わないだろう。しかし、裏を返せば人外のようなレベルでなければ紫乃一人でも十分だと言うわけだ。それなのに、過保護に扱われるのは苛立たしくてならない。

「それと、保留ではあるが、お互い婚約の件もある。玄はもとより、紫乃も、意地ばかり張ってないで仲良くしなさい」

それこそ気に入らない。別に心に決めた人がいるなどと言った少女マンガ染みた理由ではないが、親に押し付けられて決めるのは嫌だった。

「そうですね、よろしくお願いします、ミストレス」

そして、強制されたわけでもないのにわざわざ『女主人(ミストレス)』と呼んでくるところも気に入らなかった。第一、紫乃は好きで女主人になったわけではない。

「ええ、一応よろしくと言っておくわ」

とはいえ、ここで無視するのは『三枝家の一人娘』として叩き込まれてきた礼儀に反する。仕方なく、自尊心が耐えうるギリギリのラインで返答しておいた。

「すっかり嫌われちゃいましたね」

そんな風に言う割には、顔は笑っている。その笑顔は完璧で、だからこそ場に似つかわしくない。

「わたしは学校に行くわ」

「ああ、紫乃。最後に一つ。お前の事だから無駄なんだとは思うが……朝は玄に迎えに来てもらうから、それから学校に行くようにしてくれ」

おそらくそうなのだろうとは予想していたため、この言葉には驚かない。

「わかったわ」

ただ、紫乃が玄を待つ気がないことまで見透かされていたとあれば、天邪鬼たる今の紫乃はその反対の反対、つまり言われた通りの動きをせざるをえない。仕方なく、素直に頷いておいた。

「それでは、藍紫さん、失礼します」

「ああ、気をつけて」


 通勤時間で混んでいるとは考えていたが、こうして体験すると驚きは禁じえない。全員が全員、何らかの近接武器を身につけているのも動きにくさを増長させている。そんな人ごみの中で常に隣に陣取っている玄には目を見開くばかりだが、そんなことを表に出すのは癪だ。そして、この人混みになれていないことすら露見するのが嫌で、紫乃は下手をすれば玄の裾を掴んでしまいそうな気分に鞭打って、前だけを向いていた。

 紫乃の中学は付近の公立だったため、通学は徒歩だった。神奈川県の第八区画十一区と言えば周辺の中でも大きな町であるとはわかっていたが、こうして通勤時間に公共交通機関を利用したのは初めてだ。

「けど、驚きです。ミストレスであれば、学校まで車などで行くのかと」

「その敬語、やめて頂戴。同い年でしょう」

「しかし」

「いいからやめて。何か言われたらミストレス(わたし)の命令だと言いなさい」

「わかりました。それで、ミストレスはどうして電車で?」

言いたいことはわかる。紫乃は『三枝』。『三宮(みつみや)』の分家とは言え苗字の頭文字に数字を冠する『(すう)血族(けつぞく)』であり、『一ノ瀬(いちのせ)』を中心としてこの国を治める『魔術議会』に参加を許された血筋である。輩出した魔術使の優秀さとて、他の名家旧家とは一線を画している。そんな家の一人娘が、何故危険も多い公共交通機関を使うのか。それは偏に、

「お父様の意向よ。『この国を治める血筋であれば、この国の事をよく知っておかねばならない』って言ってね。だから義務教育も公立だったわ」

父である藍紫の言葉によるものだった。

「そうなんです」「敬語」

「あ、すいません。そうなんだ」

「それで、あなたは? なんでガーディアンなんか」

そう尋ねた紫乃に、玄は笑みを崩さず、けれど瞳の奥で寂しそうな光を見せた。

「恩があるんだよ。返しきれないくらいの恩が。それに報いるためと、一人暮らしのための資金は必要だったから、かな」

「そう、それなら安心ね」

「へ?」

疑問を口に出した玄の顔を覗きこみ、嫌みったらしく笑ってみせる。

「下手に義務感や使命感なんかを語られるより、数倍マシよ」

「ひねた考え方だね」

「うるさいわね、従者の癖に」

「ええ、仰せのままに、ミストレス」

図星を指され、厳しく返せば冗談めかして反撃される。

 『三枝の一人娘』としてずっと遠巻きにされてきた紫乃にとって、初めて気安く会話できた瞬間だった。

「あ、こっちの方が空いてますよ」

そう手を引かれ、階段から少し離れる。

 その言葉通り、階段から五両ほど離れた車両は空いていた。もちろん空いている座席など無いが、それでも、まっすぐ歩くので精一杯だった改札付近なんかよりは随分とマシと言うものだ。

「礼は言うわ」

引かれていた手を払い、車両に乗る。その傍若無人な態度には笑みを崩さない玄が、またしても癇に障って顔を背けた。

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