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第七話

梅雨が明けた頃、モムマートを辞めた。晴れて越野家の深夜バイト一本に絞ることにした。

あれから裕子さんはしばらく手首を隠す服を着ていたけれど、しばらくしたら手首を普通にさらす服も着るようになっていた。

俺が気にしているのに気付いて、もう大丈夫だってー。なんて頬を膨らませたりした。

少なくとも、話をする限り以前と同じように見えた。相変わらず勝手に家に侵入もするし。

やっとこの頃になって分かってきたのだけど、どうやら雄一のやつは本気でハードなことをやっているようだ。どっかで聞いた適当な学校じゃなくて、雄一のところは何人も本物を輩出しているところだ。ダンスどころか日本舞踊の分野までやるらしい。

ずかずかと家に上がりこむ人数が減ったおかげで、少しばかり睡眠時間が増えた。少し退屈にはなったけど。


しばらく、何の変哲も無い平坦な毎日だった。変化があったのは蝉が最後の力を振り絞って鳴くようになったころ。

お袋から祖父が入院したというメールが来た。

うちのアパートに空調は無い。その土曜日はもともと暑さに強い性質の俺でも、頭にお絞りを乗せ、扇風機にかじりついていたのを覚えている。ピークを超えたはずなのに本当に暑い日だった。

すぐさま店長に連絡し、夜のバイトを休ませてもらった。

正確には一週間ほど前に倒れたらしいが、お袋もばたばたとしていたため俺への連絡が遅れたらしい。天然だからってそこらへんは本当にきちっとして欲しかった。

準備を済ませてから祖母に電話を入れた。病院にいるのか電話は繋がらなかった。お袋にメールを送っても返事が無い。祖父の病状は結局どうなのかわからなかった。

何か、見舞いの品を持っていこうと思い、途中の八百屋で果汁百パーセントのジュース詰め合わせを買った。もし食べられない状態でもこれならある程度日持ちもするし大丈夫だろうって。


病院の場所は分かっていた。俺が暮らしているアパートからたいした距離じゃない。自転車で、十数分でついた。

自動扉をくぐり、正門のところで手をアルコール消毒させられた。

ロビーで病室を教わり、突き当りの病室に入る。ベッドがいくつか並んでいる最奥、窓際のベッドにネームプレートがあった。

消毒の匂いが、鼻についた。

祖父が横になる枕の横には、見たこともない機械がおいてあった。コードと、チューブのようなものが何本も走っていた。いったいどんな状態なんだ、祖父は。

「多田さんは、今リハビリ室にいるよ。」

ベッドの向かいのお爺さんが声をかけてきた。振り向き、ありがとうございます。と礼をいった。

ベッドの横にしつらえられているテーブルに、見舞いの詰め合わせを置いて、リハビリ室に向かう。

ロビーと、祖父の病室のちょうど中間あたりに、リハビリ室はあった。入り口に近付いただけで、中の様子が見て取れた。

比較的、このリハビリ室にいる患者は歳をとっているようだった。ふと見渡しただけで、車椅子に乗っているような老人ばかりなのが分かる。

ここに、祖父がいるっていうのが信じられなかった。

祖父は俺よりも更に十センチほど背が高かった。写真を見せてもらったことは無いけど、きっと若い頃はハンサムに違いないという、精悍な顔立ちの爺さん。それが俺の印象だった。笑点の桂歌丸を凛々しくして、巨躯にして、毛を増やした感じだ。

家にお世話になっていたときは、昼間たまに仕事の手伝いをしていた。そのときも、百数十枚スラックス生地を重ねた束を、両手に一個ずつ持っていた。布と言えども大体十五キロほどはある。

配送では一日何十キロ、ともすれば百キロを越える距離をハイエースで走り回っていた。汗をかけば、ペットボトルのコーラを好んで飲んでいた。

七十を超えてもそんな祖父だった。

「どうかなさいましたか?」

入り口に突っ立っていた俺に、リハビリルームから男の看護師が質問してきた。

「あの、多田ただ 豊次とよじが入院していると聞き、見舞いに来たのですが。」

俺の返事に、ああ、と小さく頷いて、その看護師は膝ほどの高さのベッドの方を案内した。

「今マッサージを受けているところですよ。大丈夫ですから行ってあげてください。」

「すいません。」

会釈を返し、ベッドに近寄っていく。上に覆いかぶさるようにしてさっきより大柄な看護士がマッサージをしているのが見える。

少し近付いて、看護師が抱えている祖父の足を見たとき、ぎくりとした。

看護師の脇から背に向けて見えている、祖父のふくらはぎから先だけを見て祖父の状態が分かってしまうほど、その足は細くなっていた。

「治か……」

衣擦れのような小さな声。数秒して、看護師の影からこちらを見ていた祖父の声だとやっと気付いた。

「うん。お見舞いに…」

止まっていた足を必死に動かす。次第に見えていく祖父の寝間着姿。血が氷水になったみたいだった。

祖父はかつての、俺が抱いていたイメージとはかけ離れた姿だった。

病室にあった装置と同じものから、チューブがのびている。鼻から肺へチューブが入っていた。

看護師は丁寧に、足をマッサージし、足を持ち上げたり曲げたりしている。満足に動かないからだが硬くなってしまわないように。

もともと歳相応に痩せている祖父だったが、まるで本当に骨の上が皮一枚になってしまったようにやつれている。

目も、つかれきっているようで。今にも消えてしまいそうなほど弱弱しくて、俺は不意にこみ上げる感情を抑えるので必死になった。

「ありがとうなぁ。……もう少しで終わるから、椅子に座っていてくれぃ。」

見るからに満身創痍の祖父は、チューブが邪魔なせいか少し曲がった笑顔を見せた。

五分ほどのマッサージのあと、補助器にもたれながら床にある黄色い楕円のラインに沿って歩いていた。一周十メートルほどのライン三周、それだけに二十分もかけて。大丈夫だと、額に汗を浮かべながら、こっちに笑顔になりきっていない笑顔を向けて。

終わって車椅子に乗り換え、病室へと移動した。俺が車椅子を押すことを、祖父はしきりに気にしていた。

「そんなん気にしないでくれって。」

そんな俺の言葉にも、曖昧に笑うだけだった。満足に体が動かないぶん、余計に心が弱くなっているみたいだった。

病室に着くと、ちょうど祖母がもどってきていた。ベッドの近辺の掃除などをしている。話を聞くと、いつもこの時間にリハビリが終わるからその間に洗濯などを済ませていたらしい。

祖母は慣れた手つきで祖父の脇に腕をいれ、あっという間にベッドへ移動させた。

思い返せば、しばらく祖父の家には顔を出していなかった。お世話になったあと、夕方と無く深夜と無く毎日バイトに入っていたから、昼間は休みでもなければ動けなかった。

まして、モムマートを卒業してからはそれこそ夜型に変わっていたため、車の教習以外では実家方向に出なかった。

だから家を出る頃の、体調を崩した祖母の様子と元気な祖父と今の、対極的な二人のギャップに、なんだか凄い違和感を覚えた。

「ありがとなぁ。久しぶりで……こんな格好では情けないが。」

祖父は目覚めたてのフランケンシュタインのような緩慢さで、襟元を直した。

「まったく、昔の人だからこんな時も見栄はっちゃってねえ。」

ぜいぜいと呼吸の音が響く。チューブの先の機械が、小さく唸っていた。それにかき消されそうなほど祖父の声は小さい。

「肺炎で、肺に水が溜まっちゃったのよ。」

祖母は病院慣れしているせいか、てきぱきと祖父の身の回りの世話をしている。

「もう、長くは無い。」

「まったく、弱気になっちゃって。そんなに大変な話じゃないわよ。」

叱咤するような、責めるような、そんな激励の声だった。

「そうだって。トヨジぃは同年代に比べても仕事して、マッチョだったしさ。すぐ良くなる。」

仕事、と言う言葉に反応して、小さく祖父は体を揺らした。ああ、と唸ってしばらく黙り込み、そして。

「御礼をしなきゃだからなあ。」

祖父はぽつりとこぼし、俺はその電撃に貫かれた。

――なんでだよ?

無意識に目を伏せてしまっていた。真っ直ぐに祖父のことを見れなかった。

――満足に体を動かすこともできなくて。肺に水が溜まってしまいいつも苦しくて。

とても高潔なものを前に、自分がそれを見るのをはばかられるほど矮小な気がした。

――心も疲れて弱ってしまっているっていうのに。

なんで……そんな言葉をつむぐことが出来るんだろうと、思い。弱りきっている今祖父が言った言葉こそが、祖父を形作る芯からの言葉であるような気がした。

胸を打たれ、昔からずっと自分自身の平静を保とうとしていたタガに罅が入った。

「……トヨジぃジュース好きだろ?…さすがにコーラってわけにはいかないからさ、百パーセントのやつ持ってきたんだ。」

別の言葉を何とか搾り出した。喉ギリギリまでこみ上げ、溢れそうになっていた濁流を必死に押さえ込んだ。油断したら途端に涙が出てきそうだった。

「おじいちゃんは今飲めないから、私たちで飲んじゃいましょう。」

冷蔵庫からテキパキと氷を用意し、コップに二杯グレープジュースが注がれた。

「氷を入れたら折角の百パーセントも薄くなっちゃうわね。」

俺の雰囲気を察したのか、祖母は甲高い声で小さく笑った。祖父は、わしの分もちゃんと取っておいてくれよ、と低い声で愚痴った。

「治。」

一口俺が呷った時、ベッドの上で再び小さく居住まいを整え、祖父は真っ直ぐにこっちを見つめた。

「……どうかしたん?」

「わしももうこんなだからな、小言を言うのも最後になるかもしれないが……わしは治が就職しないのが心配でな。」

「まったく、こんな時にまたお説教なの?それにまた弱音を吐いちゃって……ねぇ。」

「お前は黙っていてくれ。治?」

真っ直ぐにこっちに向いている、皺くちゃな顔が、その双眸が、その説教が、心底俺のことを心配しているためのものだと、始めて素直に見つめ返すことが出来る気がした。

「…うん。」

親父の、心配よりも酔った勢いの腹いせの口実じゃない。

今まで、そして今、祖父が紡ごうとしている言葉はすべて、厳しい人生の先輩として道の一つを指し示すための苦言だったのだと、やっと気付いた。

「少し厳しいことを言うが……夢と言うのは胸に描いたときから積み上げ、その為に力を蓄えたものが謳うことを許されているものだ。」

分かっている。夢を実現する頂に到達するためには、様々な犠牲を払い全力で何かを積み上げていかなければならないことは。例えるなら夢というのは、ピラミッドのようなものだと言うことは。

だから、子供の頃の痛みを伴う記憶とか、ショックだったこととか、親父の虐待しか覚えていない俺には、夢なんてものは無いし、描く資格もないと思っている。

ただ、俺のそんな想いとは別の次元で、今の祖父の言葉を遮るわけにはいかなかった。

「うん。」

続けてしゃべることも苦しいに違いない。祖父は乱れそうになる絡んだ呼吸を必死に整えている。

「子供の頃になりたいと思う夢、学生の時分に描く将来、仕事についてから新たに目指す目標。今、治に目標が見つからないと言うのは、わしからしたらどこか甘えがあるんじゃないかと思う。」

「……。」

「夢や目標は作るものだ。どんな仕事だろうと、何年も勤めて次々に自分で作っていくものだ。」

ぜいぜいと、痰の絡んだ呼吸音がどんどん大きくなっていく。

「…うん。」

今の祖父は折れてしまいそうなほど弱弱しい。その声もまるで蚊が鳴くほどのもの。しかし、それは低く唸る暴風を無理矢理小屋に押し込めたようで。

肌が粟立つほど鬼気迫る声だった。

「治が自分でどうにかしようと必死に立つのは立派だと思う。しかし、立つだけで必死になって前を見られないのはいけない。治には、前を見て自分で目標を立てて実現しようとする努力が足りない。治の悩みの原因は知っている。だが、もうそろそろそれに寄りかかって、甘えるのは止めるべきだ。言い訳をやめろ。仕事をしろ。そして学べ。どんな仕事も、どんな人生も、年数を経て見えてくる側面がある。」

いつの間にか、祖母は祖父の背をさすっていた。俺が目を逸らすまいと必死に、真っ直ぐに見つめ返している視野の端で、静かに目を閉じたのが見えた。

「……負けまいと歯をくいしばるのも重要だが、時には力を抜いて友を頼れ。信用できる友達よりも、信頼できる友達を作れ。自分に向けているその強い力を、少しずつでも人に分けられるように心がけるんだ。」

長く長く息を吐いて三度。祖父はこわばらせていた体をゆっくりと弛緩させた。

「がんばれ、治。」

「……はい。」

「まったく、嫌ね。歳をとっちゃうと説教が好きになっちゃって。治、そろそろおじいちゃん休む時間だから」

「わかった。」

体が、妙にふわふわした。まるで座っていた椅子の上だけ重力が強かったようだ。立ち上がって、緩慢な動きで椅子を寄せる。

「トヨジぃ、……ありがとう。」

祖父はむぅと唸って咳払いをした。おじいちゃん照れちゃってねえ。なんてくつくつ祖母が笑う。

「また来るよ。」

「ありがとねえ、治。」

祖父の代わりに祖母が返事を返した。凸凹というか、阿吽というか、祖父と祖母は素敵な組み合わせだと思う。

最後に祖父のマッサージをしていた看護師に挨拶をして、そして病院を後にした。


夜になり、そういえば夜勤を休む必要はなかったと思いながら、ぼんやりと街を歩いていた。眠れなかった。夜だからって家に篭っているのがもどかしくて。

昼間の祖父の言葉は鋭く俺に突き刺さり、繰り返し遠雷のように耳に響いていた。

「甘えるな。言い訳をやめろ。仕事をしろ。学べ。」

銀の砂子を山と盛った白銀の器が、ぽつんと空に浮いている。まだ暑いっていうのに、まるで冬のように月がくっきり良く見えた。

「信頼できる友を作れ。」

あの言葉は、どれも重たい言葉だった。

思い起こすなら、それに比べて俺を護っていた殻のどれだけ薄っぺらなことか。

あの親父への憎悪は、自分を諦めるためにこれ以上無いほど、甘く優しい憎悪だったことか。

「あぁ、クソ。」

月が綺麗過ぎて、涙が出そうだ。

俺は、親父のせいで今まで何を取り落としてきたんだろう。

俺は、俺のせいで一体どれほどのものを見落としてきたんだろう。

自己嫌悪に陥るのは安易なことだと思った。自分を不幸な人間にして、かわいそうな人間にして、諦めるのはたやすい。

「がんばれ、治。」

短い励ましだった。

「がんばれ」

祖父のたった四文字のコトバ。たまらず、涙が出てきた。マズイと思い脇道にそれて小さな公園に転がり込んだ。

視界が歪む。必死に視界を確保してベンチに座った。

――昔のことを覚えていない。とても痛かったこととか、衝撃的だったことだけ、無人島のように記憶に浮いている。残りはただそれだけ。何時消えるのかもわからない。

でもそれを悲嘆するのは馬鹿馬鹿しく思えた。

気付かないフリをしていた。

親父を憎んで、心底絶望して、親父に似ていると思った自分を憎んだ。幸せになる資格なんてないと思っていた。夢を見るのも筋違いだと思っていた。

死んでしまえばいいと思っていた。

でも、いくら思い出そうとしても思い出せないじゃないか。

「クソ、馬鹿だな……俺。」

一人で暮らしていくうちに、憎い親父の顔をもう思い出さなくなったじゃないか。

堰をきったように涙が出た。

そうだ。憎んでいたのは、親父に似ていると思い込んだ、鏡に映る自分の顔だった。

もう俺を縛り付けていたものも、風化しつつあるじゃないか。

鯱張っていた力が抜け、体に染み付いたべたべたの毒が抜けていく気がした。

日付は随分前に変わった。丑三つ時にはだいぶ早いけれど、虫の騒がしい鳴き声は聞こえてこない。

しばらくして、やっと胸を突き上げられるような衝動が引いてきた。

同時に、視線を感じて顔を上げる。

目の前には女の子が一人立っていた。みたところ、一つか二つ年下の世代だった。


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