第六話
とっさに、返事が出来なくて息が詰まった。
「ごめん。心配かけちゃったみたいでさ。」
「なんで…。」
少なくとも、裕子さんは俺のような場所まで落ちちゃいけない女性のはずなんだ。死ぬだの死なないだの、そんなことを考えちゃいけない人のはずなんだ。
「別にね、自殺しようとかじゃなくって。たださ、落ち着くの。」
『落ち着く』
体が震えた。
自分が嫌いで、延々と自分を責めて、自分を呪って、自分を拒絶して。自分を傷つけて、それで落ち着く感覚。
はたと一人で振り返ったとき、酷く身近にその感覚がある。吐き気がするくらい、俺にも分かる。
「錆びて、切れないような剃刀で引っ掻いてるだけだから、自殺とかそういうんじゃないの。本当に。」
――だから、安心して。とでも言いたいのか。
「ふざけ、ないでください。自分を傷つけて落ち着くなんて。」
そう、そんなのは自殺と同じだ。
自分を傷つけて、血を見て、自分が自分を否定し、殺したことに安堵を覚えている。
眉根をひそめて、裕子さんは言葉を選んでいた。ぽつり、ぽつりと言葉を繋ぐ。
「ふざけてなんて無い。だって……正義に、婚約者がいてさ。」
心が、松沢さんに残っているから。
「もう私が付き合い始めたときにはいてさ。」
だから、それでも松沢さんを正当化したいなんて事を考えるから。
「きっと、正義は遊びとか冗談で私に声をかけたら、私が勝手に好きになっちゃってさ。」
たった今、彼女が口にしているこの言葉すら、錆び付いて余計に良く切れる剃刀だった。
「だから私が悪いから…」
「違う!!」
とっさに体が動いた。裕子さんの双肩を、つかんでいた。
「治、…痛い、よ。」
裕子さんは苦痛に顔をゆがめ、顔を伏せて目をそらす。
あの日のデジャヴをみているようだ。
「こっちを見てくださいよ。」
頭の隅で、冷めた考えが浮かぶ。
一体俺に何を言う資格がある。俺だって死にたがりだろ。雄一の真似しているだけだろ。
「……痛いよ治。ごめん、怒らせてごめんね。…だから放して。」
所詮、眩しい雄一のようになってみたいだけだろ。迷惑だろ。わかってるはずだ。俺だってあの時雄一をつっぱねたじゃないか。
肩をつかむ手を緩められなかった。
自分の中を覗き込んでも、裕子さんを救えそうな言葉が見つけられなかった。裕子さんが言うところの『怒り』があるとするなら、自分の無力に対する怒りだった。
「松沢さんが裕子さんを口説いたんじゃないですか!婚約者がいるのに黙っていたんじゃないですか。悪いのはあっちじゃないですか!」
ここに来て悪人探しか?なんて馬鹿。違うだろ。
「……正義を悪く言わないで。」
「嫌です。じゃあ、こっちを見て言ってください。その言葉が本気なら、本当に自分が悪いって思ってるなら俺を見て言ってくださいよ!」
本当は、もっとちゃんと励ましたかった。
――松沢さんへの嫉妬か。
本当は、裕子さんを抱きしめたかった。
まるで親父が拳を振り上げているときのように、女々しくて情けないことに体がびびっていた。
「俺、裕子さんが…」
何時だって、まどろみの泥沼の中を歩いているようだった。どこまでも続く真っ暗なトンネルだ。すべてがどうでも良くて、リアリティなんて無くて、自分を含めてすべてがくだらないと思ってた。俺を除くすべてがトンネルの外だった。
それは、家を出たって同じだった。
一人でずっと考えてたって、出口なんて無かった。じめじめと自分の殻の中で想いが回り、どんどんくすんでいくだけ。より粘着質をまし、どっぷりと自己嫌悪に浸る羽目になるだけだった。
独りじゃ、自分すら救えない俺を助けてくれたのは、他でもない裕子さんと雄一だった。
トンネルの壁をぶち抜いてきたのは彼女だった。
多分素でだろうけれど、何度も何度もリハビリのように声をかけてきた。つっけんどんな返事にすら。
何度も松沢さんのことを聞いていたから気付かないふりをしていたけれど。
「本当に、……心配なんです。」
言葉は剃刀だ。
「裕子さんのこと、親友だと思ってるから。」
嘘だ。ずっと本当に護りたいと思っていた。きっと、女性として、異性として、愛おしいと思っている。
――ここに来ての自虐か。
「全部背負い込んで、自分を傷つけて……心を殺している裕子さんを見たくなんてないです。」
裕子さんの心は、松沢さんに残っているから。
「彼を悪者に出来ないなら、自分を赦せないなら、俺が裕子さんを赦します。裕子さんは悪くないって、何度でも言えますから。」
きっと、俺の想いは重荷になるから。弱った気持ちで俺に寄りかかった自分のことを、いつか裕子さんはまた責めてしまう気がするから。
「だから、自分を責めないでください。」
岩みたいにギシギシいう指を、やっと裕子さんの肩からはずした。
裕子さんは手首の痕を見つめ、静かに、しばらく泣いた。ダイヤモンドか真珠か。そんな透明な涙だった。
再び、黙って並び歩いて五分ほどしたころ。
「ねえ、治。」
もうすぐ裕子さんの家が見えるというところで、口を開いたのはまた裕子さんだった。
「なんですか?」
「これから治んちに行ってもいいかなー。」
「駄目です。」
「すこし、お酒飲みたい気分なんだけど。」
「親父さんと飲んだらどうですか。」
自分でも驚くほど、冷たい投げやりな声が出たと思った。
「治と飲みたい。」
「俺は飲みたくないです。」
「つめたいなー。治ってば癒し系なのにー。」
「俺は癒し系なんかじゃない。俺に松沢さんを見てるなら、やめてください。」
「っ……」
「じゃあ俺帰…」
肩を引かれ体が開く。がちり、なんて音がした。
「痛ってぇ…」
「んっ、失敗したー。」
不意打ちで唇を合わされた勢いで、裕子さんと歯がぶつかった音だって、少し遅れて気がついた。
「何を…っ」
「ねえ、治。さっきさ、好きって言いそうになってたじゃない。」
口に血の味が広がった。唇が切れたらしい。つきり、と痛む。
「今晩、泊まりに行っちゃ駄目かな。一回だけでもいいからさっ。」
裕子さんはそんなことを、言った。
愕然とした。訳がわからなかった。さっきの涙はなんだったんだ。
「私さ、治のこと、好きだよ。」
だからそれは勘違いだろ。気が弱ってるから、そう思うだけだろ。
裕子さんの薄笑いと、赤い唇の生々しさが、酷くグロテスクに思えた。
「いい加減にしろよ!!何でわからねーんだ!」
さっき抑えたはずの激情が今更爆発したようだった。反面、裕子さんにどんだけ嫌われようと、悪罵を投げつけることで自傷行為を思いとどまるなら、それもいいかなんて冷めたことを考えた。
「不安だからって今度は俺を剃刀代わりにする気なんだろ!!ふざけんな!」
まるで、今にも薄ら笑いさえ浮かべそう目で、裕子さんは激怒する俺を見つめている。
「癒し系なんて自分でつくった嘘に踊って、自分を責めることが馬鹿馬鹿しいって何で分かってくれないんだよ!」
終わると思った。最後まで言えば、俺を救ってくれた絆は簡単に切れてしまうと思った。
「俺が好きだったのはそんな裕子さんじゃない!ウザいんだよ!!」
「…あはは、私のことなんてろくに知らないくせに…っ。」
「知らねえよ!そんなん知りたくもねえっ!全然魅力的じゃねえよ!」
「、彼女も居ない童貞の癖にっ……!」
「そんな歪んだ『好き』に付き合わなきゃならないなら童貞で充分だ。」
「アハハハハッ!強がってっ!ホントは勃たないんじゃないの!?インポヤロー!!」
「今のアンタじゃ勃つわけねえだろ!超ウゼぇ!」
ああ、これで終わりだな、なんて静かに思った。
「そんなことだからあんな男に騙されたんだ!いい加減目を覚ませよ!」
ぱぁん、という音。強烈なビンタをもらった。
頬が熱い。ただ、ささくれ立ったざらつく気持ちが、滑らかになっていく気がした。頬の痛みと反比例で茹だった頭の熱が引いていく。
全部、終わったんだ。
結局、俺と雄一はまったく違ったわけで、俺には裕子さんを救うことなんて出来なかったってだけ。
ふふ、なんて笑っちまった。
「あーあっ!!」
裕子さんは急に伸びをして、大声を上げた。
「治、たった今、癒し系剥奪だから。あー……綺麗にこれでもかってフられちゃったー。」
憑き物が落ちたような、予想外に爽やかな声だった。
「さっぱりしたー。」
裕子さんは踊るように、ステップを刻んで俺から離れる。
「残酷だよ、治は。癒し系なんかじゃない。」
その口調で分かった。裕子さんは―――
「………気付くの、おせーです。」
「ばぁか。治のばぁか。」
「わかってますよ、そんなん。でも裕子さんも、馬鹿みたいに不器用過ぎです。」
「…絶対後悔するから。あのウソツキ男も、治も。」
にこりと、小悪魔のように笑った。そう、裕子さんはその笑顔が魅力的だと思う。
「私、尋常じゃないほどいい女になっちゃうんだから。」
「……無理なほうに賭けます。」
「ばーか。でもね、治のザンコクなとこ、ホントに嫌いじゃないよ。」
ありがとね。やっと折り合いがつきそうだよ。
くるりと背を向けてから言った。裕子さんは手を振って、そのまま振り返らずに家に帰っていった。
始まってもいない、初恋の終わりだった。
「……嫌いじゃない、か。」
カラッポの声でふと、思い出した。さっき自分は雄一のように、なんて思っていたこと。
頭を掻いて、ため息を一つ。
「なんだそれ。雄一になりてーのか?俺は。……馬鹿か。」
鼻で笑い、足を家へと向けた。




