第十四話
春になって、お袋から、有理が熊木の後輩として看護学校に入学したことを聞いた。それをもって離婚の話をつけ、正式な流れで、お袋が実家に帰るということになったということで。
熊木はあれからも有理とはやり取りしてるようで、俺がなんとも言えない顔をするのを知っていて尚、何とか仲直りをさせようと有理の話をしてきた。
正直、今になってしまえばあのことについて腹を立てているというほどでもない。
有理は、そういう奴なんだってことはもう随分前からわかってるつもりだった。
俺は、親父が泊り込み当務の一日、前もって休みを取って車を飛ばして実家へ帰った。
お袋が富山の実家に帰ってしまうとなると、あの日家から持ち出さなかった私物を始末するなり、今のアパートに運び込まなきゃならない。
親父が建てた家、という意味での俺の実家に帰るのは、あの日追い出されて以来初めてだった。
趣味で音楽をやっていたお袋のグランドピアノも、多くの荷物も、めぼしいものは大概運んでしまったりまとめてしまったりしたようだ。
二年前の記憶よりも生活感が無い実家は、酷く広かった。
とりあえず、自分の私物を探しに二階の部屋へ向かう。壁に貼られたポスターも、机も、綺麗に掃除してあった。
お袋がいつも掃除してくれていたらしい。本棚に残していった小説も漫画も黄ばんでいない。陰干しまでしてくれていた。
結局荷物を見てみたら、コンポは有理が谷口の家に自分用に持って行っちまったとか、ベッドは持って行っちまったとか、それこそ本棚と本と、少しばかりの服以外は私物なんて残ってない。もっとも、姉貴の私物もそうらしい。
お袋が申し訳なさそうに謝ってきた。筋が違うだろうに。
とりあえずつめるものはすべて車に詰め込んだ。おんぼろの中古車はギッチギチに腹いっぱいで、帰りにパンクするんじゃないかって少し不安なくらいだ。
最後に自分の部屋の窓を開け放つ。
吹き込む一陣の風。
今でも懐かしい、固まっていた空気が全部ベランダの向こうに押し出されていった。
春の風は、ザンコクだと思う。
これで、この部屋はオレノヘヤじゃなくなった。
不必要、と判断した昔の教科書、細々とした小物を分別し、まとめてゴミにした。予想以上に時間を食って、お袋の車に積んでゴミ集積所に持って行き、帰ってきたら日は沈みかけていた。
「お疲れ様。」
端が少し欠けた、昔からある焦げ茶色の急須でお袋は緑茶を入れてくれた。
「お袋も……お疲れ。」
お袋は茶葉にはこだわらない。というか玉露を買ったこともないかもしれない。何とかブレンドとか、聞いたこと無い茶葉ばかり買ってくる。
一口、すすった。
……でも、なぜか毎回同じ味がする。
これもお袋の味だな、なんて、凍り付いていたノスタルジアにかられた。おかしなもんだと思う。
「有理のこと叱ったんだって?」
しんみりと空を眺めていた俺に、お袋は静かに囁いてきた。
「……。」
「熊木さんが止めてくれなかったら殴られていた、って文句を言っていたわ。怒られた、って。」
「…それは。」
「わかっているわ。怒ったんじゃなくって、叱ったんでしょう。……原因は離婚のこと?」
お袋は、ぼんやりしているけれど、それでもしっかりしているときはナイフのように鋭い。
「はい。」
お袋は、静かに一口お茶をすすった。
「…見て、茶柱が立ったわ。」
そして、ふふふ、なんてお袋は無邪気に笑った。
「有理は、治から見たらいい加減に見えるかもしれないわね。言い回しも誤解を与えやすい。でも、いろいろ考えているのよ。それに最近は本当に頑張っているわ。勉強も、部活も頑張っていた。時々浅慮なことをしてしまうけれどね。」
「はい。」
「私がどうだ、なんてことは気にしないでいいの。……でも、富山に帰ってしまうのは、少し心配。昔から、治は頑固だからね。有理のことを許せない時もあるでしょう?それに、有理も頑固だから悪いと思っても自分からは謝らない。」
お袋が言うことは、まるで熊木が俺に言うことそのままのようだ。
「はい。」
「有理はこれから一人暮らしするってアパートを借りたの。バイトもするらしいけれど、足りない分は谷口君が出してくれるって言っていたわ。谷口君がこっちに帰ってくる二年後まで、専門学校とバイトの二足の草鞋で、アパート一人暮らし。」
確かに、私も向こう見ずだって思うわ。治の苦労を知っているだろうに。なんてお袋はゆっくりと目を閉じた。
「治、有理のことを許してあげて。昔から、有理のことを厳しく見ているのは私も知っていたわ。でもね、私から見て、治はただ厳しくしているんじゃないってわかっているから。有理が我を通したら叱ってあげて、それから許してあげて頂戴。お願いよ。」
「わかった。有理のことは出来る限り許せるように努力する。」
「よかった。」
少し力が入っていたのか、ほぅと一息つくのと同時に、お袋の肩が下りた。
お袋は小さくなった。正月に会っていたけれど、こうしてゆっくり話をして痛感した。
二年は恐ろしく、長い。すべてが変化していくには充分すぎるほどに。
「…………お袋。」
「なぁに?」
「その……この間、昔のことを思い出したんだ。少し。」
お袋は急須に残っていたお茶を、俺と自分の茶碗に注いだ。そしてゆっくりとこっちを見返し、頷く。
「すげえ小さい頃にさ、離婚するって言ったお袋に、俺と姉貴で泣いて縋って、離婚しないでくれって泣いただろ?」
「そんなことも、あったわね。」
思い出したのか、お袋は、すいと目を細めた。
「俺さ、まだ迷惑も、心配もかけるかもしれないけど。……しっかり働いてるから。いつだったか、適当に生きてお袋より後に死ぬとか言って悲しませちまったけど、俺は今、生きていたいって言えるくらい幸せだって思えるから。」
お袋が手に持っていた茶碗の水面が、幽かに揺れているのが見えた。
「だから少しだけ、安心してくれていいからさ。これからは俺たちのためじゃなくて自分のために生きてくれよ。」
「はい……ありがとう、治。」
ゆっくりと、更に一口お茶をすする。そして一つ頷いた。
「そうね、あと一つの心配事といえば、熊木さんとのことかしら。有理が言うには仲良くやっているんでしょう?」
心配だわ。結婚はいつになるのかしら。呼んでくれるのかしら。お袋は小さく微笑んだ。
「あいつはそういうのとは違って…」
「治。」
今度は静かに、叱り付ける口調だった。
「そういうのとは違って、遊びだとでもいうの?今でも、本当にそういうつもりはまったくないの?」
「いや……俺は……」
お袋は、そんな俺を辛そうに見つめて、それから無理矢理笑って見せた。
「結婚は辛い事も多いけれど、幸せなことも沢山あるわ。私も、裕美と、あなたと、有理を産めた事を心底嬉しく思うわ。あなたたちが立派になってくれて、とても幸せ。」
私が言うと、いまいち信じられないかしら?
冗談めかして、お袋は付け足した。
「そんなはず、無いだろ。」
「付き合うのも怖いって思うのは、あの人みたいになって熊木さんを傷つけてしまうのが怖いからでしょう?大丈夫。その、熊木さんを大事にしたい心があれば、きっとうまくいくわ。」
お袋は微笑んだ。あぁ、この人には一生敵わないんだろうなあと、思う。
「でもね、そろそろちゃんとしてあげないと、熊木さんが可哀相だわ。きっと不安よ、彼女。」
「………まあ、適当にやるから、お袋はわざわざそこんとこは気にしなくていいって。」
「そう?うふふふ、じゃあ、好い加減にしておきなさいね。」
「大きなお世話だ。」
ふふふ、なんて、お袋は本当に楽しそうに最後に笑った。




