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第十三話

秋になって、お袋から連絡があった。正式に、親父と離婚を決めたらしいって。

以前から聞いていた話だったから、それほど衝撃は無かった。ああ、やっと離婚して落ち着けるようになったんだな、と思っていた。

でも、そのメールが来て次に有理がうちに来たときにその話をしたら、有理のやつ。

「私がミッチーにお金出してもらって一人暮らしするから、早く離婚してよってお願いしたの。」

悪びれる様子もなく、笑いながらそういった。

「ほら、ママ私たちが落ち着いたら離婚するって言ってたから。いつまでもくっついてるとさ、私からしてもヤなんだよね。ミッチーのママさん達もオヤジと早く縁をきった方がいいって言ってるし。」

横隔膜の辺りに、真っ黒な、熱い何かがとぐろを巻いた気がした。

俺だって離婚してお袋がDVから解放されるのは大賛成だ。出来る限り手伝いをしたいと思っているし、引越しとかに入り用な金額ならある程度出したっていいと思っている。

でも、有理がそれを笑いながら言い放つのが、たまらなく腹立たしかった。

後頭部の皮一枚下に、目から入った光が当たってフラッシュバックみたいに昔を思い出した。

この感覚は初めてで、それはてっきりもう二度と思い出すことなんて出来ないと思っていたような、無かったことになっている昔の思い出だった。

幼稚園か、小学生の低学年か。親父が俺に暴力をふるっているのにお袋が怒り狂い、幼い俺と姉貴と、有理を三人引き取って離婚しますと叫んでいる思い出だ。後にも先にも、天然のお袋が声を張り上げて激怒したのはこれしかない気がする。

感光してフィルム焼けしたみたいに、白くぼやけた光景だった。

それにはまだ続きがある。

俺と姉貴は、激怒するお袋にしがみついて泣き、震えながら離婚しないでって頼み込んでいた。有理はそれこそ小さいから、よく意味がわからずにただ泣いていた。

俺たちだって有理と違いは無くて、よく意味もわかってなかった。

ただ、リコンという言葉が不吉な何かで、自分の状況も把握しきれない子供の俺たちに降りかかっている現在の苦痛よりも、リコンが全部を持っていってしまいそうな、もっと不吉で恐ろしい何かを持ってきそうな気がしたんだった。

ただその本能的な恐怖だけで、お袋の足に必死にしがみついて泣き喚いた。

お袋は三人を抱きしめて、頭を撫でて、そして泣いた。

そうだ。それ以降、お袋からは離婚の話をしなくなった。それこそ俺がある程度の歳になってからは、痣だらけの俺に愚痴のようにこぼす事はあっても、俺たちが成人するまではと頑張ってきたんだ。

――有理、お前は、それを、嗤うのか。

思い出が視界を支配して目の前が白く染まった瞬間、とっさに手を出していた。

ぱん、なんて笑っていた有理の頬を張っていた。

「な、なにすんだよ!!」

咄嗟の事にしばらくあっけに取られてから、有理は立ち上がって猛然と蹴りかかってきた。聞き取れないような、呪いの様な罵詈雑言をひたすら投げつけてきながら。

「利用するだけ利用して、テメェがそれを言うんじゃねえ!!」

例えそれを覚えていなくたって、お前はお袋の苦労を見てきているはずだろが。

有理はあっという間に俺の胸元へもぐりこんで、駄々っ子のように殴り、蹴りかかってくる。よくもまあ、そんなに悪罵を吐けるもんだと冷たく思いながら、もう一度腕を振り上げ…熊木の静止の金切り声で拳を緩めた。

「出ていけ。」

「言われなくても二度と来ねーよ!死ね!」

有理は転がっていた荷物をかき集めた。そして。

「すぐに手を出しやがって!オヤジそっくりなんだよ!!」

吐き捨て、出て行った。

「………なんで、急に…」

熊木の震える声に「知るか。クソ…」と一人愚痴た。

有理に蹴られた場所は痛くなかった。でも、あの叩き伏せられた冬を思い出すほどに、やたらと熱かった。


仕事についてからの一年は本当にあっという間だった。

また年が明けて二週間ほどしてから、去年のように祖父母に挨拶に向かい、少し落ち着くのはそれからだった。

去年と比べて寒い冬だったけど、それでも雪は降らなかった。ただ雨なんかが降ると早朝に道路が凍結して、傾斜の急な坂の上にある物件に行くために車を降りて十分近く歩くとか、そんなのが多かった。白い息を吐きながら、こんなにタイムラグがあると泥棒なんてとうに逃げちまうだろ、なんていつも思った。

これで雪が降ったら一体どうなることやら。


そうこうして一月も末の頃に、綺麗な封筒が一通届いた。

開くと、ここしばらく忙しくて疎遠になっていた雄一からの招待状だった。

同封されていた手紙には、雄一が目標にしていたプロダクションに合格したことと、卒業公演をやるからみんなで来てほしい、とあった。

なんでも、実力が評価されて三人の主役の一つをもらえたとか。

「凄いね雄一さん。行くんでしょ?」

「ああ。休みとっておく。」

肩越しに覗き込んでいた熊木は歓声をあげた。養成学校とはいえミュージカルのような劇を観るのは初めてだって。俺だってそうだった。

公演は二月の第二週、土曜日だった。開演は十時。

理由はないけど……。池袋なんてすぐなんだから、出来るだけギリギリに行ってやろうかと思っていた。

でも、六時に起き上がった熊木が遠足にいく子供みたいにどたんばたん暴れまわる音がうるさすぎて、結局七時には起きる羽目になった。

おちつけと、文句の一つも言おうかと思ったけど、弁当一式まで準備していつ出発するのか目を輝かせている熊木を見て、やめた。

俺が起きてやっと着替えが済んだ頃、やあやあとこれまたテンションの高い裕子さんが来た。もうすぐにでも出ようと、二人して騒ぎ出した。うるさい事この上なくて、結局自分の中で立てていた時間より一時間半ほど早く家を出る羽目になっちまった。

一時間半ほどの公演を、昼を挟み二度するらしい。

同じ公演を二度する理由は、劇に選出された二十五人のなかでもとりわけ実力がある数人を主役に回すためらしい。

パンフレットにある簡単なストーリー説明によると、歌手を目指す幸音さちねと出会い、幸音によっておおよそ無理矢理そのオーディションに付き合うようにされた二人の青年の話らしい。図書館司書を目指す順平と、図書館に良く通う少し変わった喜一。

「さっちん、主役の女の子も幸音っていうんだって。」

「うん、これは運命を感じるね。」

「原島君は第二部の順平役だってさー。第一部だとオーディションを受けた人、Cの役で、歌を歌うみたい。」

「こっちも楽しみだね。」

きゃいきゃいと二人ははしゃいでいる。俺は、というと素直に祝福したいし、作品を楽しもうと思っている反面、少しだけ見に行くのを躊躇う気持ちがあった。

「でもさ、原嶋君お調子者なところあるから、喜一の方がはまり役じゃないって思う。」

「ああ、それは少し。」

「……だから敢えて順平役にしたんだってさ、演出が。」

「へぇー、じゃあ高く評価されてるんだね。」

「原嶋君凄いねー。」

「…そうだな。」

「元気ないけど、どうしたの治ちゃん?調子でも悪い?」

後部座席で裕子さんと騒いでいた熊木がひょこりと顔を出した。ビーバーとか、そういう動物をふと思い出すしぐさだ。

「なんでもない。」

「ん、そっか。」

一度俺に笑いかけ、ひょいと首を引っ込める。また裕子さんと熊木はわいわい騒ぎ出した。

そうこうするうちに目的地に着いた。雄一のところの養成学校で借り切っている会館はちょっとしたお祭りみたいになっていた。一回の広場ではいろんなものが売っていた。三人で話をして、一つ手ごろな花束を買った。

招待状を受付に見せると、一般客よりも少し早めに入ることが出来た。一般入場よりも三十分ほど余裕があるから、控え室の方へと足を向ける。

達筆な筆文字で、一文字五十センチくらいの、控え室、と掲げられた部屋の前には職員らしき人が立っていた。一直線に三十メートルほど続く控え室前廊下には、びっしりと花が届いていた。

「ちょっと花束小さくないか?」

「大きさはともかく、気持ち的には負けてないし。てか勝ってるし。」

けらけらと熊木は笑った。イーコト言った!なんて裕子さんも。

職員に話をしたら、案の定控え室には入れてくれないということらしい。二十五人の出演者全員の関係者が入ったら、公演前にパニックになるからだ。

「じゃあ、この花束を原嶋雄一と、出演者のみんなに。」

職員と二、三の掛け合いをして戻ろうかとしたとき、タイミングよく共用トイレに出てきた雄一と、ばったり会った。自分で呼んどいて雄一のやつ、それこそ鳩が豆鉄砲食らったようなきょとん顔だった。

「なんだよ妙な顔して。」

「いや、治のことだからギリギリに来るんじゃないかって思ってたんさ。」

「…そのつもりだったんだけど、熊木がな。」

苦笑いし首をかしげた俺を、そして熊木を見つめて、あははははと雄一は盛大に笑った。

「熊木ちゃんはホントにいいコだな。偏屈な治にぴったりだと思うぜ。」

似つかわしくないことこの上なく、気障にぱちりとウインクして笑ってみせる。熊木は小さく笑った。

「きもいぞ。それに、そんなんじゃねーし。」

「全くお前は…」

雄一がトーンを落とした、そのタイミングで控え室から顔を出した演者の一人が雄一を呼ぶ声。ああ今行く、と返事を返して雄一は頭を掻いた。

「まあ、いいか。……とにかくさ、精一杯やるから楽しんでくれよ。」

「ああ、期待してる。」

直角に腕を曲げ、出征前の敬礼のようなしぐさをしてから、雄一は走っていった。


ステージが開放されると、熊木は一目散に走っていった。職員が鋭い視線でもって走らないでくださいと、もはや影も残さぬ熊木にじゃなくて、取り残された俺と裕子さんに言ってきた。

観客席を探すと、熊木はど真ん中の最前線の席を三つキープして、してやったり顔だった。探す俺たちに大きく手を振ってみせる。後ろからどんどん入ってくる他の客のことなんて意に介さずに、これでもかと大きく盛大に。

「とりあえず恥ずかしいからやめろ。」

「まあまあ、さっちんも嬉しいんだよー。席取りでかしたさっちん!」

びしぃなんて親指を立てる裕子さん。

「はい、でかしちゃいました。」

受けて敬礼する熊木。

ちょっと待ってくれ、すぐ後ろの席までぎっしりと観客がいるんだ。最前線に立ちっぱなしで何をやってるんだよ。

「……とりあえず、座りなって二人とも。」

俺は隠れるように、椅子に横に座る勢いで、もたれかかった。二人は興奮冷めやらない様子で。でも、後ろからの視線をぐるりと見渡し小さくなって座った。


五分ほどして開演のベルが鳴った。

まずはじめは全員そろってのダンスと挨拶からだった。専用のシューズをはいているらしい。最前列だから尚更か、一人ひとりの歌声が、ダンスタップの音が、固まりになって体にぶつかってくるような感覚。

ステージからもれるライトアップの熱もあって、どこか初々しさが見て取れたものの、首筋がぞくぞくするほどの演技だった。

簡単な流れはパンフレットにあったとおり。第一場面が図書館。第二場面はオーディション会場。第三場面は空になった会場跡。

幸音が歌オーディションのトリの順番で、実際に幸音の前の演者はそれぞれが自分で選んだ曲を披露した。順平たちは第二場面では観客という立場だ。

合間にオーディション側の不都合があって鬼ディレクターが技術や司会進行のコンビに檄を飛ばしたりする。

最後の幸音の歌う時になって停電という一番のアクシデントに見舞われるものの、幸音は停電で使えないマイクではなくてアカペラで歌う、という話だ。

身内の贔屓目、じゃ無いけど、やっぱり雄一の歌は参加者の中で一、二を争う程巧く聞こえたし…第二公演では順平の声は通っていたし、それに心がこもっている様に見えた。

俺は、無意識に、苦笑していた。

雄一は、いつだって隣にいた。胸を張っていえる、信頼できる無二の友人だ。口にはとても出せないけど、あいつが言ったように、俺も雄一を親友だと思ってる。

出演者は舞台栄えする分厚い化粧をしているらしい。最前席から見ていると、やや伏せ顔に影がかかったときに奇妙なほど表情が浮き上がって見えた。

舞台役者には皆、ターンをするたびにきらりと軌跡を残すような、新鮮な華があった。伸ばして回転する腕がどこまでも伸びていって、舞台を撫ぜ回るように見える。

――いうなれば、知っている雄一との違和感と、羨望と、ちっぽけな嫉妬。

大団円の締めのダンス。雄一のシングルパート。

「この男の子は良い声を出すなぁ。」

どこからか、そんな呟きが聞こえた気がした。

苦笑は自分の馬鹿さに、だ。

雄一は一直線に目標に向かっている。それは昔からのこと。

足下ばかり見て、立ち止まって、ちっぽけに必死に自分を守ろうとしていた俺が真っ直ぐに雄一を見ることが出来たのは、その眩しさがあったからだ。素直に雄一を尊敬して、応援したいと思ったからだ。

舞台の雄一は、生き生きしていた。

『あの、マイクを使わないで歌っていたときに、体に歌が入ってくる気がしたの。』

舞台の幸音のセリフ。

幸音はオーディションに落ちてしまう。でも彼女は、悔しいと泣きながらも自分の成長を実感していた。

きっと、雄一も幸音と同じ感覚なんじゃないだろうか。

きっと、雄一は今、楽しくて仕方ないに違いない、と思った。だって雄一の奴、役を演じているって言うよりも喜びを体現してるって感じだった。

舞台の上にずらりと、二十五人が列を作る。手を繋いで、曲の最後のリズムに合わせていっせいに礼をした。

――嫉妬なんてお門違いだ。馬鹿だな。

隣の熊木が、ぽんと肩を叩いてきて…咄嗟に、立ち上がってしまった。

俺が雄一に並ぶのはここじゃない。ここで上を向く雄一に並ぶために俺がしなきゃならないのは―――

拍手をした。それこそ掌から火花が出るんじゃないかってくらい目一杯の拍手を。

――しなきゃならないのは、心からの祝福と、その背中を押してやることだ。雄一が要らない心配をしないように俺が俺自身の場所で精一杯働くことだ。

一人二人と周囲の観客が立ち上がっていくのがわかる。霧雨から一瞬でスコールとなったスタンディングオベーションの中、最後に代表の演者の挨拶があり、幕がゆっくりとおりた。

観客席のライトアップ後すぐに三人で控え室に駆けていった。走らないでくださいっていう職員の言葉を後ろ髪に聞いて、三人で顔を見合わせて苦笑した。

雄一に、感謝と祝福と、これからのプロダクションでの応援をしたかった。

いざたどり着いた控え室の前では、演者たちが講師を中心に輪になって万歳三唱をしていた。それが終わると、女の子数人が感極まって泣き出して、お互いに抱き合っていた。

「……帰ろう。」

その鮮やかな感動を、俺たちが祝福の言葉で色褪せさせてしまうわけにはいかない。

今になって思えば、彼らの様に眩しい涙が溢れるほど熱心に、中学高校と過ごしてこなかったのが寂しく思えた。

「雄一には後でお礼を言えば良いや。邪魔するのは野暮だ。」

「そうだねー。」

「そだね。きっと打ち上げするだろうし。」

二人も、少し残念そうに、そして俺と同じように眩しそうに目を細めて雄一たちを見つめていた。

「美味しいものでも食べて、帰ろう。」

二人は一転、やったーなんて万歳三唱した。周囲の冷たい忌諱の視線を浴び、首をすくめて、びっくりするほど現金だなあと少し呆れた。



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