第十二話
春。
熊木が念願の看護学校に受かった。何かと問題は多かったらしいものの、どうしたのかとたずねると「何とかなったし、まあいいでしょ。」としか言わない。
ふと、俺は熊木のことを何も知らないじゃないかと思った。
知っているのは、熊木が家出をするに至った経緯だけだ。ふと、ついこの間祖父に詰問されて困ったのを思い出した。
そんな俺の顔を見て、熊木は苦笑した。
入学金で二十万円ほど。年間で百万円弱だなんて言っていた。わかっていたけど今まで貯めたお金の大部分を持っていかれちゃった、と。
でも、すぐに嬉しさに綺麗に破顔しなおす。
「治ちゃんにお世話にならなかったら、五年くらいお金貯めなきゃだったよ。ホントにありがとね。」
「別に。」
昔から素直に感謝とかされるのがいまいちむず痒くて苦手だ。
適当に切り返したら、なんだかわかったようにくつくつと熊木は笑った。
「何笑ってんだよ。」
「べっつにぃ。」
……苦手な空気だ。
――貯金をほとんど使っちゃった…って。頼られたってこと、か。
……別に、嫌ではないけど。
まあ、熊木から話さないなら、わざわざ根掘り葉掘り聞かなくてもいいか、なんて思った。
看護学校の教科書は異常に多かった。横幅三十センチ、奥行き二十センチの三段本棚がほぼ埋まるくらいの量だ。一年目、二年目には学科的なものをぎっしりとこなして、三年目は実技的なものを習得するらしい。教科書を買いについていき、それを運ぶ役になった俺は、舐めていた分その量にずいぶんと驚かされた。
勉強の内容も複雑だったらしいけれど、話を聞く限り学校は楽しそうだったし、なにより生き生きと目を輝かす熊木を見ているだけで、安心できた。
このころから、有理までうちに上がりこんでくるようになった。このときになってやっと知ったことだけど、有理も看護師になりたいらしい。
今の彼氏が今年から自衛隊に入隊した俺の一つ年下で、そのお袋さんが看護師として働いているらしい。
結婚を考えているとかいい、向こうの家に何度もお世話になったとか。親父がお袋に当たるのをみて、自分はそれを口実に彼の実家に転がり込んでいるってだけみたいだけれど。
有理の彼氏、谷口 宏道のお袋さんと親父さんは有理のことを気に入ったらしくて、よくしてくれるとか、どうとか。
今のうちから、看護学校に受かりさえすれば、谷口のお袋さんの病院の援助で学費を免除してくれるとか何とか、そんな話をしているらしい。
それでこの前の、正月の一件以来メールのやり取りなどをし始めたらしい熊木と有理は、いつの間にか仲良くなっていた。
熊木が看護学校に入学したのをキッカケに暇さえあれば看護学校の話や何かでうちに上がりこんでくる。
熊木は熊木で、口が軽い有理からいろいろなことを聞いたらしくて……ずいぶん、有理の頭と口の軽さには嫌気がさした。
熊木経由で実家の惨状が俺の耳に入ってくるのが、たまらなく耐え難かった。
卒業から二度目の夏になった。
初めはハードな看護学校のスケジュールについていくのがやっとだった熊木にも余裕が出来てきたらしい。バイトも安定して組んでいるようだし。
休みがあったときなんかに、何度か、みんなで車を飛ばして海やディズニーランドなんかに遊びに行った。
この頃になると、雄一はあまりあがりこんでこなくなった。
二年間の養成学校の卒業公演に向けての訓練だとかでいろいろなところを駆けずり回っていた。プロダクションの面接や試験も何度も受けに行っていたらしい。
養成学校の講師の一人、名前は忘れたけど火曜サスペンスみたいな番組の中堅俳優に酷く気に入られたらしくて、それに順当に実力をつけることが出来ているらしくて、本当にたまに顔を合わせると随分と印象がコロコロとかわった。
俺の知っている雄一は変態で変人だった。
それが、その方向性に自信を持った変態な変人にドンドン進化していきやがる。
応援したいのは山々なものの、どうにも、違和感が強くなるようだった。
嫉妬というにはあっさりしている。なんとも説明のつけがたい、凡庸な俺と離れていく雄一の違いへの焦燥だった。
一年目の夏と違って比較的涼しい夏だった。
熊木は俺以上に暑さに強い性質で、別段扇風機があれば充分だというやつだったし、俺もあえて今年は空調を買わなくてもいいかと、団扇片手に過ごした夏の終わり。
いよいよ具体的に有理の進路の話が固まってきたらしい。
俺の中じゃ、昔から勉強とかないがしろで、いつも十段階で四とか三をとっていた記憶しかない。そんな有理が果たして現役で看護学校に受かることが出来るのか、はなはだ疑問だった。
しかも、この夏の時期になると行軍があるとか、どこかの駐屯所に行くとかで谷口が遊んでくれないと、しょっちゅう喧嘩をしているようだった。
有理自体、酒飲みにはやはり苦手意識があるらしくて、自衛隊の先輩にしょっちゅう連れ出されてベロベロに酔って帰る谷口に不信感を募らせることも多かったらしい。
うちに来るたびに、愚痴ばかりをこぼしていた。
高校でも続けていた柔道部の関係者で、整体方向の資格を持つおじさんがいたらしく、有理はそっちの派生方向から看護師の資格取得の誘いを受けていたらしい。
けれど、谷口のお袋さんのほうの誘いを断ると谷口との関係にあまりよくないんじゃないかと、蹴ったんだと俺に笑いながら言った。
単純にどうしたいとか、どっちが楽しそうだとか、楽そうだとか、そんな基準で自分の身の振り方を考えるところはまったく変わっていない。
やはり、そういう甘さが、どうしても好きになれなかった。
熊木はなんだかそういう俺の様子をどこかで察していたのか、俺の有理の間に入っているように思えた。
事実、有理の愚痴は、大半を熊木が聞いて、その中で近況はどうだとかいう情報を間接的に俺に話していた節がある。悪いことをしたと、いつも思っていた。
俺は、それこそドライに有理の現状を見ていた。
たとえば俺が、そういう時はどうした方がいいだろうと口出しをすると。
「うるせーよ。自分の好き放題やってきてる兄貴にとやかく言われたくないって。」
そう、返事をして一切耳を貸さないやつだったから、尚更だ。
この頃は、たまに無理矢理引っ張ってこられた谷口と、我が家で夕飯を食べたりした。
積極的にセッティングしたのは熊木で、単に料理することが好きな俺に腕を震わせるためだとか言って。
いくらなんでも、完全に無視をするわけにもいかないから、なんだか娘の彼を迎え入れるようななんとも居心地の悪い食卓の場を提供する羽目に、何度もなった。
自衛隊員として、五厘刈りの薄ら青い坊主頭。右耳は熱で変形している。もともと有理とも柔道部で知り合ったらしいから、寝技のときに激しく畳に擦り付けたんだろう。
変形こそしなかったけど、俺にも経験はある。治療に耳の軟骨に直接注射をうつのはすげえ痛かった。
目は切れ長の釣り目で本当に細い。頬骨が出張った顔立ち。格闘家として厳しい鍛錬をして、顔をシャープにした雄一のようにも見える。
悪く言えば、それほど器量良しではなくて、やや人相は悪い。
ディフェンスが苦手なボクサーが試合後に顔を腫れさせたような感じだ。
こっちからいろいろとぎこちなく話しかけるものの、なんだか人見知りをするように曖昧な返事ばかりが返ってきた。
間接的にとはいえ、あまりよくない話ばかり耳に入るせいで、どうにも印象は悪い。話は進まない。
「谷口君、なんだか治ちゃんのこと怖がってたよ。観察されて緊張したんじゃない?」
解散した後、熊木は笑った。少し責めるような声だった。
「治ちゃんってば、ガンコオヤヂって感じだったし。」
「俺は人見知りするんだよ。それに、有理の愚痴ばっか聞いてるからどうにも。」
「初対面で家に私を呼んだのに?」
「……変人は別なんだよ。」
「酷いねー。私も有理ちゃんに愚痴っちゃおうかな。」
熊木は逃げるように居間に。そしてぱたぱたとせわしなく食器を持ってくる。台所で洗い物をするのは料理を作った俺の役目だった。
「好きにすればいいだろ。」
思った以上に投げ捨てるような声が出た。熊木は「まったく。」なんて口を尖らせて俺の肩を叩いた。
「たとえば洗濯物を洗濯籠に入れないとか、本を読んでると私が話しかけても気付かないとかさ、折角つくったピーマンの肉詰めのピーマン残すとか、そういう愚痴って女の子は誰でもいうよ。」
「どさくさでそういう事言うか。へえ、そうかい。」
「怒らないでよ。だーからさ、有理ちゃんの愚痴って、聞いてるこっちがアチチチチってなるし。もう少し谷口君と有理ちゃんのこと、優しく見てあげたら?」
「別に厳しく見てるつもりは無いけど。」
「けど、優しくも見てあげられない?」
熊木は困ったように、柳眉をゆがめた。
「お前が気を使う問題じゃないよ。」
「そういうわけにも、いかないでしょ。」
いつからか、熊木は俺の先回りをするようになった気がする。
自分でも、わかってるはずだった。でも、いつだって俺は一つずつ納得して落ち着けないと、折り合いをつけられない性分なんだろうと思う。
おざなりと、広く浅く上手いことやっていこうとお気楽な有理のことは、今ひとつ心情的に許せない部分があるのは、昔からだ。
「有理ちゃんもさ、一生懸命やってるよ?勉強はもちろん、この間なんか体力測定で女子の部、学年総合一位だったんだって。」
「へぇ。」
傍らで沸かしていた薬缶の湯が沸騰して、ピイピイわめく。熊木が止めて、紅茶を入れた。
「文武両道ってさ、凄く大変だよ。見えにくいけど、有理ちゃんは頑張ってるんだと思う。」
そこまで言って、今日は観たい映画がやるんだと、熊木は紅茶をテーブルにならべてテレビをつけた。
「ねえ、ほら。今日はジャッキーの酔拳だよ?こっち座ってゆっくり観ようよ。」
熊木は猫の刺繍が入った座布団を引き寄せて、ぽんぽんと叩く。
「……わかったよ。」
水周りを綺麗にしてから、エプロンを脱いだ。座ると、ジャッキー扮する青年の厳しく頑固な父親が、薬を処方しているシーンだった。




