5-2 晩夏月/更待
最初にウィリディスがしたことは、東領の大使館に行くことだった。泡を食って受付まで駆けてきた狸たちにぺこりと頭を下げる。
「この度は過分な報酬をいただき恐縮です。御礼不要とのことでしたが、額が額ですので、こうして直接参りました次第です」
「いえいえいえ滅相もない」
「ウィリディス様が成し遂げたことにはてんで及ばぬ額でございますゆえ」
「いいえ」
私は何もしておりません、と、ウィリディスは緩やかに首を振った。
「全ては彼の、東領の〝神の小鳥〟の強い意志が引き寄せたもの。私如きなど、わずかな手助けに過ぎません」
そして、受付台の上に恭しくそれを置く。
「ゆえにこれは、この全ては、彼の旅路のために使っていただけませんか」
キンキンと甲高い音が袋の中から零れ出る。狸たちがひゅ、と息を呑んだところに、たたみかける。
「これがあれば、彼はより安全に、より確実に、彼が望む地へと辿り着けるはずです」
アウランティウムの辿るであろうルートは、恐らくトゥーマから東のニトウカへ抜け、南下してクントの北側の入口の一つ、グゥマに入るもの。グゥマの後は更に南のサクマへと下るか、それとも東のトギイに行くか。
彼らと離れて十四日ほど経っている。おそらく今頃は、もうグゥマだ。
「彼のことです、おそらくこれからサクマに向かうのでしょう。何があっても良いように、備えは万全でなければ」
「いや、トギイに向かうようだとニトウカで会った者から」
それは、咄嗟の訂正だったのだろう。口を滑らせたことにも気づかない狸たちに、ウィリディスは口の端を持ち上げた。
「それは少し安堵しました。ならば、こちらをどうぞ、お届けください」
翡翠色の髪を揺らし、緩やかにお辞儀をする。
「どうか彼の旅路が、優しいものになりますよう。――失礼します」
狐にでも抓まれたような顔の狸たちを尻目に、ウィリディスの背は扉の向こうに消えていった。
その背中が呼び止められたのは、大使館から続く坂道をしばらく登った頃だった。一拍呼吸を整えてから振り返ると、まだ年若いレッサーパンダの女性が、大使館のバッヂを胸に息を整えていた。
「ウィリディス殿、これを」
小さな手で差し出されたのは、先ほどウィリディスが置いていった金板入りの袋。
「……先ほど、お返ししたはずですが」
「いえ、そうではなくて」
少しだけ口ごもり、そっと大使館を振り返ると、その女性はもう一歩、半人獣へと踏み出した。
「これを、東領の〝神の小鳥〟様へ届けていただけませんか」
「……私が?」
薄金色の瞳を瞬かせて、思わず問い返す。はい、と頷いた勢いそのままに、彼女はまた一歩近づく。
「駐央大使の皆さんが、このお金は大使館から出したものだから、あなたがいらないのなら大使館に戻しても問題ないって。私、どうしても納得がいかなくて」
「黙って持ってきたのですか」
「だって、これは〝神の小鳥〟様のものです。あなたが先ほど、そう明言されました」
それなのに、と袋を握りしめて訴える。
「皆さん言うんです。もうすぐ必要なくなるからって。何のことだかわかりませんが、このお金を渡しても足りないくらいのことを、東領のためにされるのでしょう? それなら、例え〝神の小鳥〟様の旅が終わっても、あげたっておかしくはないじゃないですか」
だから、あなたが。
「半人獣でありながら〝神の小鳥〟様に信頼されていたというあなたに、届けて欲しいのです」
こういう仕事もされるのでしょう、と、ウィリディスの胸ほどの位置に、袋が差し出される。そのまま、ウィリディスとさほど年齢も変わらないように見える彼女は、少しだけ戸惑ったように首を傾げた。
「……もしかして、依頼は先払いなのでしょうか。その、今手持ちがなくて」
「……いいえ」
猫型の前肢が、爪先に袋の紐を引っかけて持ち上げる。手の中にしっかり納めながら、ウィリディスはそっと首を振った。
「御代はいりません。……これを届けたら、アウランティウムにせがむとします」
「そ、それはよくありません!」
「大丈夫です、彼はわかってくれますので。……それより、あなたは大丈夫なのですか」
こんな大金を勝手に持ちだして、大使館の上司達が黙っているわけがない。
「良いんです」
返す声は晴れやかだった。
「もともと東領に帰るつもりでした。あそこ、古狸ばっかりで。もう飽き飽きです」
朗らかに言い切った彼女は、この大事を離れる言い訳にする気満々だった。ならば、返す言葉は一つしかない。夜に紛れて出立するつもりが、堂々たる言い訳ができたのはこちらの方だ。
「そういうことでしたら、遠慮なく」
そっと懐にしまい、ウィリディスは真顔で頷いた。
「この依頼、お引き受けいたしましょう」
日は徐々に黄昏を迎えつつあった。
少し早い夕飯を、とカウンターに腰を下ろしたウィリディスに、亭主は何を思ったか、彼女の拳ほどはあるハンバーグをドンと作って寄越した。
「……またツケでも?」
「これは奢りだ」
目をパチパチと瞬かせて、亭主の顔とハンバーグを見比べ、どうも偽りなさそうだと判じるとフォークの柄に前肢を通して景気よく突き刺した。付け合わせのサラダとご飯も順繰りに口に入れながら、無言で口を動かし続ける。キッチンへと帰ってきた女将が、その様子を見て苦笑いを浮かべた。
「前からまぁよく食べるとは思っていたけれど、あんたのそれはお兄さん譲りだったんだねぇ」
「……兄上?」
頬を栗鼠のように膨らませながら、首を傾げる。
「ほら、午前中にいらっしゃったろう? 昼ご飯をここで召し上がっていかれたのさ。まぁ負けず劣らずの食べっぷりでねぇ。どこぞの誰かさんと違って払いも良いってんだから、あれは良い男だよ」
「当然でしょう、兄上ですよ」
胸を張って応えたウィリディスの頬には米粒が残ったままだ。指摘されてさりげなく取りながら、ウィリディスは亭主を見上げた。
「兄上から、何か聞いたのですか」
「お前がこれから、また東領に行くと」
「はい、また、しばらく留守にします」
そうか、とぽつり呟いて、亭主は一度奥へ引っ込む。再び出てきた時には、前肢に四角い包みを乗せていた。黙したまま目の前に置かれたそれは固くてほどほどに軽く、包み紙を解いてみれば、よれてくたびれた薄橙色の手帳のようなものが出てきた。
「お前宛だ。先日届いた。渡すタイミングは、俺に任せると。なら、今渡す」
ウィリディスの目がこれ以上なく見開かれる。
この手帳が何なのか、彼女は知っていた。夜、アウランティウムがこそこそと取り出しているのを何度か見たことがあったから。
表紙には何も書かれていない。手に取ってパラパラとめくるに従って、黄金色の瞳が徐々に見開かれていく。
〈初夏月/上弦〉
「これは……アウランティウムの、日記」
改めて表紙に戻り、まじまじと見つめる。めくった一枚目には、乾いたばかりとおぼしき走り書きが、間違いなく彼の筆跡で綴られていた。
〈この日記を、僕の二番目にして最高の守護獣だった、ウィリディスに託す〉
ウィリディスの両前肢の毛がブワリと逆立つ。一度そっと机の端に寄せてから残りの夕食を一気に掻き込み、出された水をぐいと飲み干す。
「ごちそうさまでした。では」
「あぁ」
「なんだい忙しないねぇ。もう行くのかい?」
応じながら日記を手に一度納屋へ向かい、すぐ荷物を取って戻ってくる。
「雪が積もる前には帰ってくるんだよ」
変わらない調子の女将に、ウィリディスは深く頷いた。
「行って参ります」
月はもう下弦を形作ろうとしていた。
東領行きの最終便に飛び乗り、甲板の片隅に腰を落ち着けると、ウィリディスは袋から薄橙色の日記を取り出した。
届く月光とランプの灯を頼りに、ゆっくりと表紙をめくる。前肢の肉球で一枚目の筆跡を撫でると、爪先でそっとページをめくった。
〈晩春月/望月〉
〈今日、バレンスと一緒に保護センターを出立した。これまでも何度か練習で外に出たけれど、今回はなんだか、とても引き締まる思いがした。バレンスは「肩肘を張るな」と言うけれど、やっぱり緊張するよ〉
〈これから……これから、東領を、種とバレンスと一緒に巡るんだ。そう思うと、不思議と胸が膨らむ。どうやら僕は、緊張だけじゃなくて、ワクワクしているみたいだ〉
〈全部終わったら読み返して楽しもうと思って、この日記をつけることにする〉




