おまけ編:バレンタインの夜
仁志視点。後日談。短めです。
待ち合わせの喫茶店。
夜の闇が落ちる頃、明るいいつもの窓際のカウンター席に彼女の姿を見つけた。
声をかけようとした俺は、ドキリとする。彼女が隣の男性と微笑みながら話している。
とても仲睦まじい雰囲気だ。声をかけられなくて、しばらく立ち尽くしていた。
「よぉ、仁志。元気そうだな」
男性が俺に向かって、手を振った。
「武村先輩」
俺は、その男性を知っていた。
陸上の一年上の先輩である、武村は、結衣と付き合っているという噂のあったひとだ。俺より身長が高くて、手足がとても長く、精悍な顔立ち。昔から、とても女にモテた先輩だ。面倒見が良く、中学校から高校まで、同じ部活で。結衣の相手が武村先輩だと思ったから、俺は初恋を捨てたと言っても過言じゃない。とにかく、男の俺が見ても、先輩は、カッコ良かった。そして、今、そこにいる先輩も変わらずに二枚目であった。
「おめー、結衣ちゃんと付き合っているって?」
真っ赤になってうつむいている結衣を見ながら、先輩は楽しそうだ。
結衣ちゃん?
その口からこぼれた名に、俺が固まるのを面白がっている。
「結衣ちゃん、イイコだもんな。見る目あるよ」
「ちょ、ちょっと先輩!」
ぐりぐりと結衣の頭を先輩がなでる。仲が良さそうで。胸が苦しくなった。
「しっかし、蓮が泣くかもなー」
「え? 何故ですか?」
親しげな二人の会話に入っていけなくて。
俺は思わず先輩を睨みつけた。
「……俺の結衣と、どういう関係ですか?」
「親戚だよ」
くっくっと笑いをこらえながら、先輩はそう言った。
俺は思わず結衣の方を見ると、彼女もこくんと頷く。
「私の四つ上の姉が、先輩のお兄さんと結婚しているの」
「え?」
そんなこと聞いてない、と思ったが、いちいち話すことでもないのかもしれない。
「姉は、随分早くに結婚したから、私が高校三年生の時から先輩とは親戚なの」
「高校三年?」
結衣の言葉に、俺は結衣への初恋を諦めたあの日を思い出す。
結衣が、陸上部の試合を見に来なくなって。
高校三年生の春。校門の前で、結衣を待っていた先輩。足早にふたりで帰っていく姿……。
「蓮って誰?」
「え? あ、姉の子供よ。今年、中学生なの」
「甥っ子は、結衣ちゃんが好きでねー」
ニヤニヤと先輩は笑う。
「最近は、そうでもないですよ」
「中学男子が素直に好きって言うわけないだろ?」
中学生の男子?
「この前、結衣ちゃん、バレンタインのチョコ、俺にも置いていっただろ? オレ、蓮にスゲー睨まれた」
「まさか」
チョコレート? 結衣が先輩に?
俺は一度ももらったことがないのに。胸がキリキリと痛む。
「おい、仁志、目が怖いぞ」
先輩が俺を見てニヤリと笑った。自覚はあるが、どうしようもなかった。
「じゃあな。結衣ちゃん。またな」
先輩はそれだけ言って、自分のレシートを持って、席を立つ。
「嫉妬深いと嫌われるぞ」
ボソリと、俺の耳元で先輩はそれだけ囁いて帰っていった。
「仁志くん?」
「……なんでもないよ」
曖昧に笑うと、結衣の顔が不安そうに俺を見ていた。
「どうかしたの?」
先輩が去った後、結衣が俺の顔を覗きこむ。
「つきあっているって、言わない方が良かったの?」
少しだけ哀しげに目を伏せた。
「そんなことないよ」
「うそ。仁志くん、私の顔、見てくれないもの」
結衣はアイスコーヒーのストローをくるくるとグラスの中でまわした。
カラカラと氷が音を立てる。
「知っている人に言われたくなかったってことなの?」
「え? なんでそんな話になるんだよ」
「だって……怒っているもの」
結衣は寂しそうに笑う。
「やっぱり、私じゃダメってことなんだよね……」
「おい、ちょっと、結衣」
結衣の瞳が潤んでいて。俺は慌てた。
「違う、全然違うって。俺、妬いていただけだからっ」
「妬く?」
彼女は首を傾げた。その発想には至らなかったらしい。
「ごめん。でも……俺、一度も、結衣からチョコなんてもらってないのに」
「……だって、バレンタイン、今日だよね?」
びっくりした顔で、結衣が俺を見る。
「つきあって、初めてのバレンタインだもの」
彼女のいうことは正論だ。バレンタインに約束していて、前もってチョコだけ渡すってことは普通しない。
「それはそうだけど! でも、武村先輩にあげたって聞いたら、平気じゃない」
「義理チョコだよ? 先輩だってわかっているし」
結衣が困った顔をしている。困ったことを言っている自覚はある。あるが、止められなかった。
「嫌なんだよ。俺、結衣はずっと武村先輩と付き合っていたと思っていたから!」
「へ?」
結衣は目を見開いた。心底驚いている顔だ。
「私と武村先輩がつきあう?」
「結衣は誰とも付き合ってないって言ったけど。俺はずっとそう思っていたの! 試合を見に来ていた結衣が急に来なくなったし! 校門に先輩が待っていて、何回か一緒に帰っていたし!」
それだけ言うと俺は恥ずかしくなって水をがぶ飲みした。
店員が水差しを持って現れ、空気のように、コップの中に水を注いでいく。
「え? 何それ?」
結衣は少しだけ首を傾げて。
「あ、姉が出産前に入院して、病院にお見舞い行くのに迎えに来てもらったときかな? でも、合計で三回くらいしかなかったけど」
「三回?」
俺と結衣は顔を見合わせた。
「……俺、すげー、ピンポイントで目撃したってコト?」
「うん。たぶん」
結衣の言葉に、俺は思わず苦笑した。
思えば、三年になった時、結衣が試合を見に来なくなって。
俺はとても焦っていた。
そんなときに、先輩と歩いていく結衣を見たから。告白する勇気も全部なくすくらいショックだったのだ。
「あのね。チョコじゃなくてごめん」
少し申し訳なさそうに結衣は微笑みながら、綺麗にラッピングされた袋を俺に差し出す。
「……重かったかな」
袋を開けると、温かそうなセーターが入っていた。
どう見ても手編みだ。
「ごめん。今時、流行らない……ね」
そういえば、結衣は昔、手芸部だった。冬になるとクラスの女子に編み物を教えていたっけ。
素人だからよくわからないけれど、すごくうまいのだろう。市販品より丁寧な仕事がしてある。
「……これ、着てもいい?」
「無理、しなくていいよ」
「無理じゃない」
俺は、着ていた上着を脱ぐと、彼女のセーターに腕を通す。
純毛のセーターはとても暖かくて、俺にぴったりだった。
「チョコレートは、怖かったの」
セーターを着た俺の姿を見ながら、彼女は小さく呟く。
「怖い?」
「うん」
結衣は少しだけ苦い顔で笑った。
「高校二年のバレンタインに、仁志くんに告白しようとしたら……インフルエンザにかかっちゃったの」
「インフルエンザ?」
「そ。チョコも用意してたのに、熱出しちゃって。だから、もう縁がないんだなーって」
結衣の言葉に、俺はくすりと笑った。
「俺たち……ずいぶん、遠回りしたんだな」
「そうね」
俺は結衣と自分のレシートを持って、席を立つ。
「そのぶん、今日は、帰さないから」
結衣の耳元に囁くと。
「バカ」
彼女の肌が真っ赤に染まった。