傾国の薔薇の最後
董卓暗殺後、貂蝉は呂布に第二夫人として迎えられた。
時世とは残酷なものだ。
董卓の暗殺に成功したにもかかわらず、呂布は都・長安を追われた。
しかし、その呂布に手を差し伸べた者がいた。
劉備、字を玄徳。
乱世の中、人としての情を捨てきれない男。
呂布たちは劉備の恩情で不自由のない生活を送っている。
この時間が貂蝉にとって一番のんびりとしていた。
しかし、貂蝉は呂布を殺す策を考えていた。
傾国は乱世を操り、人を狂わせ、殺す者。
やがて時代は貂蝉に味方し、呂布を消す動きを見せた。
呂布は恩人といえる劉備に反旗を翻した。
この動きに一速く反応したのは、貂蝉の婚約者であった曹操。
呂布は味方の裏切りと曹操軍の策により、捕らえられ、処刑された。
呂布は処刑台に上げられ、跪けされた。
もう、心の準備は出来ていた。
ただ唯一、気掛かりなのは残されゆく妻と娘と――――貂蝉。
(貂蝉、死ぬ前にもう一度逢いたかった)
すると……。
「っ!」
呂布の前に貂蝉がいる。
だが、人の気配はない。
残像だ。
(そうか…、天は最後の願いを叶えてくれたのか)
思わず胸が温かくなる。
―――いいざまね、呂布。
言われた言葉がうまく頭に入ってこない。
―――呂布。あの世に逝く前にいいこと教えてあげるわ。
嫌な予感がする。
―――私は、あなたを愛していない。
これ以上、聞きたくない。
(頼む、何も知らないまま逝かせてくれ。貂蝉)
―――いつも、いっつも思っていたことよ。あなたに触れられるたび吐き気がしたっ!!
胸が冷たくなっていく。
―――私にとってあなたは、董卓を殺すためだけの道具。愛なんて感情があるはずないでしょう!一緒にいてあげたのは、董卓を殺してくれた礼よ。
貂蝉にとって呂布はそれだけの存在。
体が震える。
「おのれぇぇぇぇぇぇぇッ!!!!!!貂蝉ッ!!全て偽りだったかっ!!!!」
呂布の首に縄が掛けられる。
意識が霞む。
―――偽り?お前ごときが思い上がらないで。それに、それを言うならあなたもよ。手を差し伸べた人をいつも裏切って……。私ごときのこの程度の裏切りなど足元にも及ばないわ。
貂蝉の残像が不遜に嘲笑う。
―――私は董卓に傷つけられ、お前にその傷を抉られた。お前の死は私にとってささやかな仕返しにすぎない。
「ちょ…お……せん……」
呂布は貂蝉の名を口にし―――逝った。
「董卓は殺し、お養父様は死に、呂布は逝った。―――私の役目は終わった」
貂蝉は呂布に与えられた邸の一室で曹操の軍を見ていた。
首を括って死のうか。
それとも、胸に短刀を突き刺してしまおうか。
フッと笑う。
何故笑ったのか、貂蝉自身も分からない。
もしかしたら、満足したのかもしれない。
二人の男たちの心をものとし、相争わせ、一人の男を操り、もう一人の男を殺させた。
そして、最後には初恋の男が操った男を殺した。
もう殺す者はいない。
けれど、傾国は男には殺せない。
溜息をつく貂蝉。
傾国は乱世にしか生きることが出来ない。
今、傾国は消えるべきものなのだ。
ダンッ!
扉が開く音がした。
思わず振り返る。
貂蝉は唖然とした。
扉を開けたのは―――曹操であった。
「貂蝉、迎えに来たぞ」
幻ではなかろうか。
「曹操様、何故?」
「言っただろう、迎えに来た。それだけだ」
曹操が貂蝉の腕を掴む。
乱世とは、どこまで悲しいのだろうか。
傾国として死のうとしていたのに。
董卓、呂布を狂わせ、殺した、悪女として死のうとしていたのに。
乱世の闇に咲く大華として散ろうとしていたのに。
「貂蝉。もうお前が傷つき、苦しみ、心を壊す必要はない!董卓は死んだ!呂布も逝った!お前が傾国であり続ける意味はない!!」
貂蝉の瞳から涙が溢れる。
もう、苦しまなくてよいのだろうか。
もう、血に染まり、人を狂わせ、死なせずに済むのだろうか。
そう、思うことが許されるのだろうか。
曹操は貂蝉を抱きしめる。
貂蝉は身を委ね瞳を閉じる。
瞳の奥で貂蝉は己の悲劇の未来を見た。
曹操様、ごめんなさい。
私では、駄目。
あなたの側にいれない。
私が、あなたの運命を狂わせてしまう。
だから、どうか。
私のことを。
忘れないで。
「呂布様の仇。覚悟!!」
何処からか、一人の兵が剣を振り上げ向かってくる。
「っ!曹操様っ!!逃げて!!!」
貂蝉が曹操を突飛ばし、両手を広げ、兵の剣を受けた。
「うっ…く」
「貂蝉!!!」
曹操は兵を斬り、崩れゆく貂蝉を受け止めた。
「貂蝉っ!!貂蝉っ!!!」
「曹…そうさ…ま。どう…や…私た…ち‥は…今世…で‥む…す…ばれ……ぬ…さだめ……のよう‥」
「貂蝉!喋るな!!」
もう、手の施しようのない傷だ。
「私…が死…んだ…ら‥邸‥をこの……身…ごと…焼……て…」
傾国は魂が宿っていなくても、人を狂わせるかもしれない。
この人の、初恋を捧げた人の運命を狂わせるくらいなら、この姿を跡形もなく消し去ってしまおう。
それが、ただの貂蝉が傾国に出来る償いと慰めと――――復讐。
貂蝉はそっと最後の言葉を曹操に言った。
「そうだな…。次こそは―――」
貂蝉の呼吸が止まる。
『次こそは』に続く言葉を貂蝉は聞くことはなかった。
傾国・貂蝉は死んだ。
最後の最後に甦った無垢で美しかった貂蝉の手によって。
傾国は、禍の華は、人の心の前に―――散った。
―――さようなら、文姫。
(貂蝉っ!!)
文姫は曹操軍の陣中にあった。
文姫は外に出る。
夕日が血のように紅かった。
その夕日が貂蝉の最後を語っていた。
文姫は夕日の意味を悟り、嗚咽した。
貂蝉が死んだ。
幸せになれずに、―――死んだ。
「貂蝉、あなたは傾国なんかじゃない!」
涙が止まらない。
「あなたはただの―――薔薇の華よ!!」
董卓、呂布は鋭い棘のある薔薇の華に触れ勝手に滅んだ。ただ、―――それだけ。
けれど。
貂蝉の宿命が散ることを選んでしまった。
歴史が、乱世が、貂蝉を傾国と刻んだ。
そして。
貂蝉が傾国として生き、消えることを望んだ。
自身が薔薇の華であることを知る前に。
『生きる』という道を見つける前に。
貂蝉は選ばなかった訳ではない。
選べなかった。
これを悲劇以外に何と呼べばよいのだろうか。
「貂蝉。私、あなたの分まで幸せになる」
文姫は貂蝉との誓いを忘れてはいなかった。
「約束するわ。私、あなたの悲劇を後世に伝える」
そう、文姫は言ったが現実がそれを許さないことも知っていた。
でも、自分に友の悲劇を伝える力がなくとも。
今の現実が貂蝉を伝えることを許さなくとも。
「過去の真実を見て、たくさんの悲劇を無念を伝えてくれる人は未来に絶対にいる」
文姫は未来を見ていた。
貂蝉には、目にすることが許されなかった希望の未来。
文姫は貂蝉を知る者として、今は頼りない希望の未来を見つめていた。
その後、漢王朝は長くは続かず、中国全土が三つの勢力にわかれた。
後にいう、三国志時代の始まりである。
男たちが表舞台に立ち、女たちは陰に追いやられる戦乱の最中。
しかし、そこに女ながら戦乱にその名を刻んだ女英雄がいた。
貂蝉。
平和のために全てを捧げた美しき舞姫の名は、今もなお伝説として語り継がれている。
―――曹操様。貂蝉は悲しい運命が、残酷な戦争が、虚しい傾国が、必要のない世界にてお待ちしております。
傾国の薔薇姫、ついに最終話です。ここまでお付き合いいただきありがとうございます!!