誠実を唇に
空が高い。
リアネイラは首を伸ばし、琥珀色の視線を蒼穹に向けた。
屋敷の二階、緩やかな円形を描いた露台に出たリアネイラは、吹きつけてくる冷たい風に時折身を竦ませつつも、露台の手すりに両手を置き、そうして青く澄んだ空と秋色に染まりつつある森林を眺めやった。
天然の外壁となっている森は、常緑の樹木がほとんどを占めているが、ところどころに落葉高木もあり、赤や黄に葉を染めているものもある。常緑の高木である樅は線形の葉をみっしりとつまらせ、濃緑色に茂っている。しかし緑の陰にどことなく秋めいた色がさしているようように見えた。冷たさを潜ませている。
風が、さわさわと梢を渡っていく。静けさを際立たせる風の音が、幾度となくリアネイラの耳を掠めていった。
リアネイラは小さなため息をこぼした。
赤みを帯びた金の髪が風に揺れた。リアネイラは一度軽く首を振り、それから髪を一房つまんだ。癖のある金の髪を、指先に巻いてはほどき、またつまんでは指に絡める。
爽やかに晴れた秋の昼下がり、リアネイラは暇を持て余していた。
朝、セオドアスを相手に剣術の稽古をし、その後は歴史や地理などの授業があった。午前中はそれなりに忙しかったのだが、午後は語学の授業が急遽休みとなり、時間が空いてしまった。他に予定はなく、リアネイラは自由時間を得たわけだが、しかしだからと言って、一人気ままに街に遊びに出ることは叶わない。城外へ出るには国王、あるいは宰相の認可が要るのだ。認可は、すぐには下りない。許可を求めるまでにどれほど多くの手順を踏まねばならないか、リアネイラは今までの経験からよく知っていた。
国王の息女である事実は、リアネイラにとって重荷でしかない。しかし嘆いてみたところで現実は変わらない。それに嘆くばかりでは重荷はさらに重くなるばかりだ。それならば、少し楽天的になって現実を見ればいい。リアネイラは生真面目にそれを思い、思考を明るい方向へと持っていった。
国王に認知され、こうして保護を得て城に招かれたからこそ得られた幸福もある。
リアネイラは空を見ていた目を一度伏せてから今度は視線を落とし、「得られた幸福」を見つめた。
屋敷の前庭、二人の衛兵に何やら指示を与えているらしい黒衣の騎士がいる。リアネイラの琥珀色の視線は、長身の騎士へと向けられていた。
長身の騎士は名をセオドアスといい、リアネイラの護衛を務めている身だ。
十年前、リアネイラの護衛役に任ぜられた騎士セオドアスは、数日前にリアネイラの婚約者となった。父である国王の勅命によって。
その事実に、リアネイラはまだ戸惑っている。長年の片恋が実ったことは素直に嬉しいと思っているのだが、逡巡があるのはいたし方のないことだろう。
その逡巡は、言葉を変えれば「恋煩い」だ。リアネイラの心から消えることはない。セオドアスを想う気持ちがいつまでも消えないように。
騎士セオドアスを、リアネイラは飽かず眺めている。
セオドアスは美丈夫だ。人目を惹く。若い娘や熟年の女性達から注がれる熱視線は多い。セオドアスを篭絡しようと積極的に迫る女性を、リアネイラは遠巻きに、あるいは間近に見たことがある。リアネイラが知る限り、成功者はいない。
セオドアスの、凛とした顔の三方を縁取る柔らかな金の髪は、すっきりと整えられている。風に吹かれ毛先が動きわずかに乱れても、軽く頭を振ればそれで元に戻る。
均整のとれた身体は、一見すらりと細く見えるが、胴衣に隠された胸板は厚く、長剣を振るう腕は逞しい。動作の一つ一つが颯爽とし、立ち居振る舞いに隙がない。挙動の全てが涼風のように滑らかで、優美ですらあった。
(セオ、かっこいいなぁ)
リアネイラはほのぼのと思い、陶然とため息をつく。
十年、セオドアスを見つめ続けてきた。
それなのに、と思う。
十年という年月をともに過ごし、傍で見つめ続けてきたというのにもかかわらず、まだ知りたいと思うのだ。セオドアスのことを、もっとつぶさに、より深く。
贅沢だと、分かってはいる。
それに、もっと知りたいと思うのは、自分が未熟だからなのだろうとも、分かっていた。自分が未熟ゆえに、セオドアスの心緒を読み取れないのだ、と。
露台にいるリアネイラの視線を感じ取り、セオドアスは顔をあげ、そっと目配せをする。とび色の瞳を和らげて、微笑みかけてくれる。
セオドアスはいつでも自分を気にかけてくれる。
いつでも優しく気遣ってくれ、傍にいてくれる。守ってくれる。
それが嬉しい一方で、リアネイラは自分の気の利かなさや子供っぽさに、ほんの少しだけ落胆してしまうのだ。
セオドアスは、何よりもまずリアネイラを優先する。それがあまりにもさり気ないから、リアネイラはついついセオドアスに頼り、甘えてしまうのだ。
セオドアスにもたれかかってばかりだ。
つりあった関係とは、到底言えない。
そう思うと、どうしても自己嫌悪の穴にはまり込んでしまう。せっかく暗くなりがちだった思考の流れを変えたというのに。
(セオにつりあうよう、しっとり落ち着いた雰囲気の、大人の女性になれたらいいのにな……)
なれそうもないと分かってはいるのだが、つい埒もないことを思っては、深々とため息をついてしまうリアネイラだった。
大人の女性になれたらいいのにと思うのは易いが、いざなろうとしてみても、当たり前のことだが、一朝一夕にはいかない。
まずは外見から変えてみようかなと、リアネイラは短絡的に思いつき、そして鏡台の前に座って、髪をいじっていた。
くせのある赤みを帯びた髪は、肩甲骨にかかるかかからないかの長さでいつも切り揃えていた。もっと長く伸ばしてみようかと思うこともあったが、結局面倒になり、伸ばせないでいる。
リアネイラは気難しげに眉をしかめ、鏡とにらめっこをしている。リアネイラは自分で化粧をしたこともなければ、髪を結ったこともない。宮廷に出向く時は侍女等の手によって化粧を施され、整髪も任せきりだ。化粧そのものに興味がなく、髪も邪魔にならなければいいとしか考えておらず、剣術の稽古をする時だけ、一つに束ねていた。父王から贈られた化粧道具や髪飾り、その他意匠をこらした首飾りや腕輪など、そのほとんどが無用の長物になっていた。
それらを、久方ぶりに宝物箱から取り出し、鏡台の前に並べた。
リアネイラは髪をくるくると巻きつけるようにして一つにまとめ、上にまとめ上げてみた。それから何とはなしに、藍玉のはめ込まれた簪を手に取った。先ほど見た空の青さが瞼の内に残っていたのかもしれない。
「う~ん、上手くできないよ……」
まとめあげた髪にさそうと取った簪を手にしたまま、リアネイラは静止している。鏡にはリアネイラの困惑顔が映っている。「大人の女性」らしい表情とはいえなかった。
「珍しく鏡の前で座り込んで、何してるの?」
そこへ、キィノがやってきて、声をかけてきた。お茶を運んできたキィノを振り返って見ることなく、リアネイラはしかめっ面のまま鏡に映る自分を睨みつけている。
「ん~……ちょっと……、たまには髪型変えてみようかなぁって思って」
リアネイラは髪を両手で押さえたまま、にっちもさっちもいかないようだ。簪を指で挟み持っているのだが、どこへどうさしたらいいものか、分からないらしい。
「へぇ、それはまた、どういった風の吹き回し?」
キィノはからかうように笑いながら訊き、リアネイラは振り返らずに答えた。
「ちょっとね、見た目だけでも、大人っぽく変わってみようかなぁって。ほら、髪を上げると雰囲気変わるって、前にキィノ言ってたでしょ?」
「大人っぽくって、いったいまた、どうして?」
キィノは何気ない口調で訊き返す。その間に手際よく茶を淹れる。温かく甘い香りがたった。
「セオにね」
リアネイラはため息をついた。それからちょっと視線を落とし、鏡台にずらりと並べられている高価であろう装飾品に目をやった。
真珠や瑪瑙、緑柱石など、装飾に用いられている貴石、宝石は様々だが、琥珀石をはめ込んだものが多い。茶色みの濃い黄の石は、蜂蜜の溶かし込んだよう甘い色合いを持つ。中には茶が深い色の琥珀もあり、木の樹脂らしい名残がある。濃い色の琥珀石は、セオドアスのとび色の双眸を思いださせた。
「セオに釣り合うようになりたいなって。セオって、理知的で落ち着いてて、大人の男性って雰囲気がにじみ出てるでしょ? かっこいいなぁって思うんだけど、そのセオに、今のままのわたしじゃ、全然釣り合ってない気がして。セオより十も年下なんだから、それは仕方ないかなぁとも思うんだけど、せめて見た目だけでも近づけたらいいなぁって」
「ふぅん。なるほど」
キィノは、くすっと小さく笑った。そして、こともなげにさらりと言ったのだ。リアネイラにではなく、
「だ、そうですよ、セオさん?」
おそらくは最初からキィノとともにリアネイラの部屋に来ていたらしい、セオドアスに。
リアネイラは「えぇっ」と声をあげて振り返り、そこにキィノだけではなくセオドアスの姿を見つけると、途端、顔を真っ赤にし、絶句した。手にしていた髪飾りが床に落ちても、拾い上げることもできない。
セオドアスはセオドアスで、リアネイラに驚かれ、少々困ったような顔をしていた。キィノだけが何食わぬ顔をしている。
キィノの気の利かせ方は、少々強引だ。が、決して出過ぎることはない。さり気ない気遣いに慣れているといった風だ。何より、キィノ自身が「気を利かせる」ことを楽しんでいるようだった。
「お茶、冷めても美味しいものにしておいたから、あとでゆっくり飲んでよ。セオさんも」
キィノはそう言い残して、あっさりと部屋を出て行った。
リアネイラとセオドアスの間に、一瞬気まずいような居たたまれないような空気が落ちたが、それはすぐに穏やかなものに変わった。セオドアスの目元がやわらぎ、優しげな微笑が空気を変えた。
「リィラ、驚かせて悪かった」
セオドアスはリアネイラに歩みより、床に落ちた髪飾りを拾い上げた。どうやら壊れてはいないようだ。見た限り傷も見当たらない。
「う、ううん、セオが悪いんじゃないよ。わたしが勝手に驚いただけなんだし!」
リアネイラは首を左右に振った。くせのあるやわらかな金の髪がふわふわと肩先で揺れ、乱れる様も愛らしい。セオドアスは目を細めて己の婚約者を見、それから鏡台の前に並べられた装飾品に視線を移した。
「それは、陛下からの贈り物か? ずいぶんとたくさんあるが」
「うん、そう。ほんとにたくさんあって、使いきれないくらい。もったいないよね」
セオドアスは……リアネイラもだが、宝石や貴金属に関してはさほど詳しくない。だが、国王自らが選んでリアネイラに贈った品はどれも最高級の品であることくらいは判る。
セオドアスが拾い上げた髪飾りは、白金製の品だ。髪にさす部分は二股にわかれ、装飾部分は扇形をしている。光の反射をよくするよう研磨された透明の貴石がいくつも嵌めこまれているが、ことに目を惹くのは藍玉だ。藍玉の青色は、澄み渡る秋空を凝縮し、透明な風で包んだような凛とした深みと清々しさがある。
「もったいない、ということはないだろう。リィラが身につければ、十分に報われる」
「そんなこと……」
リアネイラは頬を染め、恥ずかしそうに目を瞬かせた。
リアネイラの普段着はいたって質素なものだ。動きやすい衣服を好んで着る。華美な衣装はよほどのことがないかぎり、まとわない。髪も同じで、おろしたままか、せいぜい後頭部でひとつに束ねる程度だ。髪留めや簪などで飾りつけることはほとんどない。
セオドアスはそうした素のままのリアネイラを好ましく思っている。
それに、身にまとう衣装が地味なものであっても、リアネイラの身の内から発せられる生き生きとした明るさは隠しようもない。むしろ際立たせる効果があるといっていい。
リアネイラはふぅっと小さなため息をつき、言葉を継いだ。
「でもやっぱり、こういう高価な飾り物って気後れしちゃうな。わたしには不似合いなんじゃないかって。……セオの横にいても不釣合いに見られない“大人の女性”になりたいなって背伸びしてみようとしたんだけど、それもちゃんとできなくて」
「リィラ」
セオドアスは拾った簪をリアネイラに手渡し、それから半ば強引に腕を掴んで、立ち上がらせた。リアネイラは俯きかけた顔を上げ、ちょっととまどったように肩を竦ませて立ち上がった。セオドアスの左手はリアネイラの右腕を掴んでおり、反対側の手はリアネイラのほんのりと赤く染まっている頬に添えられた。
「リィラ、不釣合いなどと言わないでくれ」
「セオ」
はっとして、リアネイラはセオドアスを見つめ返した。セオドアスの哀しげな瞳に胸が痛み、慌てて謝った。
「ごめん、ごめんね、セオ。セオに他意があるわけじゃなくて! わたし、ただセオに届きたくて、セオにもっと近づきたくて……」
「ああ」
分かっているとセオドアスの目が語る。
リアネイラは誠心をこめてセオドアスを見つめる。セオドアスのとび色の瞳は優しく、だがその奥には熱く激しい想いが秘められている。その熱を、リアネイラはまっすぐに受け止めている。
「リィラ。背伸びをせずとも、もう、十分に届いている。こうして触れられるように」
「うん……」
「だが」
セオドアスはおもむろに、リアネイラの頬を両手で挟んで、強い力で顔を上向かせた。自然、リアネイラは踵をあげ、背伸びをする格好となった。
「背伸びをしてもらうのも、たまにはいい」
「えっ」、と声をあげる間もなかった。リアネイラの唇に、セオドアスのそれが重ねられた。そっと触れる程度の、優しい口づけだった。
セオドアスは、時に強引で、唐突だ。
リアネイラは耳まで赤くなり、目を見開いて間近にあるセオドアスの顔を凝視している。
ややあってから、セオドアスの手が名残惜しげに離れた。リアネイラは踵をおろし、ほっと息をつく。セオドアスの温もりが唇に残っているようで、頬の熱りは一向に冷めない。
「その藍玉の簪、リィラによく似合う。髪に飾って、見せて欲しいが」
「う、うん」
リアネイラは藍玉の簪を胸に押し抱き、こくんと小さく頷いた。
磁器製の白いカップからは、涼風に運ばれる花の香のような爽やかで甘い香気が立ち上っていた。
慕わしく想い合う二人を誘うように。