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HUE ~だいだらぼっちが転んだ日~  作者: 宇白 もちこ
第十章 生生流転
116/124

10-7

 桂班が魚冥不を追って穴の外へ出ると、そこは斜面になっていた。すぐ傍に渓谷がある。

 こんな時でなければ、ゆっくりしていきたいような、美しい景色だ。


 這うような姿勢だった魚冥不はさっさと立ち上がると、足の裏の縄を掴み、句朗が打ち付けた杭ごと簡単に引き抜いた。

 桂班の五人は既に肩で息をしながらも、戦いに備え、体制を整える。


「護符を」


 史紋の短い指示で、みなは乞除から預かってきた護符を取り出し、額に貼り付けた。どれほどの効果があるか分からないが、魚冥不の蜃の術から、守ることができるらしい。

 乞除と瓜呪族の村の住人が、時間と労力をかけて作ってくれたものだ。


 魚冥不は斜面を登り始める。傾斜はゆるくなったり急になったりしており、砂利が多くて登りづらい。

 一度魚冥不が足を滑らせ、首のあたりにしがみついていた庵或留が、悲鳴を上げた。その隙を逃すわけにはいかないと、五人は武器を振り下ろし破壊を試みたが、硬い素材で作られているのか、まるで歯が立たない。

 魚冥不はすぐに体勢を整え、また登り始めた。


 斜面を登りきると、そこは丘の上だった。木がちらほらと生えているものの、視界を遮るものは少ない。美しい草原が広がっている。一面の背の高い草の中に、小さな白い花がちらほらと見える。


 どういうわけか、魚冥不には逃げるつもりがない様子だった。久しぶりに自分の身体を手に入れて冷静ではないのかもしれないし、元々好戦的な性格なのかもしれない。

 庵或留が非難するような口調で、ずっと何か言っているのが聞こえてくるため、彼の意図ではない可能性がある。


 魚冥不が逃げ出さないのは、桂班にとって好都合ではあったが、戦いは厳しかった。こちらの攻撃はほとんど通らず、打撃を与えるよりも、何かで穴を穿つなどして、少しずつ崩すやり方をするしかないようだ。

 大きな憑き物と戦う場合、四足歩行であれば、入と句朗がその背中によじ登って破壊することが多いが、二足歩行の憑き物の場合、それが難しい。

 二足歩行の憑き物と戦う時は、入と句朗の縄で転ばせることが多いが、魚冥不があまりに大きいため、力で負けてしまい、それも難しい。


 魚冥不は、まるで楽しんでいるかのように、蒼羽隊を掴もうとしたり、蹴飛ばそうとしたり、踏みつけようとしたりした。ほとんど、それを躱すので精一杯という状態だ。

 鼓童と史紋が正面に回って気を引き、後方に回っていた傘音が、棘付きの鉄球を足にぶつける。何度かまともに当たったにも関わらず、どうにも手ごたえは薄い。


 魚冥不に翻弄され、五人がくたびれ果てた頃、注意を引こうと無茶をした史紋と鼓童が、逃げ切れずに二人まとめて捕まった。

 魚冥不は何の躊躇もなく、二人を後方にぽいと放り投げた。二人の身体はおもちゃのように、軽々と渓谷のところまで飛ばされ、転がり落ちていった。


 その光景に、句朗の口から悲鳴が飛び出た。魚冥不のことが意識から消え、夢中でそちらへ駆ける。『死』という言葉が頭をかすめ、心がぎゅっと苦しくなる。

 そして一瞬後に、蒼羽隊なので死ぬことはないということに気づいた。句朗は足をもつれさせるようにして止まり、魚冥不を振り返って攻撃に備えた。


 二人が死ぬことはないとしても、絶望的な状況であることには変わりない。残りの三人で魚冥不を破壊するのは、ほとんど不可能なのではないかと思えた。

 二人の飛ばされた渓谷の方を見ていた傘音が、魚冥不の手で払われた。傘音の身体は地面を滑るように転がり、そのまま動かない。


 句朗は、傘音を庇うため走りながら、絶望に心が陰っていくのを感じた。

 何か手立てはないか。必死で考える。

 魚冥不が、傘音の上へ足を踏み下ろそうとする。

 句朗は大声で叫ぶ。

 先に着いた入が、傘音を抱えて移動させようとするが、間に合わない。

 このままでは、二人とも潰されてしまう。


 魚冥不の足は、すんでのところで止まった。足がゆっくり持ち上がる。

 その下から現れたのは、火湯だ。

 大きな斧で魚冥不の足を押し返している。

 斧は魚冥不の足の裏に刺さり、そこからひびが広がっていく。魚冥不は慌てて足を持ち上げ、体勢を整えようとする。


 次の瞬間、魚冥不の足の先が切って落とされ、どすんと音を立てて地面に落ちた。

 こんなことをできるのは、一人しかいない。

 今度は、羅愚来だ。


「気が利くな」

 火湯が魚冥不を見上げながら、そう言った。


 入と句朗が困惑していると、羅愚来がさらに言った。


「俺たちのために、倒さずにおいてくれたんだろ?」


 句朗は、『不死の蒼羽』という、火湯の二つ名を思い出した。


 忍冬班の二人の実力は、蒼羽隊で一番ではあるが、魚冥不も、油隠で他を見ない大きさと手ごわさだろう。

 句朗と入が、安全な場所に傘音を移動させ戻ってくると、二人は苦戦を強いられているようだった。

 それでも、先ほどまでの絶望を拭う確かな強さが、二人にはあった。二人の動きには躊躇がなく、非常に高い集中力を保ったまま、動いているのがよく分かる。信じられないことだが、戦いに喜びを感じ、戦いが終わるのを名残惜しんでいるような、そんな気持ちさえ伝わってきた。


 ふと、羅愚来の動きに違和感が出てきた。手で自分の体を叩いたり、腕を振ったり、顔を拭ったり、不要な動きが目立つ。何かに注意力を削がれているようだ。

 入が羅愚来に体当たりをして、彼を狙った魚冥不の攻撃から守った。火湯の動きも羅愚来と同様に、鈍っているようだ。


「なんだ、この、気持ち悪い虫は」

 その一言で分かった。蜃の術だ。


「護符を!」


 句朗と入は素早く予備の護符を取り出すと、彼らの額にびたんと貼り付けた。


 勢いを取り戻した羅愚来と火湯は、攻撃の手を緩めない。魚冥不も動きづらそうに見える。

 句朗は、魚冥不がたまに顔を上げるのが気になった。もしかしたら、そろそろ逃走を図ろうとしているのかもしれない。

 こちらに注意が向いていない隙を狙って、句朗と入は魚冥不の足の後ろ側から、よじ登ろうと試みた。

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