10-6
ヘドリアはすっと目を細めた。
「私があなたをどれほど憎んでいるか、何も分かっていないようですね」
ヘドリアは、自分がハカゼによって命を奪った生き物たちのことを思った。
ヘドリアは、憑き物によって命を奪われた生き物たちのことを思った。
そして、自らの意思に背く形でそれをやらされた、憑き物たちのことを思った。
憎しみは、庵或留を直視し難いほどに膨れ上がり、あまりの興奮に視界がかすむ。
横で見ていた句朗は、ヘドリアの顔が別人のようになったので驚いた。気持ちの高まりに合わせて体が大きくなり、庵或留を食ってしまいそうな迫力だ。
あまりの風の強さに、周りの人間はハカゼになることを恐れ、身を引いた。
何人かがヘドリアを止めようと名前を呼んだが、彼女の耳には届いていない様子だ。
すると、ワロが、危険を顧みず庵或留の前に飛び出した。
「もうこれ以上、お主に殺しをする必要はない!」
ヘドリアが我に返ったように風を止める。
「お主が手にかけるまでもない奴じゃ」
その瞬間、庵或留がワロを抱え、透明になった。
庵或留は、触れた者も自在に透明にできるらしい。ワロの姿も見えなくなった。
桂班はすぐに攻撃しようとしたが、ワロに当たることを懸念し、躊躇った。その一瞬の間に、庵或留が座っていた場所には、誰もいなくなった。
ヘドリアは左目を塞ぎ、必死に辺りを見回す。
「あそこです!」
ヘドリアが指さしたのは、女性の像の後ろだ。
「背中のところを上っていて、今肘のあたりです」
桂班がすぐにそれを追う。
「わしのことは気にせず、やってくれ!わしは怪我をしても治るし、庵或留がわしを殺すことはない」
上の方から、ワロの声が降ってくる。
像の後ろには階段が作られており、庵或留はそれを上っているようだ。少なくとも、像の肩のあたりまで、階段が伸びているのが見える。
桂班も、必死で階段を上る。庵或留を逃すわけにはいかない。しかし、句朗の頭に、小さな疑念がよぎる。
どうして像の後ろに階段があるのだろう。制作する際に使用したものが、そのままになっているのだろうか。例えば、ここへ僕たちが到着する少し前に、わざと階段を作ったのだとしたら?今、この階段を上るのが、彼にとっての悪あがきではなく、何か明確な目的を持った行動なのだとしたら?それに、逃げるつもりなら出口へ向かうはずだ。
その疑念は、句朗の心をかき乱した。
突然、ものすごい音と一緒に、視界が揺れた。
初めは何が起こったのか、分からなかった。壁が動いているのか、地面が動いているのか、とにかく大変なことになったと思った。
女性の像が立ち上がろうとしているのに気づいたのは、その後だ。
尻の部分が、壁の装飾もろとも剥がれる。膝や肘の部分は曲がるように作られていなかったためか、爆発のような音を立ててはじけ、瓦礫を飛ばした。
桂班の五人は、転がるようにして下へ降りる。階段はあっけなく崩れ、最後の史紋が飛び降りるのを、鼓童と傘音が受け止めた。
潮は、まだ目を覚まさない名曳を素早く抱え、なるべく遠くへ離れる。
「庵或留はどこにいる!」
四蛇がそう尋ねると「まだ、あの像の後ろにくっついています!」とヘドリアが答えた。
「面白いことになった!」
鼓童が、轟音に負けないくらいの大きな声を上げて笑った。
しかし、その顔は強張っている。恐怖の感覚を麻痺させるために、わざと笑っているようだ。
「破壊するしかないようだ」
史紋が、鼓童に呆れながらも、他の四人に戦いの準備をするよう指示する。
「要は、ばかでけえ憑き物ってことだろ」
鼓童が鼓舞するように言った。
魚冥不の芯石と女性の像を使って、巨大な憑き物を作ったというところだろうか。
ただ身体が大きいだけなら良いのだが、中身が魚冥不なので、顔付きを相手にするのよりも、さらに手ごわいだろう。
句朗は緊張で、背中がぴりぴりとしてきた。
立ち上がるには天井までの高さが足りず、魚冥不はその頭を天井にごりごりとこすりつけた。窮屈そうに身を捩る。天井からぱらぱらと土やほこりが降り、装飾がじゃらじゃらと賑やかな音を鳴らした。
その中で、庵或留が何かを叫んでいるのが聞こえる。なんと言っているのかは分からなかったが、それを聞いた魚冥不が、くるりと後ろを向き、両手を壁に当てた。ちょうど、女性の像が座っていた背面のあたりだ。
魚冥不が壁を押すと、いとも簡単に、ぱきぱきと壁は崩れ、向こう側に穴が現れた。
「ここから逃げる気だ!」
初めから、魚冥不を復活させて脱出する目的だったのか。あらかじめ、外からは分からないような退路を用意していたのだろう。この金色の空間を破壊しないことも、目的のひとつかもしれない。
魚冥不が既に上半身を侵入させているその穴は、イクチの巣穴と同じくらい大きいようだ。魚冥不は庵或留を乗せたまま、そこを上り始める。おそらく外に通じているのだろう。
ワロはどこかで振り落とされたのか、穴の入口あたりに倒れているのが見えた。
史紋の号令で、桂班が魚冥不に続く。
穴の内側は、像が登りやすいよう階段になっていたが、その一段一段が人間の背丈よりも高いので、非常に登りづらそうだ。入、句朗、傘音の順で上の段に上げてもらい、残りの二人を縄で引き上げるという方法で登り始めたが、これでは時間がかかってしまう。
「句朗!逃がすな!」
句朗は魚冥不の足に飛び掛かると、鞄から道具を取り出して、専用の杭を素早く打ち付けた。翠羽隊の作った、抜けにくい杭だ。これまでにも、大型の憑き物を倒す際に役立ってきた。魚冥不が足を動かしたときに振り落とされそうになったが、何とかしがみつく。句朗はそのまま、数本の杭を打ち付けた。
杭に括られた縄に、史紋が捕まり、魚冥不の足の動きに合わせて上の段に登る。全員が捕まると抜けてしまう可能性があるため、魚冥不の足が止まった隙に、その縄を上から史紋が引っ張ることで、他の三人を引き上げる。入は身軽に句朗のところまで来ると、魚冥不の足にしがみついた。
地上にたどり着いた魚冥不が、蓋のようになっていた出口を破る。そこも脆い素材で作られていたようだ。桂班の上に、パラパラと土が降り注ぐ。
潮や四蛇も桂班の後に続こうとしたが、その高い段差を上る術がなく、諦めた。
時間はかかるが、一度庵霊院まで戻り、徒歩で向かうしかない。あれほど巨大な像であれば、地上からでも見つけられるだろう。
潮らが庵霊院への階段のところに戻る間に、エノキらと合流した。
潮は手短に経緯を説明すると、皇子や執政官を安全な場所に避難させるよう指示し、蒼羽隊の援護を頼んだ。
皇子らの傍で待機していた二人組の蒼羽隊は、「最後の仕事かもしれない」と駆けだしたが、その姿があまりに浮足立っているように見えたため、潮は、先ほどまでの絶望的な報告が、果たして正しく伝わっているのかと不安になった。
「あいつらは仕事を愛している変わり者なんだ」
エノキは潮の顔を見て、何も心配していない様子で言った。
スムヨアは、まだ意識を取り戻さない名曳を支えながら、みんなを追って一歩ずつ歩いていた。
意識のない名曳の身体は、一人で運ぶには重く、人形の術の便利さをさっそく思い知る。他の人間は、蒼羽隊らに加勢すべく、庵霊院の出口へ向かって先に行ってしまった。
しばらくすると、又旅と茶々が戻ってきた。
「意識を取り戻した名曳が何をしでかすかを考えると、なんとも不安な気持ちになってな」
又旅はスムヨアの反対側から、名曳の身体を支え、歩き始めた。




