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HUE ~だいだらぼっちが転んだ日~  作者: 宇白 もちこ
第十章 生生流転
114/124

10-5

「庵或留か」

 史紋がそう尋ねると、庵或留はどこか楽しげな表情で後ろの方を見た。


「懐かしい顔がある」


「庵或留、久しいのう」


 ワロが声をかけた。庵或留が、嬉しそうな顔をする。


「お前の気持ちは分かるつもりじゃが、そろそろよそうじゃないか」


 庵或留は笑みを浮かべたまま、何も言わない。


「油隠でのこの世が、お前にとって飽き飽きする世界なのは分かる。じゃが、あまりに多くの生き物に迷惑をかけすぎじゃ。油隠か、この世か、いずれかに別れを告げる時が来たようじゃ」


「それは人間の規則が決めたことか。胎児の術を使うわしを捕らえることができぬため、ここで死ぬか、油隠を去るか、選ぶ他ないということか」


「そうじゃ」


「……わしが去った後、ここを守ってくれるか?」

 庵或留が金色の空間を見渡す。


「尽力しよう」


「……わしが去ったら、七人呪師はどうなるだろうか」


 ワロは言葉に詰まったが「人々の望むままになるじゃろう」と言った。


「七人呪師は絶え、凡庸な人間が七人呪師に選ばれ、呪術を育てることもなく自然な寿命で死ぬようになる、ということか」

 半ば独り言のように庵或留は言った。


「そうなる可能性はあるじゃろう」


「スムヨア」

 庵或留が娘の名を呼んだ。


 スムヨアを振り返ると、青い顔をしている。心を強く持とうとするかのように、拳を握り、必死な表情をしている。


「お前が今からでもこっちについてくれたら、話は早いんだが、難しいかね」


「お断りします」

 スムヨアは歯を食いしばり、頭を振った。


 次の瞬間、庵或留が透明になった。ハルバの体質だ。


「押さえろ」


 史紋の指示で、鼓童と傘音が、武器の柄を突き出すようにして、庵或留のいたところに素早く突っ込む。


「いててて」

 庵或留は逃走に失敗したらしく、すぐに姿を現した。強い力で武器を押し当てられ、苦しそうに顔をしかめる。


「庵或留、先に頼みたいことがあるんだ」

 又旅が進み出て言った。


「名曳を元に戻してやってくれんか」


「交渉する気はあるのかな」

 庵或留は涼しい表情でそう言う。


「ない」

 又旅の返答に、彼は笑みをこぼす。


「柄が!」

 傘音が悲鳴を上げる。


 彼女と鼓童の武器の柄が、庵或留の身体の形に合わせてぐにゃりと曲がっている。入と句朗が、慌てて庵或留の後ろに回り、腕を縄で縛ろうとする。


「縄もすぐに千切られてしまいます。私が代わりましょう」

 先ほどから、左目を手で覆い庵或留の魂を見ていたヘドリアが、前へ進み出て、傘音と鼓童に退くよう指示した。


 ヘドリアが両手を前に出し、狙いを絞るように近くに引き合わせると、そこから風が吹き出してきた。傘音と鼓童が飛び退く。彼女はハカゼにするつもりなのだ。

 もちろん、殺すつもりはないのだろう。庵或留が自分で治療できないよう、ハカゼを浴びせ続けるつもりらしい。


「なるほどなあ」

 庵或留は感心したように独り言を呟く。


「姉さんを元に戻してください」

 ヘドリアが強い口調でそう詰める。


「応じよう」

 庵或留はあっさり言った。


 ヘドリアが風を出したまま横にずれ、スムヨアと名曳が前に進み出る。

 スムヨアは緊張に身体を強張らせながら、彼の足元に名曳を横たえ、自分も横になった。よほど恐ろしいのか、目を固くつむっている。


「おかしなことをしたら、すぐにハカゼにします」とヘドリアが警告する。


 庵或留は胡坐をかくと、右手で左耳の耳たぶを、左手で右耳の耳たぶをつまんだ。目を閉じ、ゆっくり深呼吸している。

 句朗はふざけているのかと思ったが、誰も何も言わないため、彼が呪術の効果を引き出す際にする恰好なのだろう。


 彼は目を開けると、スムヨアの鎖骨の間あたりに手を持っていき、指を折り曲げて何かをこじあけるような仕草をした。


 庵或留の指の近くから、肉がえぐれてゆく。不思議なことに、出血はなく、皮膚の断面は薄い桃色の膜が張られているように見える。骨のようなものが見えた気がしたが、庵或留の思いのまま、ぐにゃりと凹んだ。

 なかなか直視し難い光景に、句朗は傷口から目を逸らし、庵或留の手だけを見るようにした。

 彼は二本の指を使って何かをつまむと、ゆっくり時間をかけて、スムヨアの体内から取り出した。

 芯石だ。

 一つ目をもう片方の手に渡すと、二つ目に取り掛かり、時間をあけずに作業を終えた。


「先に魚冥不の芯石を預かろうか」

 潮が手を差し出す。


 庵或留はちらりと視線を寄こしたが、応じる気はないらしい。芯石を二つとも懐に入れた。


「応じなさい!」

 ヘドリアがハカゼを強める。


 庵或留は手を止め、ぼんやりとヘドリアを見つめた。ハカゼになりかけているのかもしれない。ヘドリアはやがて風を弱めたが、庵或留に動く気配はない。


「いいわ、先に姉さんを元に戻しなさい」


 のど元に大きな穴が空いているのだ。早く元に戻さないと、ナミクアが死んでしまうかもしれない。ヘドリアの言葉には焦りが滲んでいた。


 潮はわずかに不安な顔をした。庵或留が芯石を寄こさないのは、ここから逃げ切れる算段があるからかもしれない。こういう場合、ひとつでも相手の要望通りに動いてはいけないのだ。


 庵或留は先に、自分の身体に引っかかった糸を外すような動作をした。ハカゼになりかけているのを、治しているようだ。ヘドリアはそれをわざわざ止めなかったが、風を送り続けることもやめなかった。


 彼は再びスムヨアに手を翳して元通りに戻し、スムヨアは恐る恐るといった様子で目を開けた。


「スムヨア」


 ワロが駆け寄る。

 彼女は胸のあたりを抑え、妙な表情をしている。ただ、顔色は良くなったようだ。勝手に涙が出てくるのか、濡れた目を瞬いている。涙が出るのは、自分以外の人格から解放されたためだろうか。きっと後にも先にも、彼女にしか分からない感覚だろう。

 スムヨアはワロに連れられ、庵或留から離れた。


 又旅が、名曳の身体を庵或留の目の前へ移動させる。


 庵或留は、顔を上げてヘドリアを見た。


「わしは油隠を去ろうと思うが、友人の魚冥不も連れて行きたい。それを見逃してくれるならば、名曳を元に戻そう」


「だめだ。そいつには然るべき償いを受けさせる」

 すぐに潮が答える。


「今はただの石だ」


「どのような姿だとしても、罪の重さに従って、牢獄に入ってもらうなりなんなり、するだろう」


「いいから、名曳を元に戻すのです」

 ヘドリアが風を強める。


 庵或留は風を浴びながら何かを考えていたが、またゆったりした動作で自分のハカゼを治療すると、仕方なく呪術を始めた。

 もう一度右手で左の耳たぶを、左手で右のお耳たぶをつまんで目を閉じ、それから、スムヨアの時と同じ要領で、今度は名曳の鎖骨の間あたりに、芯石を入れ始めた。


 句朗は庵或留のことを全く信用できないと思っていたが、ワロやヘドリアの見ている前で、例えば別の石ころや、魚冥不の芯石を入れるようなことはできないだろう。問題が起こらないまま、全てが終わるのを祈った。


 やがて庵或留の作業が終わった。名曳の胸がわずかに上下しているのを見て、頭では理解していたものの、句朗は改めて驚かされた。

 まだ意識を取り戻さない名曳は、又旅と四蛇によって、庵或留から引き離された。


「さあ、魚冥不を渡してもらおうか」

 潮が庵或留に詰め寄る。


 しかし、庵或留はやはり渡したくないらしい。句朗は胸のざわつきを感じた。


「それを渡すのです」

 ヘドリアがまた風を強めた。


 庵或留はぼんやりとした視線で、ヘドリアを観察するように眺めた。


「お前にわしは殺せまい」


 庵或留が嫌な笑みを浮かべる。

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