鬼の歌と、鬼
――二条・白桜の参議邸。
二日目、白桜邸での宴も終わり、昨夜と同じく先に部屋へ帰った睦月。
今宵は音の君のところへ行って舞いの歌を見せてもらう約束だ。さほど離れてもいないので、歌を聞いてから小物を取りに来てもいいだろう、と想い、紅の小袿を羽織った簡素な姿で赴いた。
結局あの後櫛は買わず帰ってきてしまった。
まだ日はあるし、好みを聞いて明日また市へいこう。そう決めていったのだが。
今夜は琴の音がしないと思いながら足を進めると、昨夜と同じ簀子縁に座る音の君の姿があった。昨夜と違うのは、音の君の脇に台と明り取りの火があることと、琴を弾いていないことだろう。
明るくなる心をやや抑えて、声をかける。
「――音の君」
「……まぁ、いられませ睦月様」
明り取りの火があるおかげで昨夜よりよく顔が見える。紅い結紐と黒髪、白磁の肌。この年でこれだけ赤と黒が似合うとは、将来どれほど美しくなるのか……
どこか憂いを秘めたような瞳すら音の君の魅力を惹き立たせていた。
己の容姿も比類して麗しいことなど忘れ、見入る。
その姿が可笑しかったのかにこりと笑い、扇で睦月を招いた。
「お約束どおりですわね。内緒にしてくれまして?」
「もちろん。……ここは、だいぶ静かなんだな。音の君の他に人はいないのか?」
「……そう。この部屋には誰も近寄らないの。日に数回女房がくるくらいで」
「数回……でも、そば付きの人は?」
これだけ身分の高い家の姫ならば、数人の傍使えがいるのが普通だ。
しかし睦月がみるからに、一人もいない。
どうして、という睦月に音の君は困った顔で笑った。
「……穢れ(けがれ=人の死)があって」
「!!」
「二月程前に。とても、急なことだったの。この家で私の一番信頼していた人……」
それ以来、人を傍に置くことが恐ろしく、あまり関わらなくなったのだという。
……表情でわかる。本当に家族のように慕っていたのだろう。
暗い話を思い起こさせてしまったと悔いた睦月だが、音の君は軽く首を振って、笑みを見せた。
「……さ、湿ったお話はおしまいでしてよ、睦月様。今日はなんのためにいらしたの?」
「あぁ、音の君。舞いの歌と、音を聞かせてほしい」
「えぇ、もちろんですわ。少し考えて音をつけましたの……まずは聞いてくださいます?」
「無論。……あ、どういった歌だけか聞いてもいいか? その、恋歌か、悲恋歌か。それとも四季を歌ったものか」
それを聞くだけでも、気持ちの入りが違うからと言う睦月をやや見つめ、音の君は口を開いた。
「そう……ですわね。恋、ではないのですけれど。叶わぬ思いを歌ったものですのよ」
「そうか。なら、お聞かせ願う、音の君」
爪弾く和琴に載せて、音の君の高い声が辺に流れた。
――ある、貴族の男あり
鳥を狩りに山へ入ると、一輪の鬼灯の下に眠るらうたき[愛らしい]幼子をみつけき
捨子かと哀れに思ひし男は幼子を抱き上げ、山を降りむ
すと、木々の間より巨大なる鬼がうちいでき。男は従者と共に鬼を打ち払い、山を降りて館へ帰りさる
幼子はかの鬼の人身御供となったのかと思いきや、目を開きし幼子の瞳のにほひ[色]を見て男はおののく
朱色[あけのいろ=赤]……はやく[それは]、そは鬼の子なりき。
されど鬼とはいえ、いとらうたき幼子。殺すをたゆたふ[殺すのをためらった]男に高名な陰陽師が言ひき。
未だ人を喰べたことのなき子鬼は人の世にならふ、親となり慈しみ、人の者を食べさせば瞳も黒くならむ、と。
鬼の子はその言におうて、人として育ち、たいそう麗しき娘となりき
ねびし[成長した]娘は、己と周りの違いに悩み、ある晩己が鬼の子なると知りぬ。
年ごろ思ひてこし[長年いとおしんできた]父も屋敷も全てを置きて、月の晩に生まれし山へと帰りて行く。
愛しや、愛しや……と言ひ置いて……――
朗々と続いた、音の君の幼さと大人の間にある危うい美しさの声が止む。山へと逃れる娘を表してか、激しく高く爪弾かれる音色にしばし聞き入る。
音の君が最後の弦を爪弾き、どこでどうやら終りらしい。
ほう、と聞き入った睦月がため息をこぼす。
「……鬼の娘の歌ですね。人を恋しく思う葛藤を捨て、山で鬼となることを選んだ娘の」
「えぇ、そうですの。……悲しく、美しいお話ですわ。人里におれば、鬼としていつ目覚めるかわからぬ恐怖――“鬼宿り”ですわ」
話す音の君の顔に影が指す。
その影が気になって睦月が口を開こうとすると、遮るように音の君が笑う。
「……舞えまして?睦月様。今宵ではなく、明日の晩で結構ですわ」
「え、別に、今でも舞えるけど……」
睦月の言葉に、音の君はゆるりと首を振る。
「こういった楽しみは小だしのほうが好ましいんですの。私、明日の楽しみができて、今から心が浮いてしまいますわ」
「そっか……なら、それでもいい。明日音の君が驚くようなものを見せてやる」
「えぇ、睦月様。楽しみにしておりますわ」
笑顔を浮かべた音の君に少し安堵した睦月は再びの来訪を約束し、夜が深まるまで暫し談笑の時となった。
和琴を始めたのは九つの時で父に勧められたから、自分は顔の横で髪を軽く結っておくのが好き、飾りの色は薄紅か藤色、着物は若草色が好き……
「好きな香は梅香なんだな、音の君」
「はい。母がずっとつけていて。その名残ですわ」
少しずつ、音の君が語ってくれた言葉が睦月にはどれも嬉しく、また睦月の返答を聞いて軽やかに笑う音の君もまた、楽しげであった。
しかしながら、時は過ぎさり、夜も耽てきた。
貴族の者は夜遅くに動きこそすれ、男が若い娘の所に居座るのは失礼にあたる。まさに後ろ髪を引かれる思いで、ようやっと会話を終えたのは、月が真上にかかったころであった。
「……では明日、必ず」
「はい、また」
今日は終り、と場を去った。
すると、睦月を送るように、再び琴の音が聞こえてくる。
先ほどの鬼の歌の音だが、睦月にはその悲しさが美しくさえ思えていた。
*
睦月が去ったあと、音の君は再び琴を爪弾いていた。
和琴を爪弾く、指先はしなやかでいて、力強い。琴の上手と言われる大人にも引けを取らぬであろう見事な腕前である。
客人が去って静まった辺にはよく響くが、それを咎めるどころかまるで誰も来る気配はない。
「……愛しや」
つぶやきと共に、琴を爪弾く手を止める。
「……愛しや……楓。管弦事が好きだった貴方ならば、明日の夜来てくれますわよね」
六弦ある絹糸を爪で順に一弦までなでおろすと、雅とは違う、音色のない響きが辺を包む。
それを五弦、四弦……と徐々に減らしながらかき下ろし、最後一弦だけになった時、音の君は琴に覆いかぶさるように身を伏せた。
「――お許し下さいまし、睦月様……」
*
音の君と別れた睦月は与えられた部屋に戻る途中、何かを追う男たちの声と、細く高い、女の悲鳴を聞いた。
すでに子の刻(深夜0時頃)を迎えているが、満月に近いややかけた月が照らす当たりは意外と明るく見えるものの、建物の隅や木々の間はやはり濃く落ちる影がある。
そんな時の騒ぎと言えば、野盗や物の怪に関したものであろう。
物の怪といえば、今日あった康晴の言葉を思い出す。
『女の鬼』
……関わらず、聞こえなかったことにして寝るのが良いと思いこそすれ、自然と睦月は屏の堺にある裏戸から外を見やっていた。
貴族の屋敷だ、検非違使がすぐに調べに走るはずだが、その気配はない。そして睦月の目に入ったのは、予想とは違う光景であった。
「あ、えぇっと……大丈夫か、お前……何かに追われて……?」
屏に寄りかかり、今にも倒れそうな女が見えた。
思わず飛び出し駆け寄っていく。
女の息はあらく、細い肩が酷く上下している。よほど恐ろしい目にあったのであろう。
だが、触れようとする手前……異変に気づく。
髪は乱れ、風も無いのに舞い上がり、袿も袴も酷く汚れている。
そしてなにより、睦月の声に、ゆらりと振り向いたその形相――――額には小さい角が二つ映え、目は血走って赤く口からは血であろう、赤黒い液体が溢れている。
「鬼――!!」
思わず下がる睦月。だがその声に反応し、振り返った鬼は、ゆらりゆらりと首を揺らし、へ近づいてくる。
「おかしや……お前、私が見えるのか」
「……っ」
「怖がらずとも、すぐに食ろうてやる。そなたの血をおくれ……」
女鬼の手が伸びてくる。
睦月は鬼が見えるだけであって、対処などしたことがない。
命を奪われるという生々しい恐怖に動けずにいると、急に鬼が怯み、睦月は強く後ろへ引かれた。
「ひぃぃっ」
「――な、何……」
「相変わらずの女装だね、睦月」
「――康晴!!」
「いい所に来てくれた、睦月。ちょうどその鬼を見つけたはいいが穏凝(おんぎょう=姿を消す)されてしまって……」
逃げた方向に来はいいが、どうしたものかと思っていると睦月の声が聞こえ、身動きがとれなくなっているのが見えた。
「さて、睦月。君に見えているのはどんな者か教えてくれ」
「……女の鬼だ。萩の袿に紅袴の」
「それはまた、大当りだ。で、詳しく位置を教えてくれるかい」
「自分で見ろよ!! 巻き込むな!!」
「見えないんだ、仕方ないだろう? 頼るのは悪いことではないと思うけどな、睦月」
他意のない笑みで、にこりと見下ろしてくる康晴に、目の前でこちらを睨む女の鬼。だんだんと形相が人でなくなるのを見て、睦月は、己の血が冷えていくのがわかった。
……何より康晴は本当に鬼が“見えて”いないらしい。
「……この、指の先だ」
「あぁ、ではついでにその鬼の頭を指さしてくれると一番ありがたい」
睦月にそう答えると、なにやら聞き慣れない言葉を早口で言い始める。
同時に康晴は懐から出した札を睦月の指と同じ方向へむけ、さらに康晴の言葉は早くなった。
最初こそ動かなかった鬼が、徐々に苦しみだし、地に付していく。しかし、それと時、同じくして睦月も酷い頭痛と目眩に襲われた。
「がぁ、うぁ……がああぁぁぁ!!」
「……っう」
「動かずにね、睦月。そのまま…………睦月?」
康晴の声に足を踏ん張るも、目眩強く膝をついてしまう。地に伏す寸前で康晴に抱えられたが、それでも頭痛や目眩は収まらない。
「睦月、しっかりして。……たぶん、瘴気(しょうき=鬼の出す悪い気)にあてられたのだ」
「馬鹿、前見てろ康晴……、もう少しで、あいつ弱って――」
最早鬼など見られる状況にないのだが、それでもここは音の君の屋敷が近いのだ
その一心で睦月は鬼の方を指し示す。
だが抵抗してくると思った女の鬼はぴたりと動きを止めていた。
しん――と静まった辺に響くのは、琴の音。
――先ほど聞いたばかりの音の君の、鬼の歌の音色がやけに鮮明に響く。
「……これは」
「――六葉……六…………ああぁぁぁ!!」
「うわっ」
「っ!!」
その音に康晴が気づいたと同時、鬼の女は何事かつぶやくと甲高い叫びを上げる。
そして巻き起こった旋風に顔を被った二人が次に見たときは、琴の音も鬼の姿も消え、静かな路地だけが闇へと伸びているだけであった。




