08.IN THE NAME OF LOVE
「あなたが、リサ?」
「はい?」
突然、名前を呼ばれたリサはきょとん、と目を丸くした。
声を掛けて来たのは黒髪の見事な美人さんで、しかも見覚えのない人だったからだ。
「あの……?」
「あなたは知らないだろうけど、わたし、リゲルと付き合ってたの」
その発言に、リサの瑠璃色の瞳がさらに大きく見開かれた。
美女はそんな様子に満足したのか、自信たっぷりに豊満な胸を軽く揺らしてみせてくる。
「リゲルが奥さんを連れて来たって聞いたけど、なんだかパッとしない人ね」
「……」
リサは目を丸くしたまま、視線を動かさない。
「彼って、夜はすごく情熱的でしょ? あなた、ずいぶんと細いし、身体が持つのか心配だわ」
「……」
何も言えないでいるリサを、ふふん、と鼻で笑った美女は、その笑みをいっそう深くした。
「あなた、わたしと同じ黒髪なのね。もしかしたら、わたしの面影でも引きずっているのかしら?」
「……」
「ちょっと、聞いてるの?」
微動だにしないリサをようやくおかしいと感じたのか、美女の眉が吊り上がった。
「と、とにかく、わたしが戻って来た以上、リゲルはわたしの所に来るんだから、あなたは荷物をまとめて出て行く準備でもしてなさいよ」
「……」
何を言っても反応がないと悟った美女は、一方的に宣言するとリサを置いてどこかへ去って行った。
それでもリサは、ただその場に立ち尽くしていた。
―――奥さんの様子がおかしいと気付いたのは、パートナーのテルと一緒に雪山に出かけていたリゲルだった。
話しかけても、どこか上の空で要領を得ないリサを見て、テルに情報収集を頼んだリゲルは、リサに何があったのかと尋ねたが、どうにも反応が鈍い。
帰って来たテルから、雑貨屋の娘が里帰りしていると聞いた時、顔を青くしたリゲルは「ごめん、テル。今日は村長のところで夕食もらってくれないか」と力なくこぼした。
「……あれ、テルくんは?」
ようやく夫のかわいいパートナーが居ないことに気付いたのは、夕食のおかずを並べていた時だった。
「リサ。ホントに大丈夫? テルは村長の所に行くって、さっき言ったよね?」
「あれ、そうだったっけ……?」
首を傾げたリサだったが、気を取り直して「それじゃ、食べましょうか」と呟いた。
だが、リゲルはおかずを一口含んだ途端、立ち上がってリサの額に手を当てた。
「リサ、熱とかあるんじゃないの?」
「……何言ってるのよ。別に頭痛もないしだるくもないわ」
小首を傾げたリサは自分を見下ろす夫をじっと見返す。すると、リゲルは肩膝をついて愛妻と目線を合わせた。
「ねぇ、リサ。もしかして怒ってる?」
「何を?」
「……えーと、ネイに何か言われた?」
「誰?」
しまった、墓穴を掘ってしまったか、とリゲルは情けない表情を浮かべた。
「雑貨屋の看板娘だった人だよ。北の町から里帰りしてるって聞いてさ」
「もしかして、黒髪の美人さん? だったら会ったわよ」
「……何か言われた?」
「何を?」
聞き返されたリゲルは、昔の自分をいますぐ殺して雪の中に埋めたくなった。
この村の常駐となってすぐの頃、ネイに誘われてつい手を出したのは事実だ。自分をそういう風に見てくれない幼馴染と同じ黒髪に、ついふらっと血迷ってしまったのだ。
(やっぱり、怒ってるよね……)
どう対応すべきなのかと足りない頭で一生懸命に考えるが、おそらくリサのことだ。とにかく平謝りするしかないだろうという結論になる。
「あのね、リサ。僕に言いたいことがあるなら聞くから。だから、その―――」
「言いたいこと?」
リサは少しだけ考える素振りを見せて、「うん」と頷いた。
「リゲル。その―――色々とありがとう」
「え―――」
予想もしない言葉に、リゲルの頭が混乱する。ネイと関係を持ったのは、リサと結婚した(ことになっている)後の話だ。それならば、その行為は完全な浮気でしかない。詰られ、責められ、罵倒されるのを覚悟していただけに、より一層の不安を感じた。
(まさか、今までありがとう、って……もう別れるってこと!?)
目の前で真っ青になったリゲルを見て、リサは首を傾げた。言いたいことがあるというなら、なんてタイムリーなことを言ってきたので、ずっと考えていたことを口にしただけなのに、どうしてこんなに動揺するのか分からなかった。
それは、本当に唐突なことだった。
『あなたは知らないだろうけど、わたし、リゲルと付き合ってたの』
今日、初めてあったあの美女に、そんなセリフを投げかけられた瞬間、リサは雷に打たれたような衝撃を受けた。
『あなたに言えなかったんだけど、わたし、彼と付き合ってたの』
脳裏に浮かんだのは、今ではずっと昔のように思える光景だった。
ふわふわの金色の髪はお日様の下だと、もっと綺麗に輝いていて、彼女が微笑むとまるで妖精がそこに佇んでいるようだと思った。
『結婚してからも、ずっと続いているわ。それに、ここにはアルドの赤ちゃんがいるの』
彼女が口にしたことが全く信じられなかった。
『アルドはとても優しい人だから、彼の家業をがんばって覚えようとするリサに本当のことが言えなかったのね。でも、もうアルドの気持ちを押し殺すようなことはやめないと、ね?』
念願叶って、アルドと結婚したリサは、夫の支えになるように、と必死で慣れない仕事を頑張っていた。元々、物覚えはあまりよくなかったけど、義母から教わったことを必死でメモして何度も繰り返し読んで頭に刻みつけた。そうして、店を訪ねて来るお客さんの対応も随分と板についてきた頃だった。
銀細工師の妻におさまったエウリィと、久々に会って他愛のないおしゃべりをしていたリサは、ひどく思い詰めた様子の親友からとんでもない告白をされたのだ。
怖くて、とてもアルドに直接尋ねることはできなかった。アルドもエウリィから知らされたのか、リサを見ると気まずそうな様子で距離を置いて来た。
どうしたらいいのか分からなくて、でも、たった一人の親友のエウリィにあんなことを言われたものだから、相談相手がいなくて、ぐるぐると悩み続けた。
それでも、目の前の仕事を放り出すこともできないまま、ずるずると日々を過ごすうちに、懐かしい顔が戻って来たのだ。
昔と変わらないボサボサの雀色の髪を見て、思わず目が潤んでしまった。似合わない無精ひげは、思わず首根っこを掴んで剃らせたくなった。苔むしたような温かい色の瞳は相変わらず優しげにこちらを見ていて、思わず泣きつきたくなった。
もちろん、そんなことは表には出さなかったけれど。
リサの様子に気付いたリゲルは、毎日顔を出しては、アルドを見限るように言って来た。でも、アルドとちゃんと話したかったリサは、その誘いを拒否した。けれど、アルドはリサと向き合おうともしなかった。
そんな遣り取りが続いたある日、リゲルは全く別の提案をしてきた。
「アルドと向き合うために、一芝居うってみようよ」
その言葉に頷いてしまったのは、どうしてだったか。あの時のことをリサはあまり覚えていなかった。あえて仕事のことばかり考えていたせいか、日々の記憶もぼんやりとしている。
いろいろあって、流れるままにリゲルと夫婦という関係になってしまった今、リサはリゲルに騙された、とは思っていない。
リゲルが自分を大事にしてくれている、この一点については疑う余地もなかったからだ。多くの女性と親しくしていたアルドの妻の座にいた頃は、毎日やきもきしていた。けれど、リゲルの隣にいると落ち着いていられる。リゲルはその目で、言葉で、手で、リサだけを大切にしていると教えてくれているからだ。
だから、今日、村で黒髪の美女に声を掛けられ、まるで霧が晴れるように全てを思い出した時、最初に思ったのはリゲルへの感謝だった。
あたしを心配してくれてありがとう。
あたしを連れ出してくれてありがとう。
あたしを、―――愛してくれてありがとう。
腐れ縁の幼馴染に、いまさら全てを話すのも躊躇われて、とりあえず感謝の気持ちだけを伝えたわけなのだが。
「ね、ねぇ、リサ。ホントに怒ってるんじゃないの? ホントに大丈夫なの?」
「はいはい」
何だか慌てて話しかけて来る夫を眺めながら、リサは夕飯を口につけて目を丸くした。
塩の加減を間違ったのか、なかなか個性的な味に仕上がっていた。
(そっか、色々と思い出しながら料理してたから……)
なるほど、これはリゲルが慌てるわけだ、と頷いて、リサは隣でまだオロオロしている彼に向き直った。
「ごめんね、リゲル」
「え、えぇっ!? ごめん、って、やっぱり―――」
浮気がバレたんだ、別れるとか言われちゃうんだ、と顔を青くしたリゲルを、再びリサは首を傾げて見つめた。
「これじゃ、食べるのもつらいわよね。すぐ下げるわ」
「え? あ――、食べる。僕、食べるから!」
「え、でも」
リサが作り直すから、と言い出す前に、慌てて自分の席に戻ったリゲルは猛然と並べられた妙な味の夕食を口に運び始めた。
材料を無駄にするよりはいいか、と考えたリサも、製作者責任だし、とおかずを口に運ぶ。
「あ、そうだ。あのね、あたし、あんたに話しときたいことが」
「ダメっ! あ、ゴメン。でも、聞きたくない。心の準備ができるまで、待って欲しいんだ」
「……そう?」
リゲルがこくこくと勢い良く頷くのに、「それなら、そのうちね」とリサは承諾した。
(記憶が戻ったこと、言おうと思ってたんだけど)
リゲルのことだから、自分を騙したことに妙な罪悪感を抱いているだろうし、早い内に告白した方が……と思っていたリサは、再び妙な味のおかずに取り組み始めた。
別れ話を切り出されるのだと戦々恐々としていたリゲルが、ようやくリサの告白を聞く決心を付けたのはそれから一週間後のこと。
まるで生きながら地獄を彷徨っていたリゲルが、そこが天国だったということを知って滂沱の涙を流し、逆にリサがドン引きするのだが、それはまだ先のことだった。
これにて完結です。
ここまで読んでくださってありがとうございました。