83.
思い立ったらすぐに。
その日のうちに、夜中になったら抜けようと決まった。
黙っていなくなることは褒められることではなく、心配もさせるだろうと思ったけれどどうしても、逃げたいと思った。
完全な逃避。
なにも考えたくない。
考えないでいたいから、逃げる。
全力で考えることから逃げるために、里から逃げるのだ。
メルヴィアの側で、里のみんなに囲まれていながら考えずにいることは無理だから。
真剣に生きている人たちのなかで、自分だけ今まで通りの無頓着になんていられない。
でも考えて決めるには重すぎる問題だった。
その方がいいのか、悪いのか。
すべきとか、すべきじゃないのか、まるで想像が付かないことだった。
よく考えて、と言われても困るのだ。足元を見つめてその時その時を生きるだけでも精一杯だったのに、自分がいなくなった後の未来のことに考え巡らすなど出来ないと思ったから。
だから今、出来ること。今一番したいことをーーー。
あとで思うと、カルシィもロゼンも粋がって背伸びするけど、ほんの子供だった。
逃げるにしてももっと準備をしてもよかった。
監視の目が厳しくなったり、閉じ込められたりしたわけでもなく、どこかを目指してと計画があったわけでもなく持ち物や食料だって用意したわけではない。夜中にこっそりとベッドから起きて、ほとんど着の身着のまま、逃げ出すことしか考えなかった。
ロゼンはカルシィより旅慣れていたといっても、『あのときはなんにも考えていなかったな。無謀だった』思い出して恥ずかしくなるような夜逃げをしたのだ。
ロゼンは台所からめぼしい食べ物を少しだけ貰って鞄に詰めていた。
ロゼンが里に来るまで愛用していた荷物だ。部屋の隅の棚に放り込んであった鞄と道具が引っ張り出されることになるとは数日前には思ってもいなかった。
逃げたいというカルシィに、わかったと頷いたロゼン。
得体の知れない状況が起こって、怖くなって逃げるにしても、その先もっととんでもないことが起きる可能性があるかもしれないのに、馬鹿で、向こう見ずだったよなあと笑えるようになるには少し時間が必要だった。
この夜はとにかく必死だった。
引き攣った顔をしたカルシィと鞄を背負って、足音を忍ばせ部屋を出た。
誰かに見つかってしまうのではないかと緊張してじっとりと汗を流しながら建物を出て、夜陰を進む。
里の通りには灯り取りの篝火が焚かれている。
男達によって交代制で夜番が組まれて、ときどき気まぐれに見回りをする者もいる。
出くわさないか祈りながら、門に向かう。背中のカルシィの腕がロゼンの首にぎゅっと絡んでいて息苦しいぐらいだったが、カルシィのせいでなくただの緊張だったのかもしれない。
出て行こうとする二人が見つかって、レネドに通報されたしまったらどうなるのだろうかと考えた。
一度、殺すぞと言われた相手なのだ。カルシィを連れて逃げようとしていたのがバレたら、おそらく殺されるだろう。ロゼンにとっては命の危機でさえあったのだが、まともに働いていない思考では、だからバレないよう上手く逃げないといけないーーーせいぜいその程度なので返って動くことが出来たのだろう。
さいわい誰にも会わなかった。
いつもならいそうなのに、今日は門番もいなくて閂を抜いてこっそりと通用門を潜った。
夜の森は静かで、月の光が明るかった。
分厚い雲が垂れ込めて星一つない夜でもロゼンには不自由はしないのだが、明るいことは祝福されているように嬉しくなる。
里を囲む壁から外に出たことで、気持ちは急に軽くなりロゼンは全力で走りだした。
「しっかり掴まってろよ、振り落とされんなよ!」
「———うんっ」
カルシィから返った返事を聞いて、さらに楽になった。
カルシィはじっと息を潜めて、頷くか首を横に振るかで答えるだけで声を出さずにいたから、声を耳にして自分たちは解放されたことを感じた。
無性に嬉しくて、叫び出したいほどだった。
上手くいった。逃げ出すことが出来た。
ちょろいことだ。出し抜いてやった。
歓喜にとも言うべき感情に包まれて得意満面に、休まず走り続けた。
そして森が途切れようとする頃、空が白み、小鳥の声が一段と賑やかになって、朝を迎えていた。
夜が明けて朝がやってきた。
明るい夜だったが、迎えた朝はまるでこの世界に悲しみなどなにもないともいうような美しい朝だった。
二人は次第に憂鬱になりながら、悄然とその朝を見つめたのだ。




