63.
自分の身体の感触だった。
状況がいまいち、よくわからなかったが、動きそうだった。
目は覚めたようだ。
「元気なことだーーーいい牙が生えている」
静かにメルヴィアは感慨を口にした。
「聞いているか?」
答える声はなかったが、憤慨する代わりに腕を振り上げていた。
勢いよく下ろす。アビールの横っ面を引っぱたいていた。
続けること五回。
これでは変化は生まれないことを感じた男はすぐ別の行動に転じた。
頬を張る代わりにもう一度頬に触れる。
そうして思い切り引っ張りつねり上げる。
皮がぐいぐい伸びてこれほど顔の皮膚は伸びるのかとカルシィが驚くほど力一杯に頬を絞られて、アビールの方もとても痛かったのだろう、それまで続いていた低い威圧的な唸り声が途切れて鼻を鳴らすような声が漏れた。
「痛いか?———正気に戻ったな」
やはり返事はなかったけれど、メルヴィアはアビールの目を見ながら薄く笑った。
「これは、どうするつもりだ?」
牙は肌にめり込んだまま、流血は続いている。カルシィも噎せ返るような血の臭いに包まれていた。
「食い千切りたいなら、食い千切れ。おまえには出来るだろう?」
「そんなっ」
「口を出すな、今はおまえと話していない」
鋭く窘められたカルシィは口を閉ざすしかなかったけれど、食い千切るなどメルヴィアが許したとしても、そんなことはカルシィが嫌だった。
「アビール、離して!」
「アビールという名か。・・・ほら、アビール、食わないの?食いたいんだろう、どうした、噛みちぎってみろ」
「駄目だよ、そんなっ、絶対駄目、アビールっーーー」
カルシィが下から両手を伸ばしていた。アビールの口の端に指をかけて、メルヴィアの腕から引きはがそうと懸命になっていた。
その様子をちらりと確認したが、メルヴィアはカルシィにはもう何も言わなかった。
アビールの目を見つめ、微笑みかける。
「さあ、アビール。どうする?どうしたい?よく考えて、やりたいことをやってみるといいーーーただし」
さらにメルヴィアは顔を近づけ、アビールの瞳を至近距離から覗き込む。
「噛み千切った味わった甘みの代わりに、自分が失うものーーーすべてにきちんと、別れをつけてからやることだ!———」
ゆっくりと一語一区丁寧に告げられたメルヴィアの言葉に、カルシィはぞくりとした。
怒った声ではなく、逆に、極限にまで感情を押さえつけれた声音だった。
でも重くて、強いものがこもっている言葉だった。それがどんなものなのか、メルヴィアの知らないカルシィにはわかるはずがなかった。
でも気圧されていた。
言葉の重みから、行為の中に今まで考えもしなかった意味が潜んでいることを、それはまぎれもない真実で、失う恐怖感までざわざわと心に湧き起こった。
それは、アビールも同じだった。
得体の知れない感覚に包まれて、怯んでいた。
食い千切れと繰り返されたアビールは、苦い物でも噛んでしまったあとのようにおずおずと口を開いてメルヴィアの腕を放していた。
顔が少年のものに戻って行き、完全に普段の自分を取り戻したらしいアビールが苦くてたまらない相手から、数歩退こうとした拍子にぺたんと後ろに尻餅をついて座り込んだ。
つい最近、アビールは目にして嘲笑った行動だった。
「———小童が二人・・・運ぶのは大変そうだ・・・どうするか・・・」
メルヴィアは立ち上がると、カルシィとアビールの二人を交互に見下ろして白い表情をわずかに顰めている。
超然とした人だった。
背の高さとか、ではなかった。背で比べるなら、レネドの方が高くかっしりしている。
そうじゃなくて、でも強い。
強くても限りなく綺麗で、二つのことが共存することがありえるのだと感じた。
長い白い髪は腰を通り越して腿の位置ぐらいまで届いていて、肌は透き通るように白い。
ずっと開くのを待っていた両眼は、琥珀色の瞳だった。
薄めの唇、細い鼻梁。想像通り、予想以上に美しく綺麗で、ただただカルシィは見とれている。
カルシィの予想と外れたことは、目差しが強いことだった。
嫋やかな容姿を裏切るように激しいほどに強い眼光を備える人だった。光を見つめていると呑み込まれてしまいそうだった。
これがーーーメルヴィアさん・・・。
存在を知っていてもカルシィは深い衝撃を受けて、言葉を失っていた。
では、存在をなにも知らされていなかったアビールの方はーーー。
「・・・あんた、誰・・・?」
彼らしくない緊張した声を出していた。
「さあーーー」
そういう答え方もあるのだとカルシィが驚くような答え方がなされた。
「・・・さあ、じゃない!・・・あんた、誰だ?」
アビールは声を荒げようとしたけれどやめたようだ。静かにもう一度聞いた。
メルヴィアは辺りを見回していた。
メルヴィアの出で立ちはベッドに横たわっていた薄い夜着のままで、足は素足だった。
「答えてくれよ、あんたは何?」
「———それは、面倒な質問だ。他の者に聞け」
「じゃあ、あんたの、名前は・・・?あんたは僕の名を知っている。僕にだって教えろよ」
「私は知らんよ、おまえのことなど。聞こえてきた名前らしい物を繰り返しただけだ。聞きたいなら、名乗れ、まず自分を語れ、小童———己はさておいて、他者に求めるな」
「私の名は、カルシィアラン。カルシィと呼ばれてます。少し前から、里で暮らしています」
「わ、おまえ、てめっ、抜け駆けっ、卑怯だろーーー」
「黙れ。うるさい。こちらの話の邪魔だ」とメルヴィアは気色ばんだアビールを遮って、カルシィに聞いた。
「どうして、ここにいる?」
声音は心に浸みるように低く心地よかった。
聞かれた、どうしてとは、どういう意味なのかよくわからなかったけれど思いつくことを全部言ってみることにした。
「獣のロゼンという人に出会って、一緒にいるようになって、そうしたらレネドさんに会いました。レネドさんが里の話をしてくれて、ロゼンと一緒に来ました」
「レネドアードに連れられてきたのか?」
メルヴィアが怖い顔をした。
「・・・レネドさんは、里にゆけば、生きられる、元気になれると・・・それで、そのあとに、行けばあなたにも会えるのだと教えられました・・・」
「———それだけか?」
忘れていることはない、他にはないはずだった。
頷くと、メルヴィアの表情がふっと弛んで、カルシィも力が抜けた。
アビールはカルシィに先を越されたことが不満でひどい形相で口を尖らしていたが、カルシィとの話に一段落を終えたメルヴィアがアビールの方に目を向けた。
メルヴィアと目があったアビールは噛みつくような勢いで口を開いた。
「僕はアビール。小さい頃からそう呼ばれているから、アビールだ。僕も、少し前にここに来た。ここの奴らは嫌な奴ばかりだ。大嫌いだ。でもあんたはここの奴らと違う生き物だよね。こいつ、カルシィと一緒だ。一緒でいい匂いもする。すごくいい匂い。僕はこの匂いは好きだ。だからあんたのことも好きーーー」
ぴたっと勢いが止まったのはアビールがメルヴィアを見上げているうちに視線が落ち、腕から指先へ、指先から滴となってしたたり落ちる赤い血を目にしたからだった。
「・・・でも、あんたは、僕のことなんて好きなわけないよね。あんたも、僕が嫌いだものね・・・」
噛み千切らなかったけれど、もうあまりかわらないと思った。
こんな真似をしてしまったのだから。
アビールの心には後悔が生まれていた。
人を大怪我させたことが何度かあったけれど、振り返って考えることなどなかった。アビールにとってこんなことは滅多にないことだったけれど、今なら思った。やらなきゃよかった、そうしたら今、こうはなっていなくて、もっと他の感じがあっただろうに、と。
けれど、沈んだ気分のアビールに届いた声は意外なものだった。
「———嫌いだという理由なども、こちらにはまだないだな。そう思いたいならそう思えばいいが。メルヴィアだ、そう呼べーーー」
どうでもいいように言った。
実際、メルヴィアの気持ちはもう二人から離れて別に向いているようだった。
この場を離れようとしていた。
訳のわからないところに居るのだから。どうやらそれほど遠くない場所だと気づいて安心した。
一応、状況は落ち着いたことを感じたならもうここに自分が居る必要などないはずだった。
カルシィは黙ってメルヴィアの後ろ姿を見つめている。
アビールも地面に座り込んだままだった。
メルヴィアはゆっくりと歩を進める。
青草を踏む裸足の足がなんだか眩しい。
「あーーー」
と、艶やかな低い声は驚いたように言った。
どうしたんだろうと思った。
そして次は、ふわっとしゃがんだと、二人はただメルヴィアの様子を見つめていた。
白い夜着と白い長い髪が大きく揺れ一瞬で高さを失って、低くなった。
それぞれの思いがあったが、うかつに声を掛けづらいという気持ちはカルシィとアビールに共通していたから。
そのまま地面に寝転んでしまったところまで黙って見守った二人が、耐えきれない疑問に静かに顔を見合わせていた。
「ねえ・・・これって・・・」
「うん、思った・・・駄目なんじゃ・・・」
意見も一致したそのあとは、大慌てになった。
第五章終了。
お付き合いありがとうございました。




