62.
まず手始めに、さっきからの反抗的な態度、意気地をへし折るためにもそれを取り上げないといけなかった。
「鋏、こっちに渡せ」
「嫌!」
アビールはカルシィの肩に手を掛けるとぐいっと引いた。
伏せていたカルシィはぺりっとひっくり返されて、上向きに転がっていた。
「渡せ」
「い、嫌だ、駄目っ———」
業を煮やしたアビールがカルシィの手からもぎ取ろうとした。
挟の中心を掴んで捻ればすぐに手を離すと思ったが、カルシィは反対の手を鋏の先に伸ばして両手で応戦しようとして、揉み合いになっていた。
危ないから手を離せーーーと言う暇もないぐらいすぐだった。
すぐに、アビールの嗅覚が嗅ぎ取っていた、血の臭いだった。
刃先を持とうとするから、手の平を切ったのだろう、怪我は深くないといいなと思ったけれど、次の瞬間にすべてがどうでも良くなっていた。
ひどくいい匂いだった。
甘い匂い。
人間の血の臭いとは違う、もっといい匂いだった。
元々カルシィはいい匂いがすると感じたけれど、その匂いが皮膚が破れたために、剥き出しになっていた。強く濃い。
急に強烈な空腹感を感じた。
これを満たしたい。
ーーー満たすことにすっかり取り憑かれていた。
方法は簡単だった。目の前にあるのだから。
欲求の塊だった。
これを頬張ったらーーー。
頬張りたかったーーー。
喰いたいーーー。
きっと今まで味わったことのないほど美味しいと思った。
カルシィもアビールの様子が変わったことに気がついていた。
くたりとアビールの鋏を引っ張ろうとしていた力が抜けて軽くなって、不思議になって見上げたとき、焦点の定まらないアビールが自分を見てうっとりと笑っていたのだから。
ぎらぎらと光る目になっていた。昼間でもよくわかるほど、普通の目ではなくなっていた。
アビールの口の中に明らかな牙が生えていた。
爪が鋭く長く、少し前とは別の生き物のものに変化していた。
「ひぃっーーー」
悲鳴は喉に絡んでまともな声にもならなかった。
絶望感を感じていた。大きな大きなものだ。
でもなぜだか、それは恐怖ではなかった。
ただ終わり、を感じたのだ。
アビールがカルシィに顔を寄せてくる。
嫌だったから、鋏を落として、両手で押し返そうとしてーーー血を溢れさす掌が触れたアビールの頬が赤に染まる。唇の端に付いた血にアビールはぺろりと舌を出して舐め取ると、えも言われない表情になった。
カルシィが自分が良くないことをしたことに気がついて慌てて手を引っ込めたが、もう今さらだった。
舐めたことでアビールの理性の箍は完全にはじけ飛んでいた。
もっと、だった。もっともっと、味わいたい。
少し過ぎて足りない、もっともっともっとーーー。
カルシィがこのとき感じたことは、ああ、もうロゼンに会えないんだ・・・という寂しさだった。
くわっと口を開けたアビールの白い牙が迫って、自分にぶつかろうとする衝撃に反射的にカルシィは目を閉じた。
死を覚悟して最後に思ったのは、痛くないといいな。すぐ痛くなくなるといいな、だった。
痛みはーーーなかった。
アビールの獣のような唸り声がすぐ近くに聞こえていたけれど、アビールはカルシィの身体の上に被さるようにそのままあり、その位置から動いていないことを感じたけれど、カルシィが囓られることにはなっていなかった。
どうしてーーー。
恐る恐る目を開けてみた。
白い腕がカルシィの目の前にあった。鼻先が触れるような距離に。
長く伸びたアビールのマズルはその腕に喰い付いていた。
牙が白い腕を破って血に染まっている。
ぽとぽとと赤い滴が、カルシィの顔の上に落ちてきた。
白い腕———。
筋肉はあまり付いていないしなやかな腕。
もっと頭上に、自分の頭の方に視線を向けたカルシィが腕の持ち主の姿を目にした。
「メルヴィア・・・さんーーー」
「———おまえは、誰だ?」
一瞬カルシィに視線を落としたメルヴィアその人が、不思議そうに言った。
低い声だった。
予想していた声とぜんぜん違う、低く艶のある心地よい背筋が震えるような響きのある声。
「あ・・・」
何か答えなくてはと思ったカルシィに、メルヴィアはすぐに言った。
「話はあとでいいーーー。気が散る黙っていろ」
その通りだった。悠長に自分が話しかけてていい状態じゃないだろうと思うから。
だから、もう声は出さず、はいとカルシィは心の中でメルヴィアに返事をした。
腕をアビールに喰い付かせたまま、ゆっくりとメルヴィアはもう一方の手でアビールに顔に触れていた。
グルルルルルーーー。
低い唸り声が続いていたが、噛みついたままアビールも動けない。膠着状態が続いていた。
白い手が優しげに、獣のように牙をむき出しているため険しい皺で波打つ頬を撫でる。感触を確かめるように。
ついに、でました。
お付き合いありがとうございます。




