プロローグ 針は進み、旋律は回る・前編
西暦二〇三四年――東京。
十五年前の「侵食」を経て、世界は変わった。
巨万の富を生み出すダンジョン。
しかし現在のそれは、AIが叩き出す味気ない数字に支配されている。
都心の深層に集まるエリートハンターたちは、最新の魔導デバイスを実装し、効率と時給を追い求める。命を懸けた冒険者たちの中から、未知へのロマンなどという青臭い言葉はとうに淘汰され、ダンジョンはミリ単位の損得勘定で管理された「工場」と化していた。
――だが、そんな最先端の波が、どうしても侵入できない場所がある。
東京都葛飾区、柴又。
帝釈天の参道に今もなお木造の店舗が並び、職人の小槌の音が響く。この下町には、昭和の「義理人情」という時代遅れの熱が色濃く残り、そこには独自の時間が流れていた。
ガガッ、と重々しい音を立ててシャッターが上がる。
朝の光が差し込んだ先には、ゼンマイの油と、微かにピリつくような魔素の気配が混じる『冴羽時計店』の作業場があった。カチ、カチ、と無数の秒針の音が、静かな空間を満たしている。
「――律。右手の動きが硬いぞ。ゼンマイも人間も、遊びがなけりゃあいつかポッキリ折れちまう」
作業台の向こう側で、ルーペを覗き込んだまま祖父・宗治が声をかける。
律は、手元の細かな部品から視線を外さず小さく息を吐いた。
「わかってるよ、じいちゃん」
一八八センチの引き締まった長身を窮屈そうに丸めながらも、その指先は驚くほど繊細に動いている。
やがて、カチリとピンセットを置いた律の佇まいには、高校を卒業したばかりの十八歳らしからぬ、達観した静かな余裕が漂っていた。
それもそのはず、昭和から平成までを駆け抜け、この世界に生を受け直した彼にとって、これは文字通りの「人生二周目」なのだから。
「よし。こいつはこれで、また十年は時を刻んでくれる」
律が客から預かった古い大時計のネジを締め直す。カチリ、カチリと、死んでいたはずの歯車が再び確かな呼吸を始めた。丹念に磨き上げられた真鍮の装飾は、まるで外の世界の喧騒を拒み、この時計だけの静謐な時間を守っているかのようだ。
「あら、もう終わったの?」
作業場の奥の母屋から、淹れたての茶を載せた盆を手にした母、佳代が現れる。彼女は律の傍らに並ぶレトロなガジェット群と、その身に纏った格好を眺め、ふふっと微笑んだ。
「律はおじいちゃんたちの古いお下がりを、本当に物持ち良く大事に使うわね。今の若い子たちはみんな、最新デバイスでなんでも管理してるっていうのに」
「これが良いんだよ、母さん。あっちの方が便利なのは知ってるけど……俺は、このギミックがロマンがあって好きなんだ」
律が茶を啜っていると、力強い足音が二階から降りてきた。
頭をぶつけないように鴨居をくぐった父・賢治は、律の正面に立つと、無言でその肩をポンと叩いた。
「賢治、あなたも何か言ってあげなさいよ。これからダンジョンに行くんだから」
「……腹が減ったら戻れ。それと、必ず帰ってこい」
ぶっきらぼうな一言。だが、そこには職人の、そして父親としての重い情愛が詰まっていた。
律は小さく頷くと立ち上がり、座っていた椅子の背に掛けられていた、頑丈な防護服を流れるような動作で引き抜いた。
手慣れた手つきでそれに身を包み、さらにその上から、父が着倒して色落ちしたケミカルウォッシュのジージャンをバサリと羽織る。スマートさとは程遠い、どこか懐かしく無骨なシルエット。先ほど賢治に叩かれた右肩のあたりには、言葉に極まった父の、そして職人の確かな手の重みがまだ残っているようだった。
そのまま作業机に向き直った律は、そこに置かれたポータブルカセットプレーヤーを手に取る。
現代のスマートデバイスではない、ビビッドな樹脂製の重厚な筐体。どこか愛らしいそれは、『アウトドア仕様』と呼ばれた本体にスピーカーを内蔵した往年の名機だった。
宗治の手によって、内部の回路や磁気ヘッド、そしてスピーカーユニットがダンジョンの特殊な魔素にも耐えうるよう換装された、律だけの「武器」だ。
最先端のデジタルデバイスが、微細な半導体や集積回路に頼るがゆえに魔素ノイズで不調をきたすのに対し、この機械の構造は極めてシンプルだ。
「モーターが回り、ゴムベルトが連動し、物理的に磁気テープを引っ張る」という強固な物理駆動の思想。回路の換装と、このローテク特有の『物理的なタフさ』が組み合わさることで、ダンジョンの悪質な環境下では最強の盾となっていた。
「じいちゃん、ガジェットの調子は?」
「完璧だ。お前のバカげた出力にも耐えられるように組んでおいた。万が一はないと思うが、いつも通り十秒は『動作確認』して行けよ」
律は頷き、作業机の引き出しから『テスト用』と書かれたカセットを取り出すと、迷いのない手つきでプレーヤーに装填した。指先に心地よいバネの抵抗を感じながら、再生ボタンを深く押し込む。
ガチャッ。
重い金属音と共にピンチローラーがテープを挟み込み、小さな駆動音を立てて磁気テープが回り出す。アナログ特有の、サァーという心地よいヒスノイズ。
律はハウジングに指先を添え、慣れた手つきで『ボリュームノブ』を捻った。
チェックの基準点、目盛りは――『7』。
それは、時計店の「静寂」を置き去りにし、律の意識を一気に「熱狂」へと塗り替える境界線。
――ジャラン、と切ないギターのアルペジオが跳ねた直後、世界が一変した。
筐体のスピーカーグリルから、胸を締め付けるようなロックサウンドがダイレクトに溢れ出す。
荒々しく歪んだディストーションギターの重厚な旋律。
哀愁を帯びたロックサウンドが律の膨大な魔力と完全に同期し、空気中の魔素をドミノ倒しのように支配していく。
これこそが律の固有スキル――『音響領域』。
放たれた旋律によって世界の法則を塗り替え、自身や味方の能力を爆発的に引き上げる絶対的な強化空間だ。
この世界において、音楽に魔力を乗せられるのは律ただ一人。
かつて最新のデジタル音源で試した時は、無理やり魔力をねじ込んだ結果、一曲すら持たずに魔力が枯渇するほど燃費が最悪だった。
『0と1』に波形を間引かれたデジタルに対し、磁気テープに刻まれたアナログ音波は連続する『無限の揺らぎ』を持つ。律の規格外の魔力は、そのデジタルが切り捨てた「音の隙間」にしか滑り込ませることができない。だからこそ、このローテクなカセットプレーヤーこそが、彼にしか扱えない唯一無二の魔導兵器だった。
そのまま十秒の間、魔力を流し込み続けても宗治の職人技で補強された特注の筐体は軋み一つ上げない。魔導回路が焼き切れる気配もなかった。機関は極めて良好。完全に牙を研ぎ澄まされている。
普段の彼なら絶対に表に出さない、あの昭和・平成を熱く駆け抜けた前世の魂に刻まれた『情熱』が、静かな脈拍を一気に押し上げていく。
ボリュームノブを最低の『0』まで一気に絞り込み、イジェクトボタンを深く押し込んむ。物理的な音が消えるのと同時に、展開していた音響領域が霧散し、身体に宿っていた劇的な強化がふっと切れた。
ガシャリ!
小気味いい金属音がしてフタが跳ね上がる。
鼓膜に残る心地よい残響と、胸の熱が冷めやらぬまま、開いたドアからテスト用のカセットをつまみ出した。それを引き出しの定位置に戻すと、中に整然と背を揃えて並ぶケースへと視線を落とす。
手書きのタイトルが躍るそれらは、洋楽、ロック、ポップス、アニメの主題歌――一本一本に、世界の法則を上書きする律の「青春の残響」が封じ込められている。インデックスに曲名が並ぶカセットたちは、幼馴染の戦闘スタイルに合わせて自ら選曲し、磁気テープにダビングした特製の『ミックステープ』だった。曲間の秒数にまでこだわって吹き込まれた磁気は、いわば律が手製で組み上げた「音の弾薬」だ。
律はその中から迷いなく三本を抜き出すと、腰のベルトに備え付けた弾帯風ホルダーへと滑り込ませた。
いつでも引き抜ける定位置。「パチン」とホルダーのホックが小気味よく噛み合い、文字通り、臨戦態勢は整った。
まさに、その時だ。
「りっちゃーーん!」
まだ静かな柴又の商店街を切り裂くように、快活な叫び声が響き渡った。もはやこの界隈の「時報」と化した、お馴染みの声だ。
「江戸川のダンジョンの湧きがとんでもないことになってるみたい! ボスが湧いてるっぽいから、柴又の家電がパーになる前にサクッと片付けにいっちゃうよー!」
ダンジョンから溢れる高濃度の魔素ノイズは、対策のない電子機器を容赦なく狂わせる。最新家電に頼らないとはいえ、下町の商店にとってはまさに死活問題だった。
そんな街の危機を吹き飛ばすように店先で元気に声を張り上げる幼馴染に、作業場に残る面々は揃って苦笑いと笑みを浮かべた。
「ほら、陽葵ちゃんが迎えに来たわよ。早く行ってあげなさい」
佳代のからかうような優しい言葉に、律は短く「行ってきます」と言い残し、作業場の扉を押し開けて表へと踏み出した。
初夏の瑞々しい朝光が、ジージャンの背中を照らす。
――あの日置いてきた熱狂よりも、遥かに熱い一日が、今幕を開ける。
だあああああああああ、矛盾発生で練り直しになりました!
当分は矛盾あるつもりで見ていてください::




