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第12話 『雨の夜に先生がやってきて、湿っぽい思い出を度数の高い酒で消毒した話』

雨の音が、窓ガラスを静かに叩いている。

客足の途絶えた「錆びた剣亭」の店内は、湿気を含んだ静けさに包まれていた。聞こえるのは、厨房で父さんが鍋を磨く音と、カウンターの隅でいつもの三人が立てる咀嚼音だけ。


彼らは今日も、まるで店の備品か何かのようにそこに座っている。


「……降り止みませんねえ」


私がグラスを拭きながら呟くと、戦士(ガンツ)さんが骨付き肉を齧りながら「ああん?」と唸った。


「雨なんざ、酒が薄まらなきゃどうでもいいんだよ。おいミナちゃん、おかわりだ」

「はいはい。飲み過ぎないでくださいよ、明日もお仕事なんでしょ?」


エールのジョッキを受け取りながら、魔法使い(フィス)さんが窓の外を眺めて目を細める。


「空が泣いている夜は、古い傷が疼くものさ。……物理的にも、記憶的にもね」

「気障なこと言ってないで、さっさと飲んでください」


私が呆れていると、カランコロン、とドアベルが鳴った。

こんな時間に珍しい。入ってきたのは、フードを目深に被った濡れ鼠の男性だった。

彼は入り口で雨水を払い、フードを下ろす。


「いらっしゃい……あら、先生?」


そこに立っていたのは、この街で一番腕のいい薬師の先生だった。

いつもは診療所で薬草を煎じている温厚な彼が、今日は喪服のように黒い外套を纏い、ひどく思い詰めた顔をしている。


「ミナちゃん、すまないね。閉店間際に」

「いえ、大丈夫ですけど……お一人ですか?」

「ああ。……いや、連れはいると言えばいるかな」


先生はカウンターの真ん中、いつもの三人組の少し離れた席に座ると、静かに注文した。


「一番強い蒸留酒をボトルで一本。それと、グラスを四つ」

「四つ、ですか?」

「ああ、頼む」


私は言われた通りに琥珀色の液体が入ったボトルと、四つのグラスを並べた。

先生は自分のグラスに酒を注ぐと、残りの三つの空席の前にもグラスを置き、トクトクと酒を満たしていく。

まるで、そこに見えない誰かが座っているかのように。


店内の空気が、少しだけ重くなった気がした。

先生は一口、強い酒を煽ると、意を決したように三人組の方へ向き直った。

そして、椅子から立ち上がり、深々と頭を下げたのだ。


「改めてありがとうございました……今日で、ちょうど十年になります」


三人組の手が止まる。

ガンツさんはジョッキを置いた。斥候(ゴド)さんは読んでいた本を閉じた。フィスさんは、変わらない薄ら笑いのままグラスを揺らしている。


「あの時、崩落した地下迷宮の瓦礫の中から、私だけを引っ張り出してくれたこと……一生忘れません」


先生の声が震えている。

十年、と彼は言った。

先生は元冒険者だとは聞いていたけれど、詳しくは知らなかった。でも、その場の空気で悟った。

並べられた三つのグラス。それは、今日が彼の昔の仲間たちの命日だということを意味していた。


「あの日、生き残ったのは私だけでした。皆さんが通りかからなければ、私もあそこで死んでいた。……今の私があるのは、皆さんのおかげです」


それは、心からの感謝の言葉だった。

涙ながらの告白に、私は胸が熱くなるのを感じた。命の恩人との再会。なんて美しい話だろう。


けれど。


「……けっッ」


静寂を破ったのは、ガンツさんの不機嫌そうな舌打ちだった。


「おい先生よ。湿っぽい話を持ってくるな。エールが不味くなる」

「えっ……」


先生が顔を上げる。

予想外の反応に戸惑う彼に、今度はゴドさんが冷ややかな声をかけた。


「勘違いされては困りますな、あれは失敗の仕事ですよ」


ゴドさんは髭を指で弄りながら、淡々と言い放つ。


「我々は依頼を受けてあの迷宮に入った。ですが、崩落に巻き込まれ、目的の物は入手できず、偶然見つけた生存者はたったの一名。……依頼主も護衛対象も救えなかった。赤字もいいところです。誇れる話じゃありません」

「そ、そんな……でも、私は!」

「君が生き延びたのは、単に君の運が良かっただけだ。我々に感謝など筋違いも甚だしい」


突き放すような言葉。

私は思わず「ちょっと!」と口を出しそうになった。

せっかく感謝してくれているのに、その言い方はないじゃない。

先生もショックを受けたように唇を噛んでいる。


「……そうか。十年経っても、あんたたちは変わらないな」


沈黙が痛い。

すると、それまで黙っていたフィスさんが、自分の杖でカウンターをコツンと叩いた。


「過去は澱のように溜まるものだ。かき混ぜれば水が濁る。……でもね」


フィスさんは、先生が並べた三つのグラスを指差した。


「その酒、蒸発させるつもりかい? もったいないねぇ。死んだ奴らは、もう喉が渇かないんだよ」


その言葉を合図にしたように、ガンツさんが立ち上がった。

そして、先生の背中を、その丸太のような腕でバンッ! と叩いた。


「ぐふっ!?」

「痛てえか? 痛てえなら生きてる証拠だ」


ガンツさんはニカっと笑うと、先生の前に並べられた「死者のためのグラス」の一つを勝手に手に取った。

続いて、ゴドさんも、フィスさんも、残りのグラスを手に取る。


「え、何を……」

「供え物なんざ必要ねえんだよ。あいつらの分まで俺たちが飲む。それが一番の供養だ」


ガンツさんが豪快に笑う。

ゴドさんがやれやれと肩をすくめる。


「死者に酒を振る舞うより、生者の肝臓を労わるべきですな。……まあ、今日くらいは付き合いましょう」

「そうそう。死んだ人間の不幸を数えるより、生き残った幸運を味わうべきさ。……この酒のようにね」


三人は、手にしたグラスを高く掲げた。

先生は、叩かれた背中をさすりながら、呆然と彼らを見上げている。

でも、その目から、さっきまでの暗い陰りが消えていた。


「……ははっ。そうですね。……あなたたちは、本当にどうしようもない人たちだ」


先生は涙を袖で乱暴に拭うと、自分のグラスを掲げた。


「さあ、献杯じゃねえぞ! 生き汚く生き残った俺たちに!」


ガンツさんの怒鳴り声に、全員の声が重なる。

カチャン、と四つのグラスが軽快な音を立ててぶつかり合った。


「乾杯!」


雨音はいつの間にか、賑やかな笑い声にかき消されていた。

彼らは優しくない。不器用で、天邪鬼だ。

「命を救った」なんて大層な看板を背負うのを嫌がり、ただの「運が良かった酒飲み仲間」でいようとする。

それが、彼らなりの誠実さなのかもしれない。


私は空になったボトルを下げながら、こっそりと微笑んだ。

明日、先生は二日酔いで診療所のベッドから起き上がれないかもしれないけれど、きっとその顔は晴れやかだろう。


「空になった四つのグラスと、雨上がりの夜空に乾杯!」

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