肆
何かが、滲んで見える黒漆器の皿の上に落ちた。
「違う。別に、そういうわけじゃなくて。私は、真相を知りたくて、もう一度封印するために、ここへ来た。紙都とどうこうなりたいわけじゃなくて、紙都は好きだけど、そういうことじゃなくて、私は! 私はーー」
ふわりと花の薫りに包まれた。和花の手が、背中に回り、豊かな胸が密着した。
「無理に言葉にしなくてもいいんやない? 言葉にするからしんどくなることもきっとあるで。考えるんやなしに、感じるまま、思うがままに動くのも大事やで」
感じるまま? 思うまま?
「沙夜子は考えすぎなんや。会ったばかりで知らんことも多いけど、変なところで周りを気にしてるんとちゃうん? 自分の心の奥にある気持ち大事にしてないんやない?」
花の薫りに誘われるように、和花の言葉に解されたように沙夜子はここへ来た理由をこうなったきっかけを思い返していた。興味関心から始まったはずの怪異の追究は、過去と現在の事件とを結び付け、一つの確かな想いへと繋がっていく。
暗闇の先に背中があった。猫背気味の俯いたひどく寂しそうな背中が。少し目線を上げなければ視界に入りきらない大きな背中が。その背中は涙で滲んでしまっていた。
「そうだ、私。重ねていたんだ。あいつの、紙都の背中を、昔の私のーー違う、たぶんどこかで置いてきたはずの弱い自分を。だから、だから」
流れ落ちる涙がつかえて上手く喋ることができなかった。それでも、背中を押す温かな手に後押しされて沙夜子は言葉を紡ぐ。確たる想いを心に刻むため。
「私は、紙都の横に立っていたい」
堰を切ったように涙が零れ落ちていく。服を汚してしまう。お客さんが来たらどうしよう。そんな不安が浮かぶが、構わず涙は流れ続けた。突然現れた黒雲がにわか雨を降らすように。
幸いにも、沙夜子が泣き終わるまで誰かが店に入ってくることはなかった。和花から渡された花柄のハンカチで目の周りを拭うと、沙夜子は大きく息を吐き出し、すくっと立ち上がる。
「……あんな言葉どこで聞いたのよ」
和花が悪戯な笑みを浮かべる。
「バレてもうた? 高校の先生が言ってくれたんや。唯一、ウチの気持ち応援してくれた先生や」
「そんなことだろうと思ったわ。いくらなんでも大人すぎるもの。だけど、ありがとう。おかげでスッキリした」
ようやくここ一週間もやもやしていた気持ちがハッキリした。あとは、それを実現する手段を掴むだけ。
代金も払わずに上着を腕に引っ掛けて店を飛び出した沙夜子は、粉雪が降るなか目的地に向かって全速力で走り始める。大きなキャリーケースを何台も引き連れて歩く外国人観光客の集団が目を丸くしてその姿を追った。
ビルや昔ながらの瓦屋根が交雑する九条通りに沿うように、千本通、新千本通を抜けて、七本松通に入る。その先に他の建造物を圧倒するような大きさとオーラを纏った京極家が先の襲来にも負けずに変わらず佇んでいた。
沙夜子は、息を切らしながら格子状の門の前に立ち止まると、インターフォンを強く押した。すぐに聞き慣れた声が返ってきて、門が開くと同時に真っ直ぐ奥にある引き戸が開かれた。
「沙夜子さん、お帰りなさい」
戸の前に立った京極梓の元へ走り寄ると、挨拶をする前に頭の中にある言葉を捲し立てる。
「梓さん! 私に、私に結界陣を教えて下さい!!」
梓の目が細まった。まだ痛むはずの腹部に置かれていた手が白装束の胸元へと移動する。




