伍
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脚を大きく広げ、腰を落とす。足腰に力を入れて、肩と手には余計な力を入れない。狙うはこの一閃。掛け声とともに前方へ繰り出した一撃は、今までよりも速く、力強い、が。
「やめ!!」
という喝とともに頭がはたかれた。修行で使われる警策などではなく、打ち所が悪ければ十分に凶器となり得る木刀で。当然、鬼化の状態でなければ、重傷になり得るほどの衝撃が走った。
これで何度目か。数えられないくらい脳天を突かれ、さすがに焦燥感を感じざるを得ない。握った薙刀をくるりと回転させて身体の横へ密着させると、鬼神紙都は声の主の方へ振り返った。顔中に汗が噴き出している。
「何が、ダメなんですか」
赤い瞳は懇願するように潤んでいた。今の紙都の姿を見れば、誰も鬼とは思わないだろう。それくらいその瞳には憔悴の色が浮かんでいる。
「全部ダメだ! 構えも踏み込みも何もかもが甘い!!」
どちらかというと、こちらの方が鬼に見えなくもないだろう。剃り上げた頭と紫色の袈裟は僧侶のそれだが、常に張り上げる声に眉根を潜める怒り顔は、鬼、いや歴戦の格闘家のそれを思わせた。
日向静音は、木刀を肩の上に乗せたまま、禍々しい殺気をそのままに紙都を睨み付けた。
「もう一度だ」
すでに脚も腕もパンパンに張っていて動くのもやっとという状態だったが、仕方なく人形の標的に向かって薙刀の切っ先を定めた。
息を吐き出す。意識して身体全体を弛緩させ、力を入れるべきところに力を込める。一呼吸の後に、素早く踏み込む。
また、後ろから怒号が飛んだ。
自らを『僧兵』と自称する日向は、各地を転々として修行を続ける変わり者だった。列島各地で火の手が上がり、戦や内乱が日常茶飯事だった時代とは違い、表向きは泰平の世。僧兵などと名乗ること自体が異端で、一部から笑い者にされていたが、あらゆる武芸に通じているという、その腕前だけは確かだった。
初日の手合わせでも、鬼化していないとはいえ、紙都の剣戟を掻い潜り手刀で紙都を気絶させてその動きを止めた。その間、時間にして数秒。
水をかけられて目を覚ました紙都の腕を引っ張り無理矢理立ち上がらせると、その手に握らされたのは弓だった。
「やめ!! 休め!!!」
休憩の号令がかかると、重石のようになった身体が前のめりに落ちていった。
「紙都はんには、おそらく修行が必要なんやないかと思うんやけど」
「そうやね。したら、日向を呼んで稽古をつけはってもらったらいいんやない?」
京極家当主の鶴の一声で決まると、紙都は梓の案内で山を上った。京の北西に面する栂尾山にある高山寺だ。雪を被った灯籠や木々を横目に白化粧した石段を登った先に境内があった。境内の中心で座禅を組んでいたのが日向だった。その眼光が紙都へと向けられる。
肌寒さを感じて意識が覚醒した。倒れるくらいに身体を動かしていたとはいえ、作務衣だけでは真冬の寒さは耐えきれない。障子を開けているのだから尚更だ。
稽古が終わったあとには、こうして空気の入れ換えをするのが決まりになっていた。気を失っていなければ紙都がやるのだが、そんなことは滅多にないのでもっぱら日向が開け放していた。
山中にあるため、見下ろすその景色は素晴らしい。川を越えて延びる向こうの山までの景色が切り取られ、雪に埋もれた草木が冬特有の澄んだ空気を運んでくるようだった。もう少し早く訪れていれば、情緒豊かな紅葉が眺められたことだろう。
「気がついたか」
「はい」
日向は寒さで強張る紙都の表情が可笑しかったのか頬を緩めた。稽古でないときは、厳しさは若干和らぐ。
「こちらへ来い」
「は、はい」
隣に呼び寄せるなんて珍しいこともある、と訝しみながらも、おずおずと縁側へ座る日向の横へ腰を下ろした。凍てつくような寒気が押し寄せてくる。
「さ、寒くないんですか?」
「うん? そりゃあ、寒いよ。だけど、身に沁みるほどのこの寒さが、冬だろう」
それで会話は終了した。日向の視線は山の木々に注がれたままで動くことがない。沈黙に居心地が悪くなってきた頃、遠くで鳥が鳴いた。
「聴くとは、耳と目と心で聞くことだ」――修行の初日に日向が発したその意味は、寒さに震える紙都にはまだわからなかったが、ようやく一週間が過ぎようとする中、自然と対する安らぎが芽生えてきたのは確かだろう。
「人間は馴化が得意なんだ。環境が気に入られなければ作り変えることもできるしな。常に情報を追わなきゃいけないような忙しい環境にいるとな、たぶん、聴くことを忘れてしまう。そんなにいきり立って主張しなくても、本当は誰しもが音を発しているはずなんだが」
木々が揺れ、枝にどっさりと付いていた雪が地面へと落ちていく。風が少し強くなってきたようだった。手と足の先がひどく冷たい。
「だから、スマホも取り上げたんですか?」
「そうだ。便利なものだが、修行には邪魔だろう? 今は、身体の使い方を覚え、対象の声を聴く術を身につけるのが何よりも優先される。強く、なりたいのだったら」
「はい」
そう、ここには強くなりにきたんだ。妖怪を、あの酒呑童子を倒せる強さを身に付けるために。京極家での戦いは、偶然が重なってなんとか退けられたが、次に襲われたら、おそらくはきっと――。
「強張ってるぞ、身体が」
「あっ、はい、すみません」
無意識に握り締めていた手を開く。連日の稽古でできた豆が潰れて真っ赤な血が滲む。
「強さとはなんだろうな」
「えっ……」
「いや、なんでもない。お前が呼び出したという、あの刀のことがふと頭に浮かんでな。さあ、休憩は終わりだ。稽古を再開するぞ」
つい口から漏れ出そうになった溜息を呑み込み返事をする。強くなるのはもちろんのことだが、もう一つ。もう一度鬼面仏心を蘇らせなければいけない。その答えを見出すまでにどれだけ長い時間がかかるのか、想像するだけで足取りが重くなってしまった。




