参
ラウンジは、レストランとまた変わってホテルの外観から地続きのシンプルな造りだった。綺麗に手入れされているが、やや古臭いデザインのソファにテーブルを挟むように斜め向かいに座ると、セルフサービスの熱々のコーヒーに息を吹き掛けた。一階だからかやや肌寒く、紙コップを通してコーヒーの温かさがじんわりと広がっていくような気がした。
紙都は相変わらずオレンジジュースを飲む。
「そう言えば、こうして二人きりで話すのは初めて、よね?」
「そうだったっけ?」
「そうよ。だいたい誰か他の人がいたし、二人だったとしても妖怪と戦ってるときだったり」
「ああ、そうだ。沙夜子が妖怪に憑依されているときもあったな。……あれはもう、参った」
思い出したくもないとでも言うように頭を横に振るのを見て、何がどう参ったのか問い質してみたくなる。が、今話すことはそれじゃない。
(それはまた、いろんなことに決着がついたときにゆっくり聞こう)
コーヒーを啜ると、過去の記憶群へと思考を巡らせた。隠されていた記憶、忘れていた記憶、それら一つ一つが数珠のように線となって結ばれる。
「私は前にも、紙都のお父さん、鬼神怜強さんと御言さんに助けてもらったことがある」
沙夜子が話し始めたのは、自身が初めて体験した怪異に纏わる一番最初の出来事からだった。
今は亡き父から、「誕生日のプレゼント」として渡されたのは一冊の本だった。『妖怪スケッチ』と題されたその本は、当時はわからなかったが、民俗学の研究者だった父が執筆したものだった。
「私、文字を読めるようになったのは割と早くて、三歳くらいのときにはもうひらがなだけの本なら自分で読めていたの。それに感激したのか、四歳の誕生日にそんな専門書を渡されて」
さすがにまだ読めるわけがなかったから、沙夜子は自分の本棚にそっとその分厚い本をしまいこんだ。
「そんなことは忘れていたある日、家のポストに変な手紙を見つけたのよ」
「変な、手紙?」
沙夜子は小さく頷いた。それは母親が出掛けるときにつける口紅のように真っ赤な色をしていた。書かれているはずの宛名も、それどころか郵便番号も住所も書かれていないそれの裏を何気なく見やると、途端に倒れてしまった。ーー今ならそこに何が書いてあったのかわかる。
「そこには、『愛』という漢字がびっしりと書き込まれていた。血の色でね」
瞬間、その手紙が当時の感覚を伴って目の前に現れ、体が震える。
「異常なほどの高熱で、起きていられなかったんだと思う。地の底に引きずり込まれるように、意識がなくなってーー気がつけば、私は大きな腕に抱かれていた」
それは柔らかい線の父のものとは違って筋肉質な逞しい腕の中だった。うっすらとぼやけた視界が映し出したのは、畳。
少しひんやりとした手が慌ただしくも頻りに額を撫でてていた。
「その後、急に意識を取り戻して……本当に何にもなかったかのように。最初に見たのは、御言さんの憔悴しきった微笑み。そして、私の体を抱き締めてくれていた紙都のお父さんは、泣いていた。そしてーー」
紙コップを落とさないように両手でしっかり握って、喉に流し込む。感情が溢れすぎないように。
「そして、私のお父さんは死んでしまった」
カンッ、と静かに音を立てて紙都のオレンジジュースがテーブルに置かれる。心配そうに見つめるその双眸は、やはり御言のものに似ていた。
「大丈夫。それはもう、だいぶ前のことだから」
思い出したのは最近なのだけれど。それでようやく、今の状況に合点がいったのだ。
「それから。私は、怪異と呼ばれるものとか、オカルト現象に強く興味を引かれるようになった」
まずは、本棚に置いておいた父親の本を辞書を片手に読み、というよりも調べ始めた。もちろん辞書を引いたところで漢字の意味はさっぱりで母親に聞こうにも、言葉少なにも教えてくれていたものが、だんだんとあからさまに嫌がるようになっていったから、自分で解読していくしかなくなった。
並行して保育園、そして図書館で他の本も読み始めた。次第に漢字も読めるようになり、それぞれの文脈が有機的に結合していく。
「『妖怪スケッチ』っていうくらいだから、それぞれの妖怪の特徴やエピソードがまとめられていたのよ。ただ、詩的というか抽象的というか、吉良のよく読んでいるような図鑑的なものではないのだけど」
あえて例えるのならば霞みをそのまま文字に起こした、というような本だろうか。人間にとってみればつかみどころのない、得体の知れない妖怪というものをそのまま描写したような、そんな本だった。
「妖怪の記憶は、消されるわけではないんでしょ? だから、あのときの妖怪との接触が私の心の中に何らかの痕跡を残して、そんな強い関心を抱かせたんじゃないかって」
そっとコーヒーを口に運び、縁に付いた水滴を指で拭った。
「これは、憶測だけどね、私のお父さんは研究の過程で元々妖怪の存在を、実在するものとして知っていたんじゃないかって思うのよ。あの本は、だからこそ書けたんじゃないかって」
そしてだからこそ、母はあんなにも私の行為を頭ごなしに否定してきたんだ。
紙都は視線を動かすことなくずっと沙夜子の目を見つめて話を聴いていた。そのことに気がついて、そろそろ話をまとめなければと、過去の亡霊を追い出す。
紙都の後ろに映る窓の先には、先ほどよりも大粒の雪が降っていた。常闇を白く染め上げるようにひどく静寂に。
「『あんたは病気なのよ、狂ってる』って母に言われたわ」
紙都の眉が上がる。
「小学校のときには友達だと思っていたクラスメートが私の本を馬鹿にして『なにこれキモい』『あの子本当におかしいよね』って」
コップを握る手に力が入る。
「だから私は独りになった。だけど、それでも怪異を探し求めてきた。そして、紙都と出会ってオカルト研究部のみんなと出会って、今、ここにいる」
一気にコーヒーを飲み干すと、なるべく綺麗に見えるように笑顔を浮かべた。
「ここまで来たら最後まで知りたいでしょ? あのエロ犬だってこのままじゃ腹立つだけだし。だから、京へ一緒に行かせて」
ーー私はずっと横に立ってるから。
紙都は伸びた髪の毛のうしろを掻きながら黙考すると、「よし」と言って力強く頷いた。まるで自分に言い聞かせるようにも聞こえる。
「行こう。たぶん、沙夜子が言うように二人で行った方が向こうも話を聞いてくれるかもしれない」
長い前髪の奥から真っ直ぐに向けられた瞳には、心なしか光が宿っているように見えた。
顔に当たった初雪はすぐに解けて消えていった。赤いマフラーをきつく締め直す。「送るよ」と言われて外に出たことまでは嬉しかったのだが、夜遅くに人気もなく、それも雪が降るシチュエーションで、気恥ずかしくなってしまって何も話題が出てこなかった。そっちの方は何も考えていないーーわけではなかったが、二人きりで遠く離れた京へ向かうというのは、どういうことになってしまうのか。
「なあ、沙夜子」
「はい!?」
「どうした?」
「いえ、なんでもない……」
泊まるところをどうしようなんて考えていたなんて言えなかった。
「明日は寄りたいところがある」




