弐
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コーヒーカップからは入れたての湯気とともに芳ばしい香りが漂っていた。ホテル「ミナミヤナギ」は、古くからある老舗ホテルで値段もリーズナブルだが、料理と特にコーヒーの味に定評があった。なにせ、バイキング形式の夕食と言うのにコーヒーは必ずハンドドリップで淹れてくれる。それもバリスタの資格を持つオーナー自らが。
もう、時計は夜の九時を回ろうとしているのに、このコーヒー目当てに通う常連客でレストランはまだ賑わいを見せていた。ラストオーダーはもう終わり、残った食事が片付けられていくなか、皆、最後の一杯を時間をかけて愉しんでいる。
店内は割と広かった。ホテルの一区画としては赤茶色の煉瓦風の壁紙を、オレンジの灯りが客の陰をつくる程度に真上から照らしていて、初めて来たのにどこか落ち着く、居心地のいい場所だった。
(まあ、こんな状況でもない限り、地元のホテルには来ないわね)
柳田沙夜子は少し苦手なコーヒーをしかもブラックを口に含むと、あちこちに向けていた視線を鬼神紙都に向けた。紙都が注いだオレンジジュースは、すっかり氷が解けて明らかに水嵩を増している。
紙都は腹拵えを済ませると、両耳にイヤホンを装着して件の動画を再生していた。もう、何度目になるのだろう。繰り返し繰り返し、川瀬愛姫が襲われた動画を再生しては、その動画の撮影主、犬山蓮の挙動をチェックしている。そうして、溜め息を吐くのだ。
その辛そうな瞬間を見るのは、何度見ても慣れることはなかった。沙夜子の形のいい眉がきゅっと絞まり、下唇が軽く噛まれる。コーヒーの苦味を口に運ぶことでその気持ちを抑えていた。
蓮がオカルト研究部の皆の前から姿を消したのは、もう数日前だった。入れ替わるかのように寒波が到来し、凍てつくような厳しい寒さが押し寄せてきた。雪が降るまでがとても寒いのだ。
蓮が消えた理由は誰にも正確なことはわからなかった。蓮の両親には高校が休校になったから旅行に行ってくると出掛けたらしく、詳しい行き先は両親も知らなかった。ーーもしかしたら、本当の両親ではないのでは、というのは鎌倉の意見だったが、とにかく蓮はいなくなり、南柳高校も生徒達の暴動により再開の目処が経たない休校となり、紙都の身を寄せる場所がなくなってしまった。
休校が決定してからの数日間、沙夜子はなるべく紙都の傍にいることを密かに決めて行動していた。
残っていた鬼救寺の地下室の調査も、昼食や夕食も時間を共にした。さすがに同じホテルに泊まることは即座に断られたが、ホテルで別れて帰ってからも暗い部屋でパソコンと睨み合って情報収集に努めた。
端的に言うと、南柳市には混乱が始まっていた。百鬼夜行を封じていた封印が解けた頃から、徐々に異変は広がっていたが、それはまだ暗い闇の底の出来事に過ぎなかった。SNSやネットの中では、怪異の原因にその手の問題を取り上げるものも少なくなかったが、それでもまだ、おそらく元々オカルト現象に関心の高いものか、そうした現象を真剣に信じる者など少数派に過ぎなかった。
だが、今はもう違う。大手のネットニュースでも南柳高校休校のニュースはトップニュースとして扱われるようになり、テレビでは「集団幻想!」「コックリさん再び!?」などの討論が交わされるほどだった。妖怪の現象であるという真実は一日も経てば、オカルト研究部のメンバー以外には忘れ去られ、ただ「男子生徒の暴動」という結果のみが残ったために様々な解釈がなされ、ネットの世界ではさらに多くの解釈で溢れていた。
ほんの数ヵ月前に一人の女子生徒が自死し、次いで今回の事件では一人の生徒が病院送りにされた。(吉良のことだが)休校の背景について、あらゆる解釈が可能なのだが、もちろんそれを頻発する行方不明事件と結びつけ、妖怪の仕業だと断じる者も現れている。
異変はもうすでに、人間社会の表層を覆い始めていた。
カランッと、最後に残った大きな氷が音を立てて崩れる。やっとオレンジジュースに気が付いたのか、紙都は一度スマホの画面を消すと、イヤホンを外しながら硝子のコップを口に運んだ。
沙夜子は今日、どうしても話しておかなければ、いや、正しく言えば決めてもらわなければならないことがあった。
紙都に合わせて少し温くなったコーヒーを飲む。
「紙都。お願いがあるの。私も京へと連れていってほしい」
一息で捲し立てるように早口になってしまう。それが断られるのではないか、受け入れられないのではないか、という不安の裏返しであることを沙夜子は十分承知していた。
それでも、言わざるを得なかった。伝えないわけにはいかなかった。一緒に同じ時を過ごしていても、共有しているとは思えなかったから。
過去に受け入れられることのなかった嫌な記憶がちくりと胸を刺す。
紙都は驚いたように済んだ黒色の瞳を丸くしたが、何も言葉を発していなかった。きっと戸惑ってしまっているのだろう。覗き込むと吸い込まれそうな瞳が揺れる。
その様子を見て沙夜子は珍しく仏頂面を緩めて微笑んだ。無下に断られるわけではないと判断できたからだ。
「前も話になったけど、紙都が一人で御言さんの実家に乗り込んでも妖と見なされて捕まってしまうかもしれない、話を聞いてもらえないかもしれない。それよりも、私と一緒に行った方が話を聞いてもらえる可能性が高まる」
紙都はスマホをウッドテーブルの端へと移動させると、考え込むような目付きをしてオレンジジュースを飲んだ。
「……でも、危険だろ。見知らぬ土地だし、何が起こるかわからない。それに、これ以上巻き込むわけにはーー」
「危険なのはお互い様。それにもう、引き返せないくらい巻き込まれてるわよ!」
そうつい声を荒げてしまってから沙夜子は端と気がついた。
「いえ、巻き込まれたわけではないわ。そうじゃなくて、私は紙都に出会う前から、きっと怪異に翻弄されて生きてきた」
まだ幼さの残る少年の眉が上がる。
「どういうこと?」
「それはーーちょっと場所を変えない? ここももうすぐ閉店してしまうし、ラウンジの方に」
「いいけど、門限とか大丈夫なのか? もう、かなり遅い時間だけど」
当たり前のように気遣ってくれるのが嬉しかった。考えてもみれば、こんな時間に高校生の男女二人がここにいるのは、他人から見たらかなり異様に映ることだろう。私服姿だからまだ怪しまれていないが。
「大丈夫。ウチは基本的に放任主義の家だから」
二人は同時に立ち上がると、レストランを出てホテル一階のラウンジへとゆっくり歩いていった。途中のエレベーターから外を見れば、暗がりのなかにチラチラと白い結晶が舞い降りているのがわかる。
「雪、ね」
「ついに降ってきたんだ? これは寒そうだな」
「そうね。だけど、こう見るとすごく綺麗……。まあ、今シーズン初めて見たからかもしれないけど」
「そうだな。これくらいならまだいいけど、積もると雪掻きが大変で。あの寺やたら広かったからさ」
そう懐かしむように話す紙都の表情をチラリと窺うと、心なしか微笑んでいるように見えた。




