肆
そのあとすぐに吉良は帰った。飲み干した空のペットボトルをそのままに、「そろそろ紙都が帰ってくる」と言って。紙都は、あの事件以降、学校と蓮の家で寝る以外は、鬼救寺の地下室に置いたままの大量のメモを読み進めることに時間を費やしていた。その中でわかってきたことは、鬼神御言の旧姓が京極御言であり、京極家と呼ばれる妖怪退治専門の一族が京に住んでいること、そして鬼救寺の本尊であり南柳市の封印の要でもあった鬼面仏心が、かつて京でつくられたということである。
(……それを確かめるために風を使って簡単に移動できる鎌倉が各地の探索に向かった)
その鎌倉が探索を終えて明日南柳市へ戻るという連絡がオカルト研究部のグループチャットに送られて、緊急に会議が開かれることになったのだった。
鎌倉はグループチャットにいくつか報告を寄せてもいる。そこには、やはり南柳市以外にも怪異が多数報告されていること、京極家が頻発する事件への関与に消極的であることなどだが、それも含めて吉良はレポートにまとめることを命令されたために、パソコンと格闘しなければいけない事態に陥ってしまっている。
鎌倉から寄せられた怪異の詳細を改めて丹念に読み進めていた途中で、吉良はふと目線を上げた。
(同じ行方不明の事件でも、内容が違う)
いや、もちろん事件ごとに多少なりとも差異があるのは当たり前だが、吉良が注目したのは南柳市とそれ以外の違いである。
吉良は焦る気持ちを押さえながらブラウザを立ち上げると、件の掲示板、それからSNSに目を走らせた。
(……や、やっぱりそうだ。だとすると、妖怪はーー)
椅子が後ろに倒れるのも構わず、吉良は本棚に積み上げた本の中から妖怪辞典を取り上げて該当のページを探した。
(どこだ? どこだ!?)
ページを捲る手すら遅く、焦る気持ちばかりが膨らんでいく。もし、そうだとすれば妖怪の正体はかなり絞られることになるはずなんだ。
(あった!)
吉良が目的のページを探し当てたそのとき。丁度同じタイミングで窓が叩かれた。
「うわっ!」
驚きとともに本がカーペットの上へと落ちていった。そこに描かれていたのは、『川姫』と呼ばれる妖怪の姿。
「すまない。他に方法が思い付かなくてな」
いまだに怯えた目をした吉良に軽く頭を下げて謝罪の言葉を述べると、鎌倉は辺りを窺うようにーー特に部屋のドアの先へ目線を動かした。
「ど、どうかしたんですか?」
正直言って、吉良は鎌倉が苦手だった。直接何かされたわけではないが、紙都を痛めつけ、沙夜子を殺そうとしたという話を聞いて、少なからぬ恐怖心を感じたのがその理由の一つ。もう一つはーー。
「何もないのにお前のところに来るわけないだろう」
時折見られるこの不遜な態度だ。
鎌倉は風を起こす鎌を折り畳むと、先ほどまで蓮が座っていた座椅子へと断りなく座った。首元から真っ白な毛の鼬が顔を出す。その顔の白さ以外共通点はまるで見られない鼬が鎌倉と一緒に行動してることに、吉良は何度見ても違和感を覚えずにはいられなかった。
「今はお前一人か? 特に犬山蓮とかいう発情した犬みたいな男はーー」
(発情した犬って……)
「いないよ。蓮君なら一時間前ほどに帰った」
「それならいい」
小さく息を漏らしたその口が僅かに緩む。鎌倉はカーキ色の外衣のポケットから半分に割った林檎を取り出し、机の上に置いた。胸元からすぐに鼬が出てきて林檎を食べ始めた。
「さて、あまり長居はできないから単刀直入に話すが、これは時が来るまで絶対に口外してはいけない。特に、紙都にはな」
スイッチを切り替えたような冷たい視線に射抜かれて、吉良は頷くことしかできなかった。それが、どんな内容かも知らないままに。
鎌倉は身を屈めると囁くような小さな声でこう告げた。
「犬山蓮はただの人間ではない」
(……え?)
傾けた耳に飛び込んできた言葉を何度も反芻するが、それが何を指しているのか理解できるまで吉良の頭は回転していなかった。
「この国には、妖怪退治の勢力が二つある。一つが鬼神御言の出身である京極家、そしてもう一つ、京極家と双璧をなすのが犬山家だ」
「いぬ、やま、家……?」
「犬山なんてそうそういる名前じゃない。おそらく、この犬山家の出身と考えていいだろうと思う」
吉良は唇を軽く噛んだ。幼い頃からの癖だった。何度も窘たしめられているが、気持ちが動揺したときには出てしまう。確かに犬山は珍しい苗字だ。だけど、それだけでは蓮がその犬山だとは限らない。
「だったら変だよ。紙都君と一緒に住めるはずがない!」
「そう、そこだ」
鎌倉はサラサラとした長い黒髪を掻き上げると頬杖を突いた。
「犬山が本当に犬山家の人間だとしたら、半妖とはいえ、紙都と一緒に暮らすことに苦痛を感じるはず。それに犬山が了承しても、犬山の親までが快く紙都を家に招くとは思えない」
「だったら――」
「だからこそ、お前に話したんだ。犬山と仲が良い紙都や気性の荒いあの女では、すぐにバレてしまいそうだからな。あれから、いや、その前からでもいい何か犬山に変化はないのか?」
「変化?」
そんなものは何も感じなかった。いつも同じでエロくてマイペースでそれでいて周りをしっかり見ているような――。
「そう言えば……」
「なんだ! なんでもいいから言ってみろ」
「さっき、妖怪のことをどう思うか聞かれたんだ。僕は、普通に怖いって答えたんだけど、あのときの蓮君の顔は、なんていうか、いつもと違った……ような気がする。だけど、それは勘違いかもしれないし、なんでもないただの思い付きの質問かもしれないし――」
「いや、わかった」
鎌倉は切り捨てるように言葉を遮ると、折り畳んだ鎌を持って立ち上がった。慌てて、移動する鎌倉の肩にリンゴを持ったままの鼬が飛び乗る。
「邪魔したな」
開け放った窓から冷たい風が少し熱くなった身体を覚ましていく。窓の枠に足を乗せた鎌倉の細い背に後ろから制止の声が掛けられる。
「とにかくその時が来るまで黙っていろ。そして、用心しろ。どんな力か知らないが、犬山家の力は鬼神御言の結界のような甘いものじゃないらしい。一歩間違えれば、俺たちだけじゃなく、人間にも危険が及ぶかもしれない」
振り向くことなく言葉を並べると、鎌倉は外へと飛んでいった。そこにはただどこまでも吸い込むような夜の闇が広がっているだけだった。




