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第5話:検死結果と不穏な瞳

「ほう……。自ら毒入りのグラスを運んだと、そう認めるのか? ヴィヴィアン嬢」


ユリアン・フォン・ファルケンハインの放った声は、大サロンの豪奢な大理石の床を這うように冷たく、低く響き渡った。

その青い瞳は、まるで顕微鏡で獲物の細胞組織を観察する学者のように、私の一挙手一投足を逃さず捉えている。


サロンを支配するのは、凍りついたような静寂。

暖炉の中でパチリと弾けた薪の火の粉の音すら、誰かの耳朶を打つ銃声のように重苦しい。


セレスティーヌは青ざめた顔で両手を祈るように胸の前で握りしめ、エドガーは額の脂汗をハンカチで拭う手すら止めて息を呑んでいる。長椅子に腰掛けた未亡人フロランスは、黒いレースの扇子で口元を覆いながら、琥珀色の瞳を細めて私たちの舌戦の行方を値踏みしていた。


誰もが、私がこの場で取り乱し、弁明を重ねて自滅することを期待しているか、あるいは恐れていた。


だが――私の内側にあったのは、パニックなどではなく、澄み切った湖面のような絶対の静寂だった。


(予想通りの初手ね、監察卿。……その程度の揺さぶりで、私が崩れるとでも思って?)


私は背筋を凛と伸ばしたまま、あらかじめ計算し尽くした速度で、優雅に小首を傾げてみせた。

眉尻をわずかに下げ、悲しみと、そして理不尽な疑いを向けられた高潔な令嬢特有の「静かな矜持」を瞳に宿らせる。声のトーンは決して上擦らせず、鈴を転がすような澄んだ響きを保ったまま、サロンの全員の耳に届くよう滑らかに紡ぎ出した。


「お言葉が過ぎますわ、ユリアン卿。『毒入りのグラス』とお決めつけになるのは、いささか早計ではございませんこと?」


「早計だと?」

ユリアンは組んだ両手の指先をわずかに動かし、冷笑を深めた。

「書斎に残されたブランデーのグラス、その中身を口にした後に侯爵が絶命しているのだぞ。給仕した君が毒を盛ったと疑われるのは、論理的帰結というものだ」


「いいえ、卿のその推理こそ、論理の飛躍というものですわ」

私は微塵も引かず、まっすぐに彼の怜悧な視線を受け止めた。

「もし私が、お父様に害意を抱いて毒を盛るつもりでしたら……なぜ自らの手で堂々とグラスを運び、こうして全員の前で名乗り出るような真似をいたしますの? マルタに使用人を通じて届けさせるか、あるいは最初から『自室でずっと読書をしておりました』と嘘を吐く方が、遥かに安全ではありませんこと?」


私の理路整然とした反駁に、円卓を囲む面々の空気がわずかに揺らいだ。

「確かに……」とテオドール医師が小さく呟き、フロランス夫人も扇子の奥で頷く気配を見せる。


私は間髪を入れず、言葉の楔をもう一本打ち込んだ。


「私が申し上げたのは、ただ一つの事実――二十一時四十五分にお父様へブランデーをお届けした、ということだけです。その時点では、お父様は何の苦しみもなくグラスを受け取り、一口召し上がって私を下がらせました。お酒に毒など入っていなかったからこそ、私は良心の呵責もなく、こうして堂々と皆様の前でお話しできるのですわ。……それとも卿は、親孝行の給仕をしただけの娘を、証拠もないまま犯人に仕立て上げたいとおっしゃるのですか?」


完璧なカウンター。

「堂々と名乗り出た事実」そのものを「潔白の根拠」へとすり替える、マダミスにおける定番のレトリック。

やましい心がある人間ほど隠蔽に走り、潔白な人間ほど自らの行動を包み隠さず開示する――その心理的バイアスを、私は完璧に突いてみせたのだ。


ユリアンは数秒の間、値踏みするように私の瞳を覗き込んでいたが、やがてふっと鼻を鳴らし、机の上の羽ペンを弄んだ。


「……口の減らない令嬢だ。感情論に訴えかけるでもなく、己の開示行動そのものを論理の盾に仕立てるとはな」

「事実をお伝えしているだけですわ」

「いいだろう。君のその『潔白の主張』が真実か否かは、客観的な事実が証明してくれるはずだ」


ユリアンはそこで私への追及を一度打ち切ると、視線を円卓の向かい側へと移した。

「テオドール医師。貴様が先ほど行っていた、遺体の簡易検死の結果を報告してもらおう。死因と死亡推定時刻、そして毒物の作用機序だ」


矛先を外されたテオドールが、びくりと肩を震わせて立ち上がった。

彼は往診カバンから一枚の羊皮紙を取り出し、眼鏡のブリッジを何度も指で押し上げながら、咳払いを一つした。


「は、はい……。先ほど書斎にて確認いたしました、閣下のご遺体の所見を申し上げます」


テオドールは緊張のあまり掠れた声で、手元のメモを読み上げ始めた。


「まず、外傷の有無についてですが……先ほども申し上げた通り、致命傷となるような刺創、打撲痕、あるいは防御創の類は一切認められませんでした。争った形跡はなく、着衣の乱れも最小限です。ただし……首筋に、何かに擦れたような極めて薄い表皮剥離が一本だけ確認されましたが、これは死因とは無関係の死後変化、あるいは日常的な小傷と推測されます」


(首筋の擦過傷……。エドガーが短剣を抜いて脅そうとした際か、あるいはパニックで逃げる際に掠った傷ね)

私は心の中でメモを取りながら、平然とした顔で聞き入る。


テオドールは言葉を切り、唾を飲み込んでから続けた。


「重要なのは、ご遺体の循環器系および粘膜の状態です。閣下の唇は、血の気を失って蒼白となっているだけでなく……表面に、微かな銀白色の変色、粉末が焼き付いたような結晶状の沈着が認められました。さらに、眼球結膜の溢血点、ならびに末梢血管の急激な虚脱状態から見て……死因は、心臓のポンプ機能が急激に停止したことによる『急性心不全』と断定できます」


「心不全……」セレスティーヌが震える声で復唱する。


「ええ。ですが、これは老衰や持病による自然死ではありません」

テオドールの声が、一段と重苦しく沈んだ。

「死後硬直の進み方が異常に早く、すでに顎関節および指関節に強度の硬直が発現しております。これは、生体に劇的なショックを与え、一瞬にして心筋を麻痺させるような特殊な毒物――恐らくは、極めて毒性の高い鉱物系、あるいは重金属系の遅効性劇薬物が投与された可能性が極めて高い」


サロンに、冷たい戦慄が走った。

毒殺の事実が、医師の医学的見地によって公に確定したのだ。


「……死亡推定時刻は」

ユリアンが、紙面にペン先を走らせる準備をしながら、端的に問うた。


テオドールは手元のメモを指でなぞり、慎重に言葉を選んだ。


「ご遺体の直腸温の低下度合い、ならびに硬直の進行速度、そして角膜の混濁状態を総合的に判断いたしますと……死亡時刻は、昨夜二十二時十五分から、二十二時四十五分の間。この三十分の幅のどこかで、閣下は息絶えられたと見るのが妥当です」


(――完璧)


私は扇子の下で、密かに小さく息を吐き出した。

私の脳内で、物理的なタイムラインの歯車が、狂いなく完全に噛み合った。


私がブランデーに溶かし込んだ「蒼鉛の雫」は、摂取してから血中を巡り、心臓の冠動脈を完全に閉塞させるまでに、正確に四十五分を要する無味無臭の鉱物毒だ。

私が毒入りのグラスを侯爵に手渡し、彼がそれを一口煽ったのは、二十一時四十五分。

四十五分後――すなわち、二十二時三十分ジャスト。

テオドールが弾き出した「二十二時十五分から四十五分」というタイムウィンドウの、まさにど真ん中。完璧な正解(キルタイム)だ。


さらに、テオドールが指摘した「唇の銀白色の変色」。

これも私の計算の内だった。

テオドール自身が侯爵に処方していた重度の睡眠薬には、微量の銀塩化合物が含まれており、過剰摂取した際には唇に酷似した変色を残す副作用がある。

医師自身が「毒物によるものか、それとも自分が処方した薬の残滓か」を判別しきれず、曖昧な表現に終始せざるを得ないように、私は毒物の選定を行っていたのだ。


医学的な観点からも、物理的な時間軸からも、私を特定できる決定的な綻びは一切生じていない。


――そう、私の計画は、どこまでも完璧だった。

そして、その完璧な盤面に、あらかじめ私が仕掛けておいた「火薬樽」が、まさにこの瞬間、信管に火をつけたのだ。


ガチャンッ……!!


静まり返ったサロンに、耳障りで激しい陶器の破壊音が響き渡った。


一同の視線が、円卓の端へと一斉に弾け飛ぶ。

給仕された温かいハーブティーのカップ。

それを震える手で持っていた私の婚約者、エドガー・フォン・ハルデンベルクが、ソーサーの上でカップを激しく打ち鳴らし、中身の琥珀色の液体をテーブルクロス一面にぶちまけていた。


「エ、エドガー様……!?」

隣に座っていたセレスティーヌが、悲鳴を上げてドレスの裾を引く。


だが、エドガーには義妹の声など届いていなかった。

彼は総毛立った猫のように肩を怒らせ、椅子から半ば腰を浮かせた姿勢で、テオドール医師を血走った目で見開いていた。

その顔からは完全に血の気が失せ、土気色を通り越して幽鬼のように青ざめている。唇は痙攣し、顎からは大粒の脂汗がボロボロと零れ落ちていた。


「に……二十二時……半頃、だと……!?」


喉の奥から絞り出されたような、引きつった掠れ声。

エドガーは両手で自らの頭を抱え込むようにして、狂乱寸前の目でテオドールを凝視していた。


「ば、馬鹿な……そんなはずがあるか! 二十二時半だと!? その時間に……その時間に、父上がもう死んでいたというのか!? 嘘だろ……そんな、そんな馬鹿なことがあってたまるかよ……!!」


異様だった。

誰がどう見ても、それは「父親の死にショックを受けた娘婿」のリアクションではなかった。

自らが犯した罪、あるいは自らが目撃してしまった「決定的な光景」と、医師が告げた死亡時刻が致命的に交差してしまった人間にしか出せない、剥き出しのパニックだった。


サロンの全員の視線が、冷たい氷の矢となってエドガーへと突き刺さる。


ユリアンの青い瞳が、獲物の急所を捉えた猛禽のように、鋭く細められた。

未亡人フロランスは、扇子の陰で「あらあら」と嘲笑を浮かべてエドガーの醜態を眺め、マルタは怯えたように目を丸くしている。


(……釣れたわね、哀れな未遂犯さん)


私は胸元でそっと指を組み、冷徹な観察者の視点でエドガーの崩壊を見つめていた。


エドガーの頭の中のパニックは、手に取るように分かる。

彼は昨夜二十二時四十五分、借金の帳消しを迫るため、懐に短剣を忍ばせて書斎へと侵入したのだ。

そして、机の上で動かなくなっている侯爵の姿を見て、恐怖のあまりカフスボタンを落として逃げ出した。


エドガーはずっと怯えていたのだ。

「もしかして、自分が部屋に入った時、父上はまだ生きていたのではないか?」

「自分が脅そうとして抜いた短剣のせいで、ショック死したのではないか?」

「あるいは、自分が何か見落としていて、自分が殺したことになっているのではないか?」――と。


だが今、テオドール医師の口から「死亡推定時刻は二十二時十五分から四十五分、死因は毒殺」と告げられた。

それはエドガーにとって、「自分が毒殺犯として疑われる決定的な時間帯に、現場へ侵入していた」という事実を突きつけられたに等しい。

しかも、彼は先ほどのタイムライン申告で「終始自室で寝ていた」と真っ赤な嘘を吐いてしまっているのだ。


もし二十二時四十五分の侵入が露見すれば、嘘をついて現場に入り込み、毒殺の推定時刻の直後に逃げ出した男――すなわち「真犯人」として、満場一致で処刑台へ送られることになる。


エドガーの脳内は今、恐怖と焦燥で完全に焼き切れていた。


「……ハルデンベルク卿」

ユリアンの氷のように冷徹な声が、エドガーの荒い呼吸を切り裂いた。

「二十二時半という時刻に、何か不都合でもあるのか? 貴様は夕食後からずっと自室で寝ていたと申告したはずだが……なぜ、他人の死亡時刻にそこまで取り乱す必要がある」


「ひっ……!」

エドガーは喉を詰まらせ、弾かれたように顔を上げた。

ユリアンの冷たい視線、周囲の冷淡な眼差しに晒され、自分がどれほど致命的な醜態を晒したかにようやく気づいたのだ。


エドガーは震える手でナプキンを掴み、額と首筋の脂汗を滅茶苦茶に拭いながら、甲高い裏返った声で喚き散らした。


「な、なんでもない! なんでもないんだユリアン卿! 俺は……俺はただ、驚いただけだ! 父上ほどの屈強な方が、そんな……二十二時半なんて早い時間に、苦しまれて亡くなられたのかと思ったら、胸が痛んで……! そう、胸が張り裂けそうになっただけだ!!」


誰の耳にも、それが苦し紛れの拙劣な言い訳であることは明白だった。

セレスティーヌですら、婚約者であるエドガーのその見苦しい姿に、かすかな怯えと失望の混じった視線を向けている。


(いいわ、エドガー。最高よ)


私は扇子の下で、冷酷な笑みを深めた。

彼は自ら、全身にガソリンを被って火の粉の舞う戦場に躍り出てくれたのだ。

あとは、私が適切なタイミングで火種を投げ込んでやるだけでいい。


彼が現場に落としていった「銀のカフスボタン」は、今も私の左の隠しポケットの中で、冷たい復讐の時を待っているのだから。


「……見苦しい弁明だな」

ユリアンは吐き捨てるように呟き、手帳に冷徹な筆致で何かを書き留めた。

その視線には、エドガーへの強烈な疑念と、侮蔑が色濃く刻まれていた。


サロンの空気が、完全にエドガーという「最も怪しい獲物」を中心にして軋み始めた、その時だった。


キィィィィン……と、耳鳴りのような澄んだ魔力音が、再びサロンの空間を震わせた。


天井の審問領域が淡く明滅し、全員の掌の上に、真鍮色に輝く奇妙な金属片が、音もなく実体化していく。

冷たい金属の重みが、私の掌にも三枚、確かに伝わってきた。


『全体議論フェーズ1、終了間際』

『これより――【証拠調査トークン】の付与を行います』


審問領域の無機質なシステムアナウンスが、次なる地獄のフェーズを告げていた。

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