第3話:名探偵の冷徹な采配
書斎に落ちた沈黙は、研ぎ澄まされた氷の刃のように冷たく、張り詰めていた。
「……誰が運んだ? 最後に侯爵にこの酒を給仕したのは、誰だ」
ユリアン・フォン・ファルケンハインの青い瞳が、執務机の上のクリスタルグラスから、ゆっくりと私へと向けられていた。
その視線には、明らかな探るような光が宿っている。
彼ほどの観察眼を持つ男なら、机の上のグラスに残る琥珀色の液体がまだ濁りきっておらず、部屋の寒気に晒されてからそこまで長時間が経過していないことくらい、瞬時に見抜いて当然だった。
私の心臓が、肋骨の内側で小さく跳ねる。
だが、表情の筋繊維一つ動かさない。
ここで動揺を見せれば、その瞬間に「答え」を与えてしまうことになる。
「ユリアン卿」
私は胸元で両手を重ね、愁いを帯びた完璧な淑女の声音で、静かに言葉を紡ぎ出した。
「お父様は執務中、お酒をお求めになることが度々ございましたわ。給仕を担当した者が誰であるかは、屋敷の者全員に確認しなければ分かりません。……このような凄惨な現場で、当てずっぽうの当てこすりをするよりも、階下で待つ者たちを含めて正式にお聞きになるのが筋ではありませんこと?」
私の反論に、ユリアンの眉がわずかにピクリと動いた。
彼は反論の論理そのものを精査するように、数秒間、私を値踏みするような眼差しで見つめる。
「……ふん。もっともらしい理屈だな」
ユリアンは短く息を吐き、手袋をはめた指先で机の天板をトンと叩いた。
「いいだろう。誰か一人の曖昧な供述をここで拾い上げるより、全員を同席させて言質を取る方が、偽証の綻びを暴きやすい。……全員、サロンへ戻るぞ。現場の保全を優先する」
ユリアンが身を翻し、大股で書斎の扉へと向かう。
その後ろ姿を見送りながら、私は密かに肺の中の冷気を吐き出した。
(――危ない危ない。初動で一対一の尋問に付き合うほど、私はお人好しじゃないわ)
左の隠しポケットの中には、先ほど回収したエドガーの銀のカフスボタン。
右の隠しポケットには、猛毒『蒼鉛の雫』の空小瓶。
両脇に二つの爆弾を抱えたまま、私はローレンスにエスコートされる形で、再び重苦しい階段を下りていった。
深夜二十三時五十五分。
白亜館、大サロン。
暖炉の赤々とした炎が薪を爆ぜさせる音だけが、広大な部屋に響いていた。
窓の外を遮断する「審問領域」の青白い魔術結界は、時折パチパチと微細な火花を散らしながら、外界との境界を完全に拒絶している。
部屋の中央、豪奢な円卓を囲むようにして、屋敷に居合わせた八名の男女が集まっていた。
席に着いている者たちの顔色は、一様に悪かった。
「お父様は……本当にお亡くなりになったのですか……?」
セレスティーヌが、祈るように組んだ手を小刻みに震わせながら、縋るような瞳で戻ってきた私たちを見上げる。その瞳には涙が溜まり、今にも零れ落ちそうだった。
「ああ、残念ながらな」
テオドール医師が重々しく首を横に振り、往診カバンを空いた椅子の上に置いた。
「ご遺体はすでに冷たくなり始めておられる。外傷はほとんど見当たらず……おそらくは、急性の心不全か、あるいは劇薬物による中毒死の可能性が高い」
「毒……!?」
セレスティーヌが息を呑み、両手で口を覆う。
「まあ、恐ろしいこと」
長椅子に深く腰掛けていた未亡人、フロランス伯爵夫人が、黒いレースの扇子をゆったりと揺らしながら呟いた。
彼女の濡れたような黒髪と白い肌は妖艶そのものだが、その瞳の奥には微塵の動揺もない。
「猛吹雪で外界と閉ざされたこの館で、当主が毒殺だなんて。……ということは、わたくしたちの中に、恐ろしい殺人者が紛れ込んでいるということになりますわね?」
「ふざけるな! 誰が人殺しなどと!」
円卓の端で、エドガーが荒々しく立ち上がり、テーブルを拳で叩いた。
彼は書斎から戻ってきて以来、一度も椅子に深く腰を下ろせていない。額に浮いた脂汗をハンカチで拭いながら、血走った目で周囲を威嚇するように睨みつけている。
「外部の者が侵入したに決まっている! 裏口から賊が忍び込み、父上を毒殺して金品を奪ったんだ! なぜ屋敷の人間を疑う必要がある!」
「見苦しいぞ、エドガー・フォン・ハルデンベルク」
低く、しかしサロンの隅々にまで徹る氷のような声が、エドガーの怒声を両断した。
口を開いたのは、円卓の上座に立ったユリアンだった。
ユリアンは外套のボタンを一つ外し、手袋を脱いでテーブルの上に置いた。
その洗練された指先、端正な顔立ちから放たれるのは、貴族の優雅さではなく、容赦なく罪人を断罪してきた「国家の刃」としての威圧感だった。
「この白亜館を覆っているのは、古代遺構の魔術結界『審問領域』だ。この結界は、城の敷地内において『領主権を持つ者』が不自然な死を遂げた際、その魂の無念に呼応して自律起動する。……そして、起動した時点で結界内に存在していた者以外の出入りを、分子レベルで完全に遮断する。外部からの侵入者など、物理的に存在し得ない」
ユリアンの冷徹な宣告に、エドガーは喉を詰まらせ、言葉を失って椅子に倒れ込んだ。
「さらに」
ユリアンは視線を巡らせ、全員の顔を順番に見据える。
「審問領域が展開された以上、我々全員の網膜に『ハンドアウト』と称される役割とルールが刻まれているはずだ。……違うか?」
その言葉に、誰も反論できなかった。
セレスティーヌが肩を震わせ、テオドールが苦い顔をし、フロランス夫人が意味深に口角を上げる。
全員が、自らの視界に浮かび上がった青白いシステムメッセージを見ているのだ。
各々の秘密、各々のミッション、そして――翌朝六時の最終投票による「処刑」の宣告を。
「状況は極めてシンプルだ」
ユリアンは感情を一切交えず、淡々と盤面を規定していく。
「我々の中に、侯爵を殺害した真犯人がいる。そして結界の法則に従い、翌朝六時までにその犯人を特定し、最多得票を投じて執行させねばならない。同票の場合は決選投票。もし真犯人を逃せば……真犯人以外の全員が、審問領域のペナルティによって魂を砕かれることになる」
サロンに、息を呑む音が重なった。
死の宣告。全員の命を天秤に載せたデスゲームの宣言。
だが、ユリアンの態度はあまりにも平静だった。まるで、法廷で日常的な審理を取り仕切る事務官のように、機械的な冷徹さで場を支配している。
(……この男、完全に『ファシリテーター(進行役)』のポジションを取りに来たわね)
私は円卓の席に腰を下ろしながら、扇子の下で冷ややかにユリアンを観察していた。
マダミスにおいて、進行役を買って出るプレイヤーには二種類いる。
一つは、自分の発言権を強めて場を混乱させようとする犯人。
そしてもう一つは――圧倒的な推理力と論理的思考に自信を持ち、他人の嘘をシステマチックに解体しようとする「ガチ勢の探偵役」。
ユリアンは、紛れもなく後者だ。
しかも、中途半端な推理マニアではない。司法卿としての実務経験に裏打ちされた、容赦のない情報統制と演繹的推論の使い手。
(手強い。……想像以上に、厄介な相手だわ)
彼を感情論で言いくるめることは不可能だ。
「信じてください」だの「私のような非力な令嬢にそんな真似ができるはずありません」だのという泣き落としは、ユリアン相手には1ミリも通用しない。そんな戯言を口にした瞬間、「論理的根拠を欠く感情的主張は、やましい事実を覆い隠すための陽動と見なす」と切り捨てられるのが関の山だ。
ならば、どうするか?
(戦わないことよ。……ユリアンの頭脳と真っ向からぶつかって、彼を論破しようとしては駄目)
私のマダミス廃人としての経験が、明確な解を導き出す。
ユリアンのような論理派を攻略する唯一の方法は、「彼自身の頭脳を利用すること」だ。
彼は論理の奴隷だ。提示された前提条件と証拠が正しければ、必ず「正しい結論」を導き出してしまう。
ならば、彼に与える「前提のピース」に、ほんのわずかな歪みを混ぜてやればいい。
彼が自らの鋭利な推理力を駆使して、自信満々に突き進んだ先が――あらかじめ私が用意しておいた「エドガーという名の処刑台」であるように、盤面を設計する。
誘導尋問に引っかかるのではない。
こちらから、彼に「誘導尋問を仕掛けさせる」のだ。
「では、初動の事実確認から始める」
ユリアンの冷たい声が、私の思考を現実へと引き戻した。
彼の視線は、円卓の隅で小さくなっていた初老の女性――家政婦長マルタへと向けられていた。
「マルタ。君が第一発見者だな」
「は、はい……はい、ユリアン卿……!」
マルタは縋るように顔を上げた。三十年屋敷に仕えてきた気丈な家政婦長の面影はなく、その顔は涙と恐怖でぐしゃぐしゃに崩れていた。
「私……私、旦那様に夜食をお届けにあがったのです。いつも通り、二十三時を回った頃に厨房を出まして……トレイに温かいポタージュとパンを載せて、二階の書斎へ……」
「時刻は?」
ユリアンが事務的に遮る。一切の同情を挟まない、機械のような問いかけ。
「時計は確認したか」
「は、はい! 書斎の前の大時計が、二十三時十五分を打つところでした! 間違いありません!」
「部屋の扉の状況は」
「ノックを、三度いたしました。ですが、中からお返事がなくて……旦那様はご執務に集中されますと、お返事をなさらないこともございましたので、失礼を承知で『旦那様、夜食をお持ちいたしました』とお声をかけて、ノブに手をかけました」
「鍵はかかっていたか?」
「いいえ! 開いておりました! ノブを回すと、すんなりと扉が開きまして……」
マルタは胸を押さえ、過呼吸気味に息を吸い込む。
「中に入りましたら、暖炉の火がほとんど消えかけておりまして、部屋の中がひどく寒かったのです。机の上のランプだけが灯っていて……旦那様が、机の上に突っ伏しておいででした。お声をかけても動かれず、肩に触れましたら……氷のように、冷たくなっておられて……! ああっ、旦那様……!」
マルタが再び泣き崩れる。
だが、ユリアンの表情筋はピクリとも動かない。
彼はマルタの泣き顔ではなく、彼女の「喉の動き」「手の震え」「視線の彷徨い方」を、猛禽類のような鋭い眼光でスキャンしていた。
(……観察している。証言の辻褄だけでなく、身体反応から嘘の兆候を探っているのね)
私は背筋に微かな緊張を走らせながら、ユリアンの尋問術を見守っていた。
マルタの証言に、明らかな虚偽はない。
彼女が遺体を発見したのは二十三時十五分。
私が毒を盛った二十一時四十五分から、一時間半が経過している。
その間に、侯爵は絶命し、エドガーが忍び込み、そして死体が冷たくなっていった。
物理的なタイムラインに、何の矛盾も生じていない。
「部屋の照明は、机のランプ一つだけだったのだな」
ユリアンが淡々と確認する。
「はい……壁の燭台の火は、すべて消えておりました」
「机の上に、何か不審なものはあったか。書類の乱れや、争った形跡は」
「書類は……机の上に散らばっておりました。ですが、旦那様は普段から書類を散らかして執務をなさる方でしたので、荒らされたのかどうかまでは……あ、ただ……」
マルタが何かを思い出したように、眉をひそめた。
「ただ、何だ」
ユリアンの声がわずかに低くなる。聞き逃す気は毛頭ないという響き。
「……机の端に、ブランデーのグラスが置かれておりました。底の方に、少しだけお酒が残っていて……」
マルタの視線が、おどおどとサロンの面々を巡る。
「旦那様は、夜遅くにブランデーをお召し上がりになることがございました。ですが、今夜は……私が厨房でお茶を用意していた際には、お酒のご注文は承っていなかったはずでして……」
その言葉が出た瞬間、サロンの空気がわずかにざわついた。
テオドール医師が眼鏡の奥の目を細め、フロランス夫人が扇子の動きを止める。
(来たわね)
私は膝の上で指を軽く組み、静かに呼吸を整えた。
マルタが「自分がブランデーを運んでいない」と証言した。
ならば、次に浮上する疑問は一つしかない。
――では、あのグラスを誰が運んだのか?
ユリアンが、ゆっくりと視線をマルタから外し、円卓を囲む私たちへと向け直した。
その瞳には、先ほど書斎で私に向けたものと同じ、冷徹な追及の光が宿っている。
だが、彼はまだ特定の誰かを名指しすることはしなかった。
ここで拙速に一人を問い詰めるよりも、全員のタイムラインを網羅的に引き出し、証言の食い違いという「確定的な矛盾」を炙り出す方が、論理的に確実だと判断したのだろう。
手練れのプレイングだ。どこまでも隙がない。
ユリアンは上着の内ポケットから、真新しい羊皮紙の束と、黒いインクが充填された魔導羽ペンを取り出した。
サラサラと、テーブルの上に羊皮紙が広げられる。
その白い紙面の上部に、彼特有の几帳面で鋭利な筆跡で、一つの見出しが書き込まれた。
『タイムライン:事件当夜』
ペン先が紙を擦る硬質な音が、静寂のサロンに響く。
ユリアンは羽ペンを立て、氷のような冷笑を浮かべながら、円卓の全員を見据えた。
「第一発見者の状況は把握した。侯爵が死亡していたのは二十三時十五分。……だが、テオドールの見立て通り毒殺であるならば、犯行はその遥か前に行われていたはずだ」
ユリアンの青い瞳が、獲物を捕らえる檻の鉄格子のように、私たちを取り囲む。
「では――全員のタイムラインを整理する。昨夜二十一時三十分から、死体が発見された二十三時までの行動を、順に述べてもらおう」
ゴオオオン……と、屋敷のどこかにある大時計が、深夜零時を告げて重く鳴り響いた。
制限時間、残り六時間。
私の嘘と真実を編み込んだ、最初の防衛戦が始まろうとしていた。




